北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第107回 通州・白将軍胡同(その二) 【寄り道編】 電信柱と通州の深い関係、そして北京へ(1)

2016-08-04 16:26:01 | 通州・胡同散歩
地図を眺めていると楽しくなってしまいます。
たとえば自分の住んでいる街に関係する古い地図。
街の移り変わりや昔の街の様子が分ったり、思いもよらぬ発見があったり。

次の地図は、私が住んでいる通州区に昔あった通州城。1883年(光緒九年)の
もの。



ご覧のように城壁だってちゃんとあったのです。なんか感激してしまいます。
この城壁は、モンゴル軍からの攻撃に備えて造られたそうです。


文殊塔とあるのは、今もその姿が凛々しい燃灯仏舎利塔。


西海とあるのは、通州っ子たちの憩いの場・西海子公園。

今はもうないけれど、今も残る北大街には当時の人々に時を告げた鼓楼だって
ちゃんとあったのです。(どうよ、すごいだろ!!)



ここで1959年頃の鼓楼をご紹介。ずいぶん傷んでいますが、貴重な記録です。
通州の歴史の一端を物語っていると私には感じられます。1968年に取り壊されたそうです。



その鼓楼を想い出しながら、
「取り壊して、惜しいことをしたなァァ」と胡同在住のお一人が言っていました。
「もう一度造っちゃいますか? 」私はけっこうマジで考えましたよ。

大関廟とあるのは関帝廟。あの関羽を祭った廟です。



そして、この地図は、通州にも科挙の試験会場・貢院もあったことを教えてくれます。



胡同を歩いている私にとってとりわけ興味深いのは、胡同関係の本にも載っていない「老倉胡同」
という胡同があったこと。時代は分らないけれど、おそらく南方から舟でやってきた物資の倉庫に
ちなんだ名前だと思います。しかも、その名前から通州城が築かれた頃に使用していた倉庫ではな
いかと思われます。



ところで、この老倉胡同を眺めていて「ん?」と首をかしげるものがありました。
老倉胡同の西側、西海の東側に見える「潞河馹」とあるそれです。



「潞河(luhe)」は通州の古名なので問題はないのですが、それに続く「馹」(文字化けを予想して
書きますと馬偏に日)と言う字の読みも意味も私には分りませんでした。
そこで、我ながらマメだなぁぁと思いながら「新華字典」を引いてみました。すると、読み方は
「ri」の第四声、意味は「古代駅站用の馬車」。また、同字典には「〜站」とあり、「馹站」と
いう言葉のあることが分りました。

読み方が分ったので、さっそく「潞河馹」をパソコンで検索してみました。すると、この「潞河馹」
が通州の歴史・文化にとって大切なものであることは分るのですが、「潞河馹」についての説明が
まったくなされておりません。うーん???

そこで、もう一度「新華字典」に戻り、確認してみたのですが、「古代駅站用の馬車」という説明
では違います。そもそも時代は古代ではないし、それに誰が見ても「潞河馹」は「馬車」ではなく、
建物、何かの施設だったと思われるからです。

次に同書に載っている「~站」、つまり「馹站」という言葉に目をつけ、この「馹站」の「站」と
いう言葉を眺めていると、この言葉からの連想で「ひょっとして、ここは説明の中にある駅や駅站
そのものだったんじあないか」と思いつきましたね。急いで中国のオンライン百科でこの「馹站」を
検索してみると、やりました、ありました!!「馹站」イコール「駅站」と書かれたものが。
そして、さらに「駅站」などについても調べてみたのですが、その途中で「駅伝」や「郵駅」などに
ついても知ることができ、たいへん勉強になりました。そこで、いろいろ調べてみた結果、私なりに
次のような結論を出してみました。

ひと口に「駅站」と言いましてもその用途・機能や呼び名が違っていたようで詳しく説明していると
話しが複雑になりますので細かいことは省略いたします。
「馹」とは駅站名の一つで、「潞河馹」とは政府や軍事関係の文書を運ぶ人や馬が休息したり、馬を
交換したりする通信施設だったのではないか。

