「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの時事問題:孤独死あるいは孤立死について考える・・・その1

2012年04月11日 | 時事随想



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孤独死あるいは孤立死と呼ばれ、誰にも看取られずに死んでいく65歳以上の人は、ニッセイ基礎研究所の調べによると、年間1万5000人を越えるという。

このデータは
「死後4日以上経過して発見された人」と定めた場合の数値であり、「死後2日以上」と区切って推計した場合、その数は2万6821人に達するという。

こうした事例の中には、生前に「セルフ・ネグレクト」(自己放任)状態にあったと考えられる人が約8割含まれていたそうである。

この調査から、現代社会において、こうした死に方が稀ではなく、日常的に全国的に起きていることが分かる。

昨今、「孤独死・孤立死」が
ニュースで頻繁に報道されるようになったのは、やはりそこに現代社会が抱える様々な問題を含むが故だろう。

現代社会において他人事では済まされない孤独死・孤立死について、2回に分けてこのブログで取り上げ、考えてみたいと思う。

まず初回は、孤独死あるいは孤立死について、身近な問題として多くの人が真剣に考える契機となった、記憶に新しい昨年の報道(事例1)について取り上げ、その実態の認識を深めたい。

2011年1月・・・事例1

 1月8日、大阪府豊中市のマンションの一室で、60代の姉妹が遺体で発見された。2人はいずれも極度にやせ細り、死後20日前後たっているなど、典型的な「孤独死」だった。実家は土地を多く保有する地元でも有名な資産家。しかし、2人が最期を迎えたマンションは多額の借金のため差し押さえられ、所持金はほぼゼロだった。司法解剖の結果、2人は昨年12月22日ごろにすでに死亡していたことが分かった。紀代美さんの死因は心臓疾患、久美子さんは不詳とされたが栄養失調の疑いがあるという。(産経ニュース)


孤独死とは、主に一人暮らしの人が誰にも看取られること無く、当人の住居内等で生活中の突発的な疾病等によって死亡する事であり、特に発症直後に助けを呼べずに死亡するケースがこのように呼ばれる。

また会的孤立のために、住居内で死後他者に気付かれず遺体がそのままとなったケースにおいては、孤立死とも表現される。

言葉の成り立ちを考えると、孤独死・・・孤独な死(「孤独な」形容動詞)に対して、孤立死・・・孤立して死に至る(「孤立する」は動詞)という意味だろう。

近年孤立死の言い方がより一般的になってきたのは、「死に方」よりも「死に至る社会的背景」にスポットを当てることにより、そうした死の本質的な意味が表現できると考えたからだろう。

孤独死・孤立死に対しては、法的に明確な定義はなく、警察庁の死因統計上では変死に分類されるという。


(浜離宮恩賜公園・今年の菜の花)

事例1・大阪元資産家姉妹孤独死事件は昨年の事件であるが、この餓死による孤独死は、大きくマスコミに取り上げられ、孤独死がどんな人にも起こりうることを人々に強く印象付けた出来事だった。

この事例1は、産経ニュースの中では「孤独死」となっているが、明らかに「孤立死」と呼ぶべきもので、姉妹が死に至った背景を、しっかりと検証する必要があると思う。

この姉妹の「孤立死」の直接的な原因は、ハゲタカの如く資産家姉妹にまとわり付き、骨の髄までしゃぶった金融機関が、不動産物件の運用に失敗すると、手のひらを返すように平然と布団まで引き剥がすような行為を繰り返し、経済的及び社会的困窮状態に姉妹を追い込んだことである。

そして、この姉妹と関係があった裁判所の執行官や、市役所担当者・民生委員等の行政も、近隣の住民も、ライフラインを止めた電気・ガス業者も、姉妹が置かれた状況の的確な判断ができずに、姉妹の困窮状態を見過ごし、適切な手立てをとることがなかったことも、「孤立死」の原因に挙げられる。

また、姉妹は生活に困窮し死亡するまで、生活保護や介護認定の申請をしていなかったという。

この点については、行政の怠慢を論ずる前に、本来は助けが必要な人たちが、公の厄介になりたくないという考えが強いという事情が問題である。

特に資産家であったこの姉妹が、生活保護などセーフティネットの厄介になることに慣れていなかったと、また行政や他人に厄介になることを潔しとしない思いが強かったと考えられる。

「厄介になるより、死んだほうがまし。」という自由意志は、意外に多くの人に共通した認識で、これは単にセルフ・ネグレクトという言葉では表現できない、日本人の持つ特殊な思考回路だと思う。

セルフ・ネグレクト(自己放任)は、高齢者自身による健康や安全を損なう行為で、認知症などで自分を守ろうとする能力がなくなっている場合が、まず考えられる。

また、精神的に健全で正常な判断力を有する高齢者が、自分の行為の結果を承知のうえで、自由意志にもとづいて起こした行為についても、セルフ・ネグレクトの範疇に入れて考えるのが最近は一般的なようだ。

このような場合、他人に迷惑がかからなければ、「個人の選択の自由」や「ライフスタイルの問題」として、専門職の介入の対象とはならないので、「孤独死」の可能性がある人たちが潜在化してしまうことが指摘できる。

最近の孤独死・孤立死の話題性は、一人住まいの高齢者の孤独な死ではなく、事例1のように姉妹・兄弟・夫婦・親子といった複数の家族が、社会から孤立した結果、同時に孤立死してしまう事件が続いているからである。

定義があいまいなセルフ・ネグレクト(自己放任)という言葉で形容できない社会状況や貧困が、弱者に覆い被さっている現代社会の問題点が、「孤立死」に端的に示されていると私は考える。


(ヒュウガミズキの可憐な花)

次回のブログでは、今年起きた孤独死を幾つか取り上げ、その問題点と対策について、考えを深めたい。

マッキーの時事問題:孤独死あるいは孤立死について考える・・・その2

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