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いま、そのとき、かんがえつつあること。

薬物依存と社会環境

2006-07-14 | 障害学
たばこには中毒性がある。いや、中毒性はないという主張もあるのかもしれない。だが、重要なのは、たんにたばこに中毒性があるということだけではなく、わたしたちが「たばこには中毒性がある」という知識をもっているということだ。われわれには知識によって左右されている面があるということである。

興味ぶかいはなしがある。ローレン・スレイター『心は実験できるか』第7章「ネズミの楽園[アレグサンダーの依存症実験]」だ。結論をさきどりすると、「アレグサンダーは薬物依存の性質の研究に専念し、依存症とは、薬理の中にあるのではなく、患者をサポートしない社会の複雑な関係性の中にあるとの結論を得た」(246ページ)。

アレグサンダーの実験がおもしろいのは、劣悪な実験状況におかれたラットが依存症になるからといって、それは薬物の作用によるものだとみなすことはできないのではないかという発想にたち、ラットパーク(ねずみ公園)をつくり、そこで依存症実験をおこなったことにある。

ラットパークはもちろん、スレイターが指摘しているように、コントロールされすぎた空間(「普通の環境」ではなく「完璧な環境」)であった。アレグサンダーは従来の、コントロールされていない=適切化されていない実験状況とは両極端の環境をつくりあげたわけだ。けれども、「理想的な環境にあれば依存症にはならない」という実験結果は、われわれの知識をゆるがしてあまりある。

アレグサンダーは、「人類の歴史の中に、依存症というものが実質的に存在しなかった時代も多くあることに注意を惹かれた」。そして、「依存症の発生率は、ドラッグが入手しやすくなるにつれて上昇するのではなく、自由市場社会の必然的結果として人の移住が一般化するにつれて上昇したのだということに」気づいたのだ(270ページ)。

知識や見解というものは、ある場合において、たいへんな力をもつことがある。それをしっていることで、すくわれたり、安心できたりするような力を発揮することがある。アレグサンダーの見解は、まさにそのような力をもっているのではないか。

つまり、「依存症の自己責任化」に明確に反論するための論理としてである。依存症は、個人の問題ではない。それは、個人の意志や努力だけではどうすることもできないことだけによるのではない。重要な点は、社会環境が依存症をうみだすということにあるのだ。

注記:「ラットは神経系が人間のそれにごく近いため、依存症の実験に適している」という(244ページ)。

3 コメント

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Unknown (やみぃ)
2006-07-14 18:31:45
わあ. . . おもしろい. . .

hituziさんのこのページを保存して、スレイターの『心は実験できるか』、いつか(宿題が終わったら)読んでみます。



アルコール依存症について調べているとき、依存症になりやすい器質・体質としてあげられていたことの中で、

・ エストロゲンが多い

・ 脳内でのセロトニンの分泌が少ない、

・ アルコール依存症の遺伝子(GABA-G3? )を持っている

・ADHD/LDがある

といったことに、とくに興味を持ちました。

「ラットは神経系が人間のそれにごく近いため、依存症の実験に適している」というの、なんだかうれしいです。

「重要な点は、社会環境が依存症をうみだすということにあるのだ」ということも、ゆっくり考えてみたいと思います。

ちょっと しごとの休憩中に かいたものです(笑) (ひつじ)
2006-07-15 01:00:27
やみぃさん、こんばんわ。コメントうれしいです。だれかを意識して文章をかくというのは、むずかしいですけれど、たいせつなことのように感じました。ついつい放言してしまう自分をくいとめるためにも。



でも、もっとむずかしいのは、自分で納得のいく文章をかくことなのかもしれません。わたしのような人間は、「結論さきにありき」というものばかりです。だから、せめて、結論にいたるまでのプロセスをだいじにしなくてはと おもうのですが、これがなかなか むずかしいですね。



「依存」ということについて、ちょっと かんがえてみようと おもいます。
そーいえば (ひつじ)
2006-08-05 03:05:05
野口裕二1996『アルコホリズムの社会学──アディクションと近代』という本があるようです。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9603ny.htm