鎌倉評論 (平井 嵩のページ)

市民の目から世界と日本と地域を見つめる

一票賛歌   個人の尊厳を保証する民主主義の砦

2017-02-11 11:55:02 | 日記

 

鎌倉評論50号(3月号)の論説を書いたのでアップする。

 

 

一票賛歌

 

泣けてくるその平等性

選挙があるたびに、こんな一票で何ができるのかと自問し、小さな紙切れに名前を書くことがあまりにも微小、無力だと思うことはないだろうか。しかし確かに多くの人のこの一票が集積して政治家が選ばれ、われわれを支配する権力者が決定される。自分の一票は頼りなく無力にみえても、間違いなくそれは効果を発揮している。そしてじつはこの頼りなさこそ、投票というもののずば抜けてすばらしい平等性をわれわれに与えていることに気づく。考えてみたい。何もかも不平等きわまりないこの世のなかで、われわれに与えられているこの一票だけは、カネのあるなし、地位のあるなし、才のあるなし、男女の別なく、歳の別なく、あらゆる不平等な現実を無視してわれわれに与えられている。この世の人間がすることで、これほど平等なことがあろうか。近代以降、人間は声高に平等を叫び求めてきたが、ことごとく失敗した。その中で選挙の一票だけは人間における平等性を確保している。感激すべきことではなかろうか。

間が一立つ尊厳を示している

この一票は何千何万の中の一票だ。あってもなくてもいいようなものに思える。しかしこの一票に込められた意味はそれがいかに微小であっても重いものだ。この一票は社会のあらゆる不平等を乗り越えて、人間に対し、人間は一個の存在であることを思い知らせている。大金持ちも、有名人もみな一人だぞ、貧乏人も不具者もこの世は一人として存在しているものだ、ということを教えており、その思想は、不平等の岩がごろごろしているこの世で、人間の本質的平等性を主張し続ける。金持ちや有力者がそれ相応に沢山の票をよこせと主張してもおかしくはないことなのだ。

過去の差別選挙(制限選挙)

この平等主義は近代西洋の個人主義(インディビデゥアリズム)の思想から生まれたものだ。人間は夫々一個人において存在することの尊厳をもち、政治はその個人の意見によって行われねばならない、という思想である。この思想は西洋近代が発見したものであり、西洋はこれを普遍思想として世界に広めた。

アジアでは儒教でも仏教においても、江戸の町人思想にも、個人主義が生まれることはなかった。明治まで、日本では人間における個人とか、基本的人権、自由主義という考えはなく、平等性の認識はさらに低かった。

幕末、坂本竜馬など志士たちが、アメリカの大統領が入札(いれふだ・江戸期の投票)で行われることを聞いて仰天している。それまで「まつりごと(政治)」は武士階級が独占するもので、全体の90%を占める町人百姓に発言権はなく、どんな圧政にも、一揆とか打ち壊しといった命がけの反抗しかなかった。民衆には「云わず、見ざる、聞かざる」という無知と沈黙が奨励されたのだ。

明治になると、西洋の議会政治も導入されたが、貧乏階層は選挙から疎外され、裕福な階層だけに選挙権が与えられた。女性に選挙権が与えられたのはやっと戦後になってからである。

世界にはまだ独裁国や似非民主国が多い

しかし現代世界には、個人の尊厳の認識が低く、独裁制や民主制もどきの政治が行われている。アフリカの途上国には、国の制度だけ選挙制がとられているが、権力者が選挙結果を誤魔化して地位を維持するというインチキが行われる。

中国では共産党独裁を堂々と維持し、国民に政権を選ぶ自由も権利もない。この国では経済活動だけ自由主義(資本主義)を採ったが、政治は古来からの独裁制である。中国式資本主義は、政治の独裁制と矛盾が生じそのうち崩壊するといわれたが、不満から民衆暴動は多く発生しているといわれながら、共産党独裁はいまだ健在だ。

