北羽歴史研究会

出羽国北端より奥羽地方と北の歴史を展望し
北羽地方の風土文化作りに寄与する。

「奥羽越戊辰戦争の断面」 講演レジメ抜粋1

2007-02-03 21:11:23 | 雑録

奥羽越戊辰戦争の断面

一、三春藩に対する誤説の解明 

 1、 7月16日の浅川戦で裏切りの発砲行為があったという濡れ衣。

誹謗?星亮一著『二本松少年隊』の文章。誹謗?星亮一著『仙台藩』の文章。「秋田藩と同じように卑劣だった」とはさらにいただけない。仙台藩の卑劣さは、嘆願書名で諸藩をあつめ、抗戦同盟化したこと。

  正論は、大山柏著『戊辰役戦史』「浅川付近の戦闘」である。「本戦闘に関し『仙台戊辰史」は戦闘中に三春兵が離反し、官軍に投じて同盟軍を撃ったため、同盟軍が敗退したように書いているが、官軍の諸藩報には、いずれも背面攻撃の効果を述べ、また背攻に当たった薩、黒羽兵の戦況報告、「土持日記」「東山新聞」にも記載されているから、間違いはない。また三春兵については何も述べていない。ただし三春藩の離反は

「仙台藩記」に「官軍、会津の兵を破り浅川の後に出ると、三春藩中途にして反覆す」とあり、官軍が浅川の後に出たのと三春の中途反覆の両因をもって敗戦したようにみえ、これが誤解を生じたものと思われる。而して三春離反についての記録を見ないが、恐らく浅川攻撃の出兵を拒否したか、あるいは出兵しても攻撃を拒否した程度で、積極的に官軍と合し、また単独で仙、会軍を攻撃、戦闘したとは認め難い。」

浅川の城山の上から、この地域を展望して思うに、釜子からの薩摩・黒羽の援兵に背後から攻撃された状況が実感できる。仙台藩等の三春藩の裏切り攻撃批判は被害妄想といえる。三春から浅川まで距離48キロの領地外で、三春に戻るあてもなくなる裏切り攻撃などありえず。みずからの安全も確保できない愚行をなす馬鹿な兵隊はどこにもいないでしょう。

2、 続「三春藩の事」、『三春町史』S59刊、  ? 「7月16日には、棚倉奪回を目的に浅川で戦いがあり、三春隊が背いたため東軍が苦戦したとして同盟諸国から疑いをかけられ、仙台藩士塩森主税の詰問をうけたが、外事掛り不破幾馬が弁明し事なきを得た。」  ? この時期、三春には連日同盟他藩兵が移動のため入り込み、新政府側を標榜することも不可能である。

? 7月26日新政府軍が北上して攻勢、三春藩は降伏、28日守山藩降伏、「西軍三春入城以前に仙台藩に使し、西軍三春入城のとき二本松にいたった藩士不破関蔵・大山巳三郎・渡辺喜右衛門は捕らえられて殺害され、同じく奥羽列藩同盟軍事局に派遣され、福島滞在中の藩士大関兵吾も殺害された。」   

仙台藩は、秋田藩の7月4日の仙台使者殺害を非難してやむところがない。だが仙台藩は閏4月19~20日の世良修蔵殺害のみならず、勝見善太郎も、さらに4月25日までに野村十郎・田中太郎太・弓削休右衛門・松野儀助・人夫繁蔵・鮫島忠左衛門・中村小次郎・内山伊右衛門等九人の奥羽鎮撫使の要員を殺害している。もちろん戦闘状態ではない時点での一方的殺害である。三春藩の使者や列藩同盟担当役への報復殺害はどうなのか。自らの非違行為を棚にあげての、秋田藩批判はお返しをしたい。

ニ、秋田藩、大館への侮蔑

1、星亮一著『よみなおし戊辰戦争』   ? 「秋田藩の非人道的行為に怒った南部藩は、鹿角兵を先鋒として秋田藩の支城がある大館に攻め込んだ」・・・南部藩の秋田攻撃は、家老楢山佐渡の佐幕思想が主柱にある。人により仙台藩の圧力によると釈明されてもいる。        ? 「なぜ鹿角が「チョウテキ」で自分たちは官軍なのか、大館の人々は首をかしげた。」・・・大館人は無知ということか、大館の武士団は4月の庄内攻めに出動しており、巷間官賊の別は知られていること。首をかしげたとは、無知扱いも甚だしい。

? 「楢山は戦闘にさきがけて、藩境の秋田藩守備隊に宣戦布告をした。 敵将茂木筑後は、「本藩に指示を求めるので、数日待って欲しい」と回答した。楢山は律義な武将だった。ちゃんど数日まった。この間に茂木は秋田から大砲ニ門を運び、戦闘態勢を整え、整ったところで戦争が始まっった。」・・・・ 星亮一氏のこのウソは許せない。秋田方をナメルも甚だしい。