なお、ついでに、ここで使用している「駅」及び「駅站」という言葉が、昔、通州城の東水関の城外近く、
運河沿いにあったと言われる「潞河駅」の「駅」とは、その用途が違っていることをお断りしておきます。
この「潞河駅」は清の康煕三十四年(1695年)まで運河沿いにあったもので、運河を利用してやって来た
北京に向かう外国使節のための施設だったようです。康煕三十四年に同じ通州区内の「張家湾」にあった
「和合駅」に移転。この「張家湾」には今も城壁が遺っているんですよ。前に当ブログでご紹介した琉球
人は、この張家湾の和合駅にやってきたのではないかと思われます。

次に「潞河駅」についての記事を重複部分もありますが、二つ貼りました。ご興味のある方はご覧下さい。
記事内に見える「通州志」とは、調べたところ具体的には光緒時代のものを指しています。


 「通州新聞・通州時空」
  www.btcbd.com/news/2010/50312.html

 「中国新聞網(中新網)
  www.chinanews.com


さて、さきに「潞河馹」についての解釈を書きましたが、これで安心というわけでは決してありません。
ことわるまでもなく、それは歴史についてまったくの素人が書いたもの、あくまで我流の解釈でなんの
根拠も確証もありません。
ですから
「潞河馹って、いったい何なんだ?」
という気持ちは正直拭いきれません。気持ち悪いなぁ。

そこで、「潞河馹」についてのより確かな情報を手に入れるべく、さらに通州関係の本を読んでみた
のですが、結局自分を納得させることの出来る決定的なものを見つけ出すことは出来きませんでした。
もちろん、これは私の探索不足に由来しているわけで、今後も探す必要があるのですが、ただ、そう
いう状況にあって、読んだ本の中に「潞河馹」がほぼ私の解釈どおりの施設だったことをうかがわせ
る記事があったこと、しかもその記事には「潞河馹」が設置された経緯や、驚いたことに前に掲げた
地図には描かれていないのですが、「潞河馹」の近くに、なんと同時に電報局が設けられたことが
書かれているのを見つけたのは幸いでした。

その記事によれば「潞河馹」設置は、1883年(光緒九年)。経緯には、どうやら19世紀半ば以降の清朝の
歴史が深く関係していたようです。歴史に疎い私は、さっそく1840年のアヘン戦争以降の清朝の歴史を
駆け足でおさらいしてみたのですが、アヘン戦争以降の清朝が多事多難の状況にあったことが私なりに
分りました。次に1840年のアヘン戦争から1870年代くらいまでに起こった、これは! という出来事を
年表風に並べてみました。中国の歴史に詳しい方、読むのが面倒だなぁ、と思う方は飛ばしてください。


〔1840年から1879年に清国に起こったこと〕
〇1840年
アヘン戦争。イギリス艦隊が渤海湾に入り、海河の河口にある大沽に至る。

〇1841年
イギリスと川鼻仮条約を結ぶ。この仮条約の内容は、香港の割譲、賠償金支払い、両国政府の直接交渉権、
貿易の再開など。
平英団、イギリス人を襲う。広州で占領した砲台から撤退しようするイギリス軍の一隊を「平英団」とい
う旗を掲げた武装住民が襲撃。

〇1842年
イギリス軍が南京に迫り、南京条約。主な内容は次の通り。広州・厦門・福州・寧波・上海の五つの港を
開港。それら五港に領事がおかれ、イギリス商人が家族とともに住むことが許される。香港をイギリスに
割譲する。林則徐が没収したアヘンを弁償し、戦争にかかった費用もあわせて支払うというもの。

〇1843年
イギリスとの南京条約が、五港通商章程や虎門寨追加条約によって具体化される。
五港通商章程によって領事裁判権を認め、関税自主権を失う。虎門寨追加条約によって最恵国待遇を認める。

〇1844年
アメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約を結ぶ。
ともに南京条約とほぼ同じものであったが、黄埔条約で開港場での教会設置が認められる。

