鎌倉評論 (平井 嵩のページ)

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なぜさむらい精神を論じるか    そこに日本人の哲学を読まんとする

2016-06-15 10:35:07 | 日記

筆者はいま『さむらい精神のリアリティーと哲学』という本を書いている。そのその第1章の半分をアップしたい。

 

 

第1章 なぜさむらい精神を論じるか

 

一、さむらい精神の魅力 

 武士道、士道或いはさむらい精神とは、江戸時代まで日本を支配したエリート階級である武士階級に育まれ、保持された精神文化であり、人格文化である。むろんそれは今はなき社会階級であるが、そこに保たれた特有の精神文化は、今日なお日本の誇るべき人格性として尊敬をもたれている。しかしそれのどういうところが尊敬されているのか。男らしくて死をものともしない勇気があり、規律に忠誠である、と言ったところが尊敬すべきなのか。しかし彼らが正しくどのような性質、どのような思想、そして人生哲学をもっていたか、は誰もはっきりとは知らない。おそらく現代人は映画やテレビから、おおよそのイメージとしてれを理解してるのではなかろうか。新渡戸稲造の有名な本、『武士道』は国内外にさむらい精神を喧伝した偉大な書物であるが、はたして彼の武士道が現実に正しい武士道でないことはつとに知られている。

 

筆者は先に人格文化という言葉を使ったが、あまり聞かない言葉だろう。人格とはその人のもっている性格、性質、習慣、立ち振舞い方、思想などその一個人が精神的に身につけているすべてを総合して指すものだ。人間心理は複雑な内部世界をもっていて、簡単にこの人はこう言う人格だと決めることはできない。フロイトは動物的な深層心理を人間心理に見出し、それを「リビドー」と言ったり、ユングは民族的に共通した深層心理を見出して、「集合的無意識(アーキタイプ=原型)」と言った。人格文化はそれよりさらに表層にある階級的意識であり、思想であると私は考える。階級人格、階級思想というべきもので、時代の変動を受け、アーキタイプより変化しやすいものとして存在する、と考える。

さむらいという人格文化は今日でも日本人にさまざまな影響を残している。映画テレビ小説には時代物というジャンルがあり、多くの愛好者をもっている。そこには江戸時代の士農工商身分の人たち、なかんづくエリート階級としてのさむらいが登場する。彼らは風体言葉づかい振る舞いが独特で、特別な人格文化をもっていることが一目で分かる。イギリスには近代ブルジョワ階級にゼントルマンという人格文化があって、紳士の代名詞といわれた。この人格は独立自尊の精神をもち、明治時代から今日まで近代日本の模範と考えられた。経済学者大塚久雄はこのゼントルマン的自立心を日本人は持たねばならないと教示したものだ。中国の王朝時代は士大夫階級、、朝鮮には両斑など、どこの国にも固定した支配層がおり、そこには特有の人格文化があったと考えられる。こうした階級特有の人格文化はその階級の消滅とともに消えてしまったが、そのもっていた人格性は後世まで影響を残さないわけがない。

さむらい的人格文化、それが深く抱いた人生哲学や人格性は、さむらい階級などなくなったにもかかわらず、明治以降も現代武士道として蘇り、現代日本に大きな影響を落とした。

 

近年とみにクールジャパンといわれて外国からの日本文化への興味と愛好が強まっている。ひと昔前には生魚を食うすしなど世界から嫌悪されていたのが、今では世界中で常食されている。マンガ、をアニメなどポップアートは世界で人気を呼んでいる。こうした日本文化の流出をソフトパワーと呼び、それまでの軍事や経済のハードパワーを超える国力と考え、政府挙げて推奨するようになったのは、二〇〇六年、ダグラス・マクレイという学者がGNP(Gross Nastinal Policy)という概念をGDPにかわるもう一つの国力として提唱したことに始まるといわれている。クールジャパンは食品や工芸など雑駁な日本商品を掘り起こすものであるが、こうした物質文化だけではなく、より深い日本の精神性を説明するものとして「さむらい精神」というものが取り上げられるようになったといわれる。二〇〇三年には「ラストサムライ」というハリウッド映画が上映され評判を呼んだが、これなど外国人にもさむらいへの興味の高まりを意味しているだろう。

