大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2016年12月25日主日礼拝説教 ルカによる福音書2章8~20節

2017-01-05 15:15:37 | ルカによる福音書

説教「飼い葉桶の救い主」

<ある国でのクリスマス>

 7,8年前でしたか、12月にある国に出張に行ったことがあります。この国はキリスト教を迫害している国でした。しかし、教会の数はとても多く、クリスチャン数もかなりの数になるそうです。そのほとんどが非合法な地下教会につながるクリスチャンです。迫害と言っても、大きな迫害を加えるのは特殊な時で、通常は見て見ぬふりをしているようです。そんな国のそれほど大きくない町に仕事で行った時、知識としてキリスト教を迫害しているというのがあったのですが、町にある商店の壁に日本で言うと年末セールみたいな宣伝ポスターが貼ってありました。わたしはその国の字は読めないのですが、クリスマスツリーのような絵も書かれていて、あ、これはクリスマスセールのポスターなんだと思いました。キリスト教を公には認めていない国の町で、ごく普通にクリスマスセールがされている、なんだか妙な気分でした。2016年、今年も、日本で、世界で、クリスマスが祝われています。その祝い方はさまざまです。日本では、もう今晩、スーパーマーケットに行ったら一気にお正月の雰囲気になっていることでしょう。クリスマスがいっきにどこかに行ってしまいます。日本でのクリスマスの扱いも、本質的にはキリスト教を迫害している国とさほど変わりません、経済効果のみを期待した扱いであるように感じます。しかしなお、どのような扱いを人間がしようと、神はそういうこともすべてご存知で、なお、救い主がこの世界に与えられたことを告げ知らせられます。2000年前から現在に至るまで、キリストの到来は途切れることなく告げ知らされ続けました。人間がそれを無視しようと、あるいは別の目的で利用しようと、なおキリストの到来は告げ知らされてきました。教会において告げ知らされたのです。キリストの体なる教会で神が働き告げ知らせておられるのです。

<クリスマスへ態度>

 現代でも、キリストの降誕に関して、人々の態度はさまざまですが、2000年前、救い主イエス・キリストがお生まれになった当時も、そのことに関していろいろな人が関わりました。いうまでもなく、もっとも重大な関わりを持ったのは、母マリアでしょう。彼女はほかならぬ神の御子をみずからの体内に身ごもったのです。そしてそのマリアを妻として迎えるヨセフ、さらにはすぐる週、共にお読みしました洗礼者ヨハネとその両親、そのほかに、さまざまな人がさまざまな在り方で救い主の誕生と関わっています。

 今日お読みしたルカではなくマタイによる福音書には、東方からやってきた博士たちがユダヤ人の王が生まれたことをエルサレムのヘロデ王に告げると、ヘロデ王やエルサレムの人々は不安になったと記されています。救い主、新しい王の誕生を聞いたヘロデ王はイエス・キリストを亡きものにしようとすらしたのです。

 つまり、すべての人々を救うために来られた救い主が、すべての人々から大歓迎されたわけではない、そう聖書に記されています。むしろ、ほとんどの人には知られず、一部の者からは猛烈な嫌悪感を持って迎えられたのが神の御子の誕生であり、私たちの救い主の降誕でした。そしてそのことは2000年前の遠い国の出来事ではありません。さきほど申しましたように今日においてもやはりそうなのです。イエス・キリストをどう考え、どのように自分の態度を決めるかというのは千差万別なのです

<顧みてくださる神>

 今日お読みいただいた聖書箇所は毎年のようにクリスマスの時期に読まれる箇所でもあります。讃美歌「まきびとひつじ」に歌われている場面です。「まきびとひつじ」は英語の題名では「ファーストノエル」。つまりはじめてのクリスマスということになります。はじめての救い主への礼拝ということです。その初めてキリストを礼拝したのが羊飼いたちだったと聖書は記しています。本来、羊飼いたちは、羊から離れることはできません。夜も羊を守らなければなりません。ですから野宿をして夜通し番をしていたのです。当然、律法で定められた安息日も守れません。当時の人々から見たら、生活の面でも宗教的な面でもさげずまれていた人々でした。その人々に初めてのクリスマスが告げ知らされました。辺境の土地、誰からも顧みられないガリラヤ地方の貧しい少女マリアに天使ガブリエルが現れたように、神はここでも、誰からも顧みられない人々のうえに素晴らしい知らせを届けられました。

