峠★光キリスト教会

横浜から広島県廿日市市へ引越しして 新しく教会を開拓しました
山岳地帯 自然一杯の峠にこの地で初めての教会です

聖書

2016-10-18 11:01:41 | 教会
私には 13歳 8歳 6歳 4歳の4人の孫がいる。
6歳の孫から手紙が届いた 幼稚園の運動会を見に来て下さい 
下のほうにランドセルを買ってと書いてあった。
夫の体調も良くて 私も会いたい方がおられるので それではと出かけた4人の孫の成長に驚いたり ランドセルの価格に驚いたり 中一の孫娘がおしゃれになって驚いたり
1週間 楽しく 慌ただしく過ごして帰ってきた

4人の孫は親に連れられて日曜日 教会で過ごしている
教会には 子供たちの集まりがあって 中学 小学 幼児クラスと分かれて礼拝し聖書のお話を聞く 私も産まれてまもなくの時から親に連れられて教会で過ごした 友達と遊んだり 夏のキャンプ クリスマスと楽しく時が過ぎた
しかし 神様の存在は信じてはいたけれどイエス・キリストは知ってはいたけれど絶対的な信仰の確信はなかった

神様は与えて下さる方 人間が生きるためのすべての物を与えて下さった その中で一番なくてはならないもの・・・それが聖書である 
聖書がなくても人間は生きることが出来ますと反論もあるかと思いますが 聖書はすべての人が
よみ学ばなければならない神様からの贈り物です

聖書は実に驚くべき書物です・・とは言ってもそれも読まなければ分からない
人は何も知らないで産まれ 雨のように降り注ぐ言葉によって知識を蓄える 人から出た言葉によってのみ養育され受け蓄えた知識を自分の言葉として話す
馬鹿と言う余り良くない言葉を受けたら痛い しかしそれを自分の言葉として他の人にぶつける
どのような言葉を受け蓄えるのか 大切なことであると思う

聖書には神が語られた 神の言葉であると書いてある
詳しく言えば 神からの言葉を受けた人がそれを記録した 人間だけが神の言葉を聞くことが出来る 聖書を人間に与えて下さった目的は 神様が神ご自身をを人に知らせるため
神がおられるのか おられないのか 人々は自分の理性 感性で決めることが出来る
どちらを選ぶとしても はっきりとした絶対的な根拠がなければならない
人は真理を求めそれを証明するために時間を費やして考え研究する
人間が手を合わせ 神を拝する行為は 誰かに教えられたのか それとも自分の中から
自然に出た行為であるのか どちらにしても絶対的な根拠ゆえの信仰でなければむなしい

聖書には何が書いてあるのですか・・と少しでも興味を持っていただく方の為に少しづつ書いていこうと思っている

光☆2

2016-10-01 16:20:39 | 教会
 子供のころ
  お天道様が見ているから悪い事はしてはいけないよ
  悪い事をするとおまわりさんが来るよと よく言われた
  
  倒れた看板の上に乗って飛び跳ねて遊んでいたら 近所の
  おじさんにひどく怒られた
  神様はいつも見ておられるよ とクリスチャンの母は言った

 子供心にそれを聞くと何か身が引き締まるような怖い気持ちになった

 
 すべての人を照らす まことの光が世に来ようとしていた ヨハネ1-9
 
 世に来ようとしていたまことの光は 確かに世に来られた 

 そしてまことの光である方は来て言われた。

 イエスは言われた「私は世の光です 私に従う者は決してやみの中を歩むことがなく
          いのちの光を持つのです。」 ヨハネ8-12

 光が世に来ているのに人々は光よりもやみを愛した その行いが悪かったから
 悪いことをするものは 光を憎み 行いが明るみに出されることを恐れて
 光の方に来ない

 罪悪は必ず裁かれる しかしまことの光として天から来られたイエス・キリストは
 世を裁くために来られたのではなく救うために来られた
 全人類 これから産まれてくる人も含め 人間の罪悪をすべて許すために人間の手で
 十字架に架けられ殺された。
 完全にやみの力が勝利したように誰もが思った しかし3日後彼はやみの力
 を打ち破って復活され 多くの弟子の前にご自分が生きていることを             釘の後をわき腹の穴をさわらせて証明された

 光はやみの中に輝いている やみはこれに打ち勝たなかった ヨハネ1-5


 日の光には必ず影が出来る しかし神様の栄光の光には影がない
 その光に照らされるなら 誰が耐えれるだろうか 隠れることもできない

 イエス・キリストは天から来られたまことの光 やみの中で犯した私の罪を許して
 暗闇から光へ移して下さったことを信じる 

 私たちは今 光の道を歩んでいる ゆえに光キリスト教会と名づけました