〇1850年
洪秀全、上帝教の信徒たち、地主の組織する団練や官兵と衝突する。

〇1851年
洪秀全、即位して「天王」と号す。太平天国と称し、清軍と戦う。(~64年)
ロシアとイリ通商条約を結ぶ。ロシアがイリとタルバガタイにおける自由で無税の交易や領事裁判権などを
獲得。

〇1853年
太平天国軍が南京を占領し、「天京」とす。
上海県城が小刀会の一団によって占拠される。(55年に奪回)

〇1854年
貴州南部の苗族、反乱を起こす。湖南にまで進攻。(~72年)

〇1855年
雲南の回族、杜文秀に率いられて反乱。(~73年)
張楽行を盟主とする「捻軍」が清朝に対抗する。

〇1856年
アロー戦争勃発(第二次アヘン戦争)。
広州の珠江に英国旗を掲げて停泊中の貨物船アロー号へ清朝官憲が乗り込み、英国旗を降ろしたうえ、
海賊の容疑で船員を拘束して連れ去る。

〇1857年
イギリス、フランス軍が広州を攻撃、占領する。

〇1858年
イギリス・フランス・アメリカ・ロシアと天津条約を結ぶ。内容は次の通り。
外国公使の北京駐在を認める。キリスト教の布教を認める。外国人の中国内地旅行、通商の自由を認める。
開港場の増加(漢口、九江、南京など十港)。賠償金の支払いなど。また、アヘン貿易が合法化される。
ロシアと愛琿(あいぐん)条約を結ぶ。

〇1859年
イギリスとフランス軍、さきの天津条約批准のため大沽に至るも、大沽砲台を守る僧格林沁(サンゴリンチン)
の軍隊に砲撃され上海へ引き返す。

〇1860年
イギリス・フランス軍は再び大沽砲台を落とし、天津に達し、通州で清朝側と交渉するも皇帝謁見の
問題で決裂。その後、北京に入城。
イギリス・フランスと北京条約。さきの天津条約が全面的に実施されることになるとともに、新たに天津の
開港、中国人労働者(苦力・クーリー)の海外渡航の公認、賠償金の増額、イギリスに対する九龍の割譲などが
決められる。
ロシアと北京条約。ロシア、1858年の愛琿(あいぐん)条約と北京条約によって、黒竜江以北の領土、ついで
沿海州を手に入れる。

〇1861年
専門の外政機構である総理各国事務衙門(総理衙門)が設けられる。
プロイセンと貿易協定が調印される。

〇1862年
陝西の回民、蜂起する。
京師同文館の設立。英語、フランス語、ロシア語の教習始まる。
マカオにおけるポルトガル統治権を認める。

〇1864年
洪秀全死去、太平天国滅亡。
新疆にある天山南路のオアシスで、清朝に対する反乱が起こる。その中心となったクチャのホージャ家
が、いくつものオアシスに勢力を広げる。

〇1865年
ヤークーブ・べグが新疆のカシュガルに入り、オアシス都市の征服を進め、クチャのホージャ家をおさえて
自立的な政権をつくりあげていった。(~77年)
総理衙門によって国際法について論じた『万国公法』刊行される。
上海租界にあったアメリカ人の工場を買い取り江南製造局とする。67年に上海県城の南に移転。中国に
初めて出来た最大の兵工廠。

〇1866年
天津機器局設立決定。
杭州の造船所を福州に移し、拡充して船政局を開く。中国最初の、最大の造船所。

〇1868年
杜文秀の率いる勢力が清軍を破って昆明に迫る。(杜文秀、72年に自殺)
左宗棠、甘粛の回民馬化竜と対決。

〇1870年
反キリスト教暴動起こる。(天津教案)

〇1871年
ロシアがイリ地方を占領。日本と日清修好条規の調印。
琉球の支配下にあった宮古島から貢納物を那覇に運んだ帰りの船が台湾に漂着。漂着民の多数が
台湾先住民に殺されてしまう。生存者は、清朝の保護のもと福州から帰国。

