3日前の長崎新聞コラム「記者の目」の記事を読んで大きく頷いた読者は多かったのでは?
記者は県の態度の矛盾を指摘していました。
諫早湾の開門調査をしようとする国に対して長崎県は、断固反対、
「これ以上話を聞いても意味はない」と、国との会談拒否の姿勢を示したその一方で、
石木ダムに関しては、話し合いを求めても地権者が応じてくれないと嘆いている。
知事よ、国が決めた干拓事業の被害者となった地元の漁民や農民、
その県の長として、国のやり方にそれほどの怒りを感じるのなら、
石木ダムに反対する地権者の気持ち、あなたならわかるはずですよね?
それとも、それとこれは話が別なんですか?
と問いかけています。
この疑問は、誰もが感じていたことでした。
開門の賛否にかかわらず、石木ダムの推進反対にかかわらず、
多くの県民が、あれ?知事の言ってることちょっとおかしくない?矛盾してるよね?
との素朴な声があちこちで聞かれました。
でも、それでは、矛盾を無くせばそれでいいのでしょうか?
石木ダム地権者の抵抗を受け入れるなら、国に抵抗して最後まで開門を阻止してもいい?
あるいは、国の方針に従って開門を許可すれば、石木ダム建設工事を強行してもいい?
それは違うと思います。
問題の本質が違うと思います。
諫早湾干拓事業は国の事業だとしても、県も一緒に推し進めてきたのです。
その結果、有明海を瀕死の状態にして、漁民を苦しめてきたのです。
それに気づいた国が、調査をするために開門しようとしているのです。
漁民と干拓地の農民の方々は被害者ですが、県は被害者ではありません。
一方石木ダム予定地の地権者は、県の事業で土地を奪われようとしている被害者です。
被害者は自分の財産を守るために実力行使をする権利がありますが、
県は、同じ立場ではありません。
イサカンと石木ダム・・・県の方針には矛盾はありません。
自然よりも経済が大事。目先の経済が大事。大型公共事業が大好き。
そのためには一部の県民が犠牲になっても気にしない。
そんな体質を感じます。
2011・3・11の日本に生きていた私たちは、自然の脅威を思い知ったはずです。
自然をあまくみてはいけない、これ以上自然を破壊してはいけない、
放射能に汚染された福島をみて、
自然のままの海や川や大地がどれほど大切か気づいたはずです。
もう自然を傷つけるのはよそう…
そう感じた県民も多いでしょうし、県の職員の方の中にもいるはずです。
国対県、県対住民、と対立するのではなく、
未来の環境を守ろう!本当に豊かな暮らしを目指そう!
とみんなが考え始めたとき、
きっと道は開けるはず…