 私たちは、そのことを毎年のように繰り返し聞きながら、すべての人を顧みてくださるお方、神様って素晴らしいと思います。たしかにそうです。でも神様が素晴らしいのは、マリアを顧みられたからでも、洗礼者ヨハネの母を顧みられたからでも、羊飼いたちを顧みられたからでもありません。ほかならぬ私、自分を顧みてくださったからです。ここにいる一人一人が個別に神に顧みられたのです。今も顧みられています。

 私たち自身が、暗闇の中にいました。野宿をしている羊飼いのようによるべなく日々を送っていたのです。神を知らなかった私たちは本当の平安を知ることがありませんでした。そんなわたしたちにクリスマスの出来事が告げ知らされたのです、私たちの上にも天使がやってきて、私たちも天使と天の大群の讃美の声を聞いたのです。これは遠い遠い国のおとぎ話ではありません。私たちの物語です。

 そんなことはない、私は野宿をしているわけでもない。セレブや大金持ちではないけれど、それなりにちゃんと社会生活を送っている。天使などやってきていないし、まばゆい神の栄光も見ていない、天使と天の大群の讃美など聞いたこともない。そう言われるかも知れません。たしかにこの耳で天使のお告げは聞かなかったかもしれません。まばゆい神の栄光を見ることはなかったかもしれません。天の大群の讃美は聞こえなかったかもしれません。しかし、いまここにいる私たち一人一人に最初のクリスマス、ファーストノエルがあったのです。そして繰り返し繰り返しクリスマスの出来事は告げ知らされています。そしてそれは個人的な神秘体験ではありません。

<わたしのファーストノエル>

 今年は12月25日が日曜日で、クリスマスの当日にクリスマス礼拝をお捧げすることができています。日本のプロテスタントの教会の多くは、通常なら25日の前で25日に一番近い日曜にクリスマス礼拝をお捧げします。そして年内にもう1週日曜日の礼拝があり、元旦の礼拝と続いていきます。でも今年は今日が年内最後の礼拝で、元旦は通常の主日礼拝となります。私が初めて教会の礼拝に行ったのは、25日が平日の年で、クリスマス礼拝の翌週の12月最後の礼拝でした。「クリスマス礼拝のときに初めて教会に行く人は多いですが、その翌週にはじめて教会にくる人は珍しい」とあとから言われました。珍しいと言われましても、その前の週がクリスマス礼拝だなんて、当時の私は知らなかったのです。たまたま教会に行きやすかったのが会社が冬休みに入った最初の日曜日だったのです。クリスマス礼拝には100人以上が集う教会でしたから、おそらく前の週の礼拝やら祝会はさぞにぎやかだったことでしょう。それに対して年内最後の礼拝は、帰省する人などもいて、人数も少なく、寂しい礼拝だったかもしれません。そういうことは当時の私にはよくわかりませんでした。たしか説教の箇所もぜんぜんクリスマスとは関係のない旧約聖書のモーセの話だった記憶があります。

 でも、クリスマスの讃美歌もページェントもごちそうもない地味な日曜日でしたけど、私はあの時、ファーストノエルを体験したのだと思います。礼拝において、飼い葉おけに眠っている幼子イエスに出会ったのだと思います。

 なぜそういえるのか?