〇1872年
上海に輪船招商局設立。

〇1873年
輪船招商局天津分局設置。

〇1874年
日本の台湾出兵。1871年の出来事がきっかけとなっている。

〇1876年
イギリスと、マーガリ殺害がきっかけとなる芝罘(チーフー)協定。
イギリスは、ビルマと雲南を経由して清朝との貿易を進めようとし、通商路を求めて探検隊を派遣。
探検隊の通訳と道案内にあたっていたのは北京のイギリス公使館のマーガリであったが、1875年、
マーガリの率いる先遣隊がほぼ大盈江(だいえいこう)に沿って騰越方面に向かう途中、地元民と推定
される何者かによって襲撃され、マーガリは殺されてしまう。

〇1877年
郭崇壽、初代駐英公使となる。

〇1878年
天津に開平鉱務局を開き、唐山石炭の近代的採掘を試みる。中国最初の近代的炭鉱。

〇1879年
ロシアとリヴァディア条約を結ぶ。イリ返還の代償とし広大な領土をロシアに割譲するなど、清朝に
とって著しく不利な条項が含まれていたため、国内で大問題となる。
日本、琉球を沖縄県とする。(琉球処分)

以上。


このように年代順に起こったことを並べてみますと、清朝の望むと望まざるとに関わらず、アヘン戦争
以降、外国との条約締結など外国との接触の機会が増え、また、それと並行するかのように国内では
太平天国の乱を筆頭に反乱が頻繁に起こっていることがわかります。


(写真は、「八里橋の戦い」を伝える銅版画。1860年8月イギリス・フランス軍は天津を占領。
9月、天津から北京目指して進み、通州を占領したのち、八里橋の守備軍に猛攻を加えるも、
八里橋を守っていた清軍に阻まれ通州に半月も留まったと言われています。)

(この写真は1860年9月から10月の間に撮られた八里橋で、大英図書館に収蔵されている
そうです。)

まさにこの時期の清朝は内憂外患の様相を呈していたように見えるのですが、そんな状況の中で、そん
な状況に対処するために清朝の近代化・近代技術の導入は始まったと言ってよいかと思われます。そし
て、この近代化を具体的に推し進めたのは、当時、天津にあって直隷総督と北洋通商大臣(北洋大臣)を
兼ねていた李鴻章など洋務派と呼ばれる人たちでした。

1870年代、李鴻章ら洋務派の人たちは、中央と地方との連絡や対外交渉にあたって、従来の人や馬に
かわるより速い通信手段の必要性・近代技術導入の必要性を感じていたようで、1879年以降、立て続け
に電報線などを設けています。具体的には次の通りです。

1879年、李鴻章は、天津の直隷総督の役所と大沽・北塘海口の間に、また、天津機器局と直隷総督衙門
の間に電報線をそれぞれ敷設しています。翌80年には、南北間の連絡をスムーズにするため、天津と上
海という長距離間を繋ぐ電報線敷設を決定し、この線を管轄するため、官営の電報総局を新設。
この天津と上海とを繋ぐ電報線の敷設が完了したのは1881年の11月でしたが、工事は81年6月に天津・
上海双方から開始されていますので、工事開始から完了まで実に短期間であったことが分ります。当時、
それだけ、天津・上海間における電報線設置が急務であったということでしょうか。
なお、前年の80年には天津の電報局内に電報技術に関する人材を養成するための学校(北洋電報学堂)ま
で設立するに至っています。その後、1889年から90年代にかけてほぼ全国的に電報線は設けられ、全国
通信ネットワークといったものができあがっているようです。

さて、重要な情報を人や馬が運ぶという旧来の通信方法に比べ、電報という通信手段が比べ物にならない
くらい速く便利なことは言うまでもありません。まして多事多難の当時の清朝において電報線の設置が急
務であったことは想像に難くありません。しかし、この電報線が皇帝がいて、しかも外交を司る主役で
あった役所・総理衙門のある肝心の首都北京と天津の間に敷かれるのは、1884年の8月でした。天津・上
海間における電報線の設置されたのが81年の11月ですから、その間にほぼ3年の年月を必要としたわけで
すが、そこには当時の清朝なりの事情がありました。