日本人も一票の重さを忘れその意義を理解せず、投票率を下げていけば、民主主義の危機が訪れるだろう。中国は昔から皇帝と官僚が支配する国で、民衆はただ支配を受けるだけで過ごしてきた。中国人は民主制とか選挙を経験したことがない。中国には「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」という有名な言葉がある。天下太平を意味しているのだが、実は次に続く文句が意味をもつ。「帝権なんぞわれにあらんや」というのだが、これは民衆は政治には無関心ということを意味している。中国民衆は現在「鼓腹撃壌」の状態のようだが、民主制のもつ個人の尊厳や自由を知らない。中国は、肝心の思想を捨て去った共産党という得体のしれない階級によって支配されており、その独裁制の下に、民衆は民主主義を知らないわけだが、その社会体質は台湾や香港の民主制を経験した民衆が嫌悪しているように、民主主義社会とは異なる独特のものがあるようだ。

OF THE PEOPLE(人民の政治)

筆者の好きな言葉に、リンカーンの[Gouverment

of the People,by the people,for the people」というのがある。民主主義を簡潔に言い表しているが、簡潔なだけにその意味の咀嚼が必要である。

 Of the people とは、政治の主体は国民であり、政治は国民によって行われる、ということだ。しかし日本では権力が国民のものとされてからまだ70年ほどしかたっていない。それ以前は天皇の政治であり、その前は大名君主の政治だった。つまり我々の民主主義は日が浅い。ややもすると国民の政治は官僚の専横や一部勢力の政治に奪われようとする。国民にも、「見ざる、聞かざる、言わざる」の気風が残っているし、また特に地方政治では情報が得にくく、見ざる聞かざる状態にならざるを得ないところがある。情報手段が発達しているにも拘らず、真に民主主義に必要な情報、とくに立候補者や政治家の思想信条、資質に関する情報は得にくい。

主権者国民はまた決してまともな政治を選択するとは限らない。過去にはヒトラーを誕生させたし、現在アメリカやヨーロッパに見るように、ポピュリズム(人気取り政治)の危うい政権を生み出している。

BY THE PEOPLE(国民による政治)

 By the people とは、前のof the  people(国民の政治)が、国民によって行われねばならないということだ。その方法には言論やデモ、その他アッピールがあるが、基本は選挙における一票の行使である。もっとも頼りなく、最も効果のないように思えるこの一票が砂山のように堆積して代表を選び、権力者を選ぶ。

だが民衆にとってだれを選ぶかはむつかしい作業だ。立候補者のことなど情報が乏しく選択のよすががない。選挙公報が唯一の情報だ。候補者が友人知人であればそれだけで決め手になることがある。テレビで見た顔、少し有名な選手、そんな漠然としたイメージ情報でも頼りたくなる。民主主義(by the people)とは実にあいまいで脆弱な情報基盤の上に成り立っている。そのため悪質な政治家が幅を利かせたり、ヒトラーのような政治家に幻惑されたりする。平等思想を体現し、それを実行する一票であるが、それは無数の紙切れの一枚であり、それが得体のしれない人間を議会代表として選ぶ手段である。民主主義とは我々一人一人がよほど強い思想と信念を持たねばならないということだが、それにしても、民主主義とは困惑と無力感と半絶望とともに行うものといえないだろうか。諦めと放擲がそこによって来る、沈黙へいざなう死神のように。

 FOR THE PEOPLE(人民のための政治)

 これは言うまでもない。しかし過去のどの専制君主でも、民衆のための政治を言ったし、権力者の常とう句だろう。国民は権力者がほんとに全体の利益のために政治をしているかどうか監視せねばならない。そのために議会があり、国民の信託を受けた議員は自己の信念誠意のもとに、その任に当たらねばならないわけだが、しかしその議員もまた監視せねばならないのが政治の世界だ。三つ巴四つ巴の監視と不信の混沌の中で行われるのが民主政治の世界である。◇◇◇