? 「南部のだまし討ち」という言葉である。大館城を攻める際、楢山はあくまでも南部の武士道を貫き、堂々と宣戦布告を行った。これに対した秋田側は「隣国のよしみもあり、戦火は交えぬようにしたい」とまたも虫のいい申しいれを行い、楢山が「了解した。空砲でお相手仕る」と答えたと大館の人々は語る。だから戦闘が始まっても空砲だと思っていたら、実弾が飛んで来た。あわてて逃げたので負けてしまったと、大館の人は南部をせめた。」 「以来、鹿角の人々は、なにかというと大館の人から「チョウテキ」、「だまし討ち」とののしられた。南部藩に比べると秋田の藩風には、どこかずるさがあった。」・・・

・・・・戊辰の八百長戦は、4月17日会津土湯口の仙台瀬上隊の偽戦以外の例を知らず。あるいは閏4月20日官軍下の白河城を会津軍に攻めさせ、仙台藩は示しあわせての退去、在城の三春藩隊等に犠牲を与えた仙台藩の事もその類例といえるのかもしれない。  「南部だまし討ち」の文は、吉田昭治著「秋田の戊辰史」187pからの引用のようであるが、大館に空砲撃ちなどという戊辰戦の話題は存在しない。    戦端以前7月中から藩境に続々と軍兵の配置強化をしている南部藩に対して、抗議申し入れのところ、最初は7月27日に配置兵は引揚すると釈明、さらに実行なきための抗議に対し、8月5日に配置引揚するとの再通知を秋田側にしているということ。そして8月9日の攻撃開始である。 この事が南部側が秋田側に、だまし討ちといわれる所以なのである。  「秋田の藩風はズルイ」 と、この星亮一氏の文は、許せない。いわれなき中傷そのものである。

2、 大館十二所口の南部藩戦書の通知・・・『大館城太平記』三村雄吉著参照

「この日、南部軍は暁七つ(午前四時)十二所、別所街道の楢山佐渡、石亀左司馬の両軍は花輪に、葛原、新沢街道の向蔵人、桜庭祐橘、足沢内記の各軍は毛馬内に勢ぞろいし、花輪では目付の沢出善平から、毛馬内では同じく太田錬八郎から、はじめて「秋田藩討ち入りの次第」が読み上げられ・・・・・・」

 「十二所鎮将茂木筑後あて楢山佐渡、向井蔵人連名の戦書が渡されたのは、その一刻(2時間)前である。蔵人の「討入日記」によると《八月八日、秋藩へ進撃の次第、佐渡両名にて秋藩重臣十二所住人茂木筑後へ同盟違約之譴責文書にて申遣、且直に御境内へ人数繰込の儀申入る》とあるが、十二所が実際に戦書を受けとったの時は、すでに九日、それも八つ(午前2時)に近かった。 茂木居館を訪れたのは花輪同心の玉内市左衛門、関冨次郎の両人である。大玄関で「たしかにお渡し申し上げたぞ」と一声を残して、さっとひるがえるように帰っていった。」 ・・・・・ これは星亮一氏への反論です。

三、 星亮一氏の著作について

1)戊辰戦争関係の著作、40冊以上。大変な執筆力であり出版量と驚く次第です。 1935年仙台生れ、高校時代岩手県で過す。東北大学文学部国史学科卒、福島民報記者で会津若松勤務も、・・・・略。 仙台藩士族の後裔として星亮一氏は曰く、「明治維新は・・・屈辱の歴史であり先人の無念が胸にせまるのである。」「仙台藩の明治維新・・・そこに貫かれた反骨の精神は、東北の未来につながる優れた特性といわねばならない」『仙台藩』星亮一1987刊

故に、戊辰戦争史の記述に関する限り、星亮一氏の著作は仙台藩、会津藩を是とし他を非とする「確信感情」のものであることに間違いない。著作の多くをみるところ、真実を離れた感情的文章が、小説文体と相まって特定の侮蔑や偽りとして拡散されている部分があると読みとらざるを得ない。申し訳ないのですが極論すれば「薩長、怨恨呪罵」と評されるかもしれません。

2)同氏の『仙台戊辰戦史』H17年刊に次の文章があります。・・・・「戦争に持ち込んだ長州藩参謀世良修蔵の罪は大きかった。 もっとも世良は長州藩の最高指導者、木戸孝充の命令を忠実に守ったに過ぎなかった。元凶はあくまでも木戸こと桂小五郎であった。そんなに会津を倒し買ったのか。 木戸という人物、実像は狭量の男だった。」・・・・と、

上記を考えるに、仙台藩主導の列藩同盟こそ無益な戦争の拡大であるのだが、その反省はない。また逆に木戸孝充を狭量な人物とする星亮一氏の狭量さを感ずる。王制復古から維新政権の施政方針にいたるまで、木戸孝充の先見性によって改革がなされている。木戸孝充を否定することは、明治近代化の歴史の根幹を否定することであって、星亮一氏の擁護する会津と仙台列藩同盟の反動性と反歴史性を証明することに他ならない。廃藩置県も木戸孝充の存在なくしての早期実現はなかった。

三項終わり        ーーーーーーー以上(中断、四項以降別記)

 


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