戊 辰 戦 争・・・・・<o:p></o:p>
・・・・・・・・・・・・・・・・長岡藩の場合・・・恭順派を排斥した河井継之助<o:p></o:p>
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慶応四年「1月23日、領内の庄屋たちを集め、長岡藩は必ず新政府に立ち向かうであろうから、村々も非常の準備をせよ、と通達したほどであった。藩庁は勅使を奉じた新政府軍が越後に入るという知らせに、二月七日藩士を城中に召集し、強硬派の山本帯力・花輪求馬らが、我が藩がたとえ孤立しても徳川氏のために忠誠を尽すと告げ、武装して新政府軍の来攻に備えさせた。
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一方このような事態を憂慮した藩校崇徳館の教授らは、自重を促す意見書を藩庁に提出した。」「その意見書には徳川慶喜が恭順の意を表しているのであるから、長岡藩が徳川氏に忠誠を誓うのであれば、新政府軍と兵端を開くべきでない、と記されていた。」 『長岡市史』<o:p></o:p>
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「三月六日にも崇徳館教授たちは、恭順の方針に変更するよう重ねて意見書を提出し、廿二日には重臣の安田鉚蔵らが藩主の牧野忠訓と前藩主の忠順に会い、戦争の防止を訴えている。さらに廿三日教授たちは藩庁に赴き、重臣たちと論争したが藩の方針は変わらなかった。」
「旧幕府方への忠誠を主張していたのは、家老の河井継之助・山本帯刀・牧野市右衛門・稲垣主税・奉行格の花輪求馬・三間市之進らであった。 それに対し、新政府に帰順を主張したのは、元家老稲垣平助・安田杢・安田鉚蔵らと藩校崇徳館の教授たちであった。
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三月末に家老の河井継之助が江戸から帰り、翌々日の四月一日藩士に総登城を命じた。本丸の大広間には藩主の忠訓と前藩主の忠恭が臨席し、その側に河井が着席した。 河井は藩主に代わって、長岡藩は小藩であるが、たとえ一藩孤立しても、徳川氏から受けた恩に報い、義理を果たす考えである、と述べた。 <o:p></o:p>
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これに対し、恭順を主張する藩士たちの抗議は続いた。 四月十日、安田鉚蔵が城中で河井と激論し、隠居させられた。廿三日には、重臣本富寛居などが忠恭の邸を訪ねて諌め、恭順説を唱えたが、これも退けられた。」・・・・・・・・・・・・<o:p></o:p>
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■ 米百俵・小林虎三郎 … ・明治三年6月長岡藩の困窮ぶりをみて支藩三根山藩が米百表を贈った。その米を学問振興にふり向けたという史話。「当事者小林虎三郎は新長岡藩大参事の一人、
百石取の中士であった小林は、青年期に佐久間象山の塾で学び、長州の吉田松陰と共に象門の二虎と称される英才であった。戊辰の際は新政府への恭順を主張して、河井(継之助)と対立した。」
明治二年五月長岡藩は国韓学校を開校、明治三年校舎新築、洋学局と和学局も新設。 「青年たちの前途と考えるとき、学問は一日もゆるがせにできないとする小林虎三郎の主張が貫かれた。
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この米の代金およそ270両は、書籍代や用具代などとして(6月)22日、国韓学校・兵学校・演舞場・医学局・洋学局へ、夫々廿両ずつ配分された。 さらに知事の牧野鋭橘(忠毅)からもこれに100両の補助が加えられ、ほかにも200両ほどが、書籍や演舞場の道具を購入するために支出された。」 『長岡市史』<o:p></o:p>
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■ 明治三年10月19日長岡藩知事牧野忠毅が政府に辞表を提出し、長岡藩は廃藩、柏崎県に合併となる。
明治四年7月の廃藩置県の詔書に先立つ廃藩であった。 … 以上<o:p></o:p>
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■ 「戊辰戦争140年明治維新変革の歴史評価の学習を」北羽歴研今年度の課題。<o:p></o:p>
誰が歴史を前に進め、誰が変革の妨害する役割となり、誰が無用な惨劇を拡大したのか。<o:p></o:p>
敗北を承知で家臣領民を戦いに駆立て、その誤りは認識されているのか。<o:p></o:p>
しかと考えてみよう。Wa<o:p></o:p>
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