さむらい精神は、明治以降それを担う階級が消滅した後も、現代日本人に強い影響を及ぼした。それも当然で、制度的にさむらい階級はなくなったとはいえ、昨日まで存続していたのだから、個人としてのさむらいは健在だった。第二次大戦終了まで民法においては旧さむらい階級の人たちには「士族」という身分表示が赦されていた。「士族」という戸籍名をもった人たちはそれを誇りにしていた。つまりさむらいの残影は戦前まではなお明確な形をもって生きていた。戦後は法的には完全な四民平等が実施され、もはや「士族」などという意識をもつよすがなくなった。それにつれて、さむらいの人格文化も雲散霧消し、現実にどういう人格がそうなのか分からなくなった。つまりさむらいという人格文化は消滅したということであり、映画やテレビの劇の中にお芝居としてそれを見るだけになった。

 

日本人は近代的民主主義や平等主義に慣らされ、また価値相対主性の現代思想に染まって、人格文化とか精神性の優劣というものが見えなくなっている。あるのは金持ちかどうか、組織上の権力があるかどうかと言った、現実の名利による価値判断しかできなくなった。こうした状況の中で、日本人はさむらい的精神文化を自分たちの誇る文化として再認識しようという気になるのかもしれない。新渡戸稲造は外国人から、「日本人は宗教がなくてどうして道徳教育をするのか」と問われて、考えた末、日本には武士道があると思い到り、かの名著『武士道』を著したといわれている。。

筆者は新渡戸と同じくさむらい精神を今一度探求し、新渡戸が見たものとは違うさむらいのリアリティーとその深奥の哲学を求めてみたいのである。

「古来日本人は哲学をしなかった」とは明治の初め中江兆民が言った言葉であるが、彼がはたして日本人の深層の黙示的無意識的哲学を知りえたのかどうか怪しい。筆者は、筆者の前著『日本人の黙示思想』において、日本人は優れた哲学思想をもっており、それはしかし、西洋的な多弁な言説によるものではなく、お辞儀とか侘びの茶道といった、非言説的形で表現したと書いた。筆者は本書において、同様に、さむらい精神の中に、日本人の哲学を読み取りたいと思う。しかもそれは人間にとってもっとも存在の根源に関わる哲学、つまり生死の哲学であり、神を失いニヒリズムの強まる現代西洋人、及びその影響の強い現代人一般にとっても不可欠の哲学性をもっているのではないかと思うのである。

 筆者がさむらいの人格文化に魅力を感じるのは、死を賭けたその心情、その行動原理から生まれる真摯なバイタリティーである。人間の生とは弛緩に陥りやすい。人はいつも死すべきものであることは誰も知ることであるが、現代のように、医学が発達し病の恐怖も遠のくと、生の享楽はわがもの顔に人間の心を占める。また、現代の個人主義や民主主義は強固な法によって保障され、個人の自由や人権は平等主義によって守れている。名誉や自尊心は法廷において公平に守られる。

だがさむらいの名誉や自尊心はいつでも自力の武器によって命を賭けるという緊迫の中において、守らねばならなかった。そこに名誉や自尊の真の厳粛さがあったといえる。彼らはエリート階級であったが故に、その行為には人知れぬ自己犠牲、厳粛な公共への従順、責任をとげることへの決意、それらのために必要なストイックな忍耐が必要だった。一人の侍の行動はあくまで一個の戦士であることの覚悟と自由のなかでの選択であった。そこにこそ、真の一個の戦士としての本質があり、またそれを認めた世間があったのだ。

 

備前の壺 納まりきるなり 梅雨走る

 

 


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