洋務派の李鴻章には、天津・上海間の電報線完成後、天津と北京にも電報線を設置する計画があったようで、
外国との関係上、北京にも電報局設立が必要である旨を朝廷に上奏するのですが、朝廷側からはなかなか
同意を得ることができませんでした。朝廷側が同意しなかった理由はといえば、北京城内に電信柱を立て
ることはよろしくないというもので、具体的には電線が風水を破壊するというものでした。当時の朝廷内
部や北京の人々の間には、電報が速く伝達できるのは死者の霊魂と関係しているからだといった噂さえあっ
た時代でした。

このように朝廷側と李鴻章の間には近代的な通信手段に対する認識のズレがあり、李鴻章は当初の計画
通りには行きませんでした。しかし、だからといって李鴻章が手をこまぬいていたわけではありません。
その後、総理衙門と李鴻章との間には話し合いが持たれ、彼は北京に近い通州城内にやっとのことで電報
局設置決定にまで漕ぎつけます。


(総理各国事務衙門。1861年1月、外交や洋務を管轄するために設立されました。それ以前、
対外関係を統括する役所はありませんでした。最初の責任者はこの役所の設立に携わった
中心人物・恭親王奕訢〔エキキン〕。場所は北京の東堂子胡同49号。)



通州電報局は1883年9月、場所は、当時、州署のあった前の通りで、電報局とはいうものの専用の建物
ではなく、他の建物を借りたものでした。電線は、すでに電報局のあった天津から運河沿いに引かれ、
通州城北門を通って城内の電報局に繋がれました。

(矢印の辺りの建物に間借りしていたそうです。)

これで上海と天津、天津と通州との間に電報線が設けられ、政府や外交、軍事関係の情報が以前より速く
北京に届くようになったのですが、ここで活躍したのが問題の「潞河馹」という人や馬による通信施設
でした。通州に電報局が設置される以前、重要情報は北京から天津へ、天津から北京へと早馬によって送
られていたのですが、通州に電報局と潞河馹ができたお蔭で時間が短縮されたのは言うまでもありません。
ちなみに、通州から北京まで早馬で一時間ほどだったとか。

その後、朝廷側も電報の利便性を知るに及び、北京にも電報局が設立。その時二つの電報局が設けら
れています。
一つは、政府関係専用の官電局で、内城の泡子河沿い東岸・明の成化初年(1465年)に建てられた小廟
「吕公堂」で開局。泡子河は下の地図でお分かりになると思いますが、古観象台と内城東南角楼との間
にありました。もう一つは、民間用の商電局で、崇文門外の喜鵲胡同・楊氏園で開業。ともに1884年8月
に設立。時あたかもフランスとの間にベトナム(越南)領有をめぐる清仏戦争が勃発した月でした。

なお、北京に電報局が出来た後、「潞河馹」はその役割を無事に終え、建物は他の施設として使われた
そうです。




(上の二枚の地図はともに民国期初めころのもの。)

今回は、白将軍胡同で見かけた電信柱から1800年代後半の激動の時代をまさに早馬のように駆け
抜けて行った通州「潞河馹」という早馬による通信施設をご紹介させていただきました。次回、
もう一回寄り道をし、通州と電信柱との関係を探ってみたいと思います。

追記

今回の記事を書いた後、さらに「潞河馹」や通州電報局について探索を継続していたら、次の二つの
ことが分った。上海と天津の間に電報線が敷設されたあと、通州から北京、その後、さまざまな地域
に電報線が広がって行くわけなのですが、そのとき立てられた電信柱が切り倒されるという事件が起
こり、警備兵を置かなければならなかったそうだ。切り倒した理由は前にも書いたように風水に関係し
ていたといわれている。
通州城に近代的な電報局と前近代的な「潞河馹」という施設が同時に設置されたというところに、当時
の中国の状況の一端を垣間見ることができるけれど、電信柱切り倒し事件などもその一例だ。もう一つ
は、理由は分らないけれど、電報線設置ために立てられた電信柱が紅色に塗られていたということ。
これなども風水に関係しているのだろうか。

いずれにしても、「潞河馹」という早馬による通信施設が通州にあったことを知り、いつそう通州が
好きになった。早馬が北京まで走る雄姿を一度でよいから見たかった。


  
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