 その翌日から、一気にというわけではないのですが、それからわたしの生活は変わって行ったからです。最初は興味半分で礼拝に行ったようなところもありました。でも気がつくと毎週礼拝に行くようになっていました。やがて洗礼を受けました。その直後、職場と家庭で大きな変化がありました。劇的というのではないですが、確実に、わたしの中のなにかが変わって行き、また私を取り巻く環境が変わって来ました。

 その変化の基点にあるのは、地味な、寂しい12月最後の礼拝がありました。そのときは、ああ礼拝ってこんなものかと、ただ「ふーん」と自分では聞いていたつもりでした。でもそのとき、すでに飼い葉桶のみどりごはわたしの救い主となられるためにわたしと出会ってくださったのです。

<羊飼いたちの行動>

さて、2000年前の羊飼いたちは天使のお告げを聞いて、ただちに行動を起こしました。仕事をそのままにしてベツレヘムへ向かいました。もういてもたっても居られなかったのです。神が語りかけてくださった、そのことを見に行こうではないか、すぐに行こうではないか、神に語られた人はすぐに行動を起こすのです。明日、とか、来週ではないのです。創世記のアブラハムの物語で大事な大事な息子イサクを捧げよと夜神に言われたアブラハムは翌朝、すぐに旅立ちました。マリアを妻として迎えなさいと告げられたヨセフもすぐにマリアを妻として迎えました。羊飼いたちもすぐにベツレヘムへ向かいました。

そこでまさに見たのです。飼い葉おけに眠っている赤ん坊を。神の救いの業を見たのです。ある方はこの場面をけっして美しい場面ではなかったであろうとおっしゃっています。わたしもそう思います。クリスマスのページェントでは美しく描かれる場面ですが、そのようなものではなかったでしょう。若い夫婦が初めての出産を体験したのです。それだけでもたいへんなことです。2000年前であれば今以上に出産にともなう危険は大きかったでしょう。しかも、若い貧しい夫婦は長い苦しい旅をしてきました、そして子供を産むにはふさわしくない非衛生的な環境でどうにか子供が生まれてきた。飼い葉おけに寝かされていた赤ん坊は、貧しさとこの世の暗さのただ中に生れて来たのです。この世の悲惨のゆえにそのような生まれ方しかできなかったのです。その飼い葉桶のみどり子を羊飼いたちは見ました。普通に見たら悲惨なかわいそうな赤ん坊でしかないみどりごを見たのです。しかし、羊飼いたちはそこに神の業を見ました。そして羊飼いたちは帰って行きました。元の場所に帰って行ったのです。

帰って行った彼らの生活が表面的には変わったわけではありません。羊飼いが別のものになったわけではありません。羊飼いは羊飼いのまま、やはりそれからも野宿をしながら羊の世話をしながら、たいへんな生活をしつづけたのです。救い主を見たから大金持ちになったとか、出世したということはないのです。でもやはり彼らは元の自分たちの生活に帰りながら、なお変えられたのです。

救い主と出会った者は変えられるのです。人々からさげずまれていた彼らは人々に自分たちが体験したことを伝えたのです。社会的な地位の低かった彼らは仕事などで必要な事柄以上は、世間の人々と話をすることはあまりなかったでしょう。そんな彼らが飼い葉おけにおられた救い主のことを人々に伝えました。伝えずにはいられなかったのです。そのように変えられました。そんな彼らの言葉を人々は不思議に思ったとあります。これは驚いた、びっくりしたということです。でも聖書はそれを聞いた人々が、聞いて驚いた人々が、さらにヨセフとマリアのもとへ飼い葉桶の主イエスを見ようと押しかけた、とは書いていません。多くの人々の主イエスへの姿勢は、すぐに救い主を見に行った羊飼いたちと同じではなかったのです。おそらく多くの人は、クリスマスを体験することができなかったのです。

<わたしたちのファーストノエル>

 いま、私たちはクリスマスを体験しています。飼い葉桶のキリストと共にあります。それは、私たちもまたここからそれぞれの場所へ送りだされるためです。私たちの住む地上にはたくさんの悲惨があります。私たちの人生にも悲惨があります。罪の悲惨があります。その悲惨を平和へと祝福へと変えてくださる、それが飼い葉おけに寝かされているみどりごの主イエスです。やがて十字架に向かわれるキリストです。悲惨な世界に悲惨な形でおうまれになったキリストです。しかしそのことのゆえに私たちは私たちの悲惨から救われています。そして変えられていきます。それぞれの場所に私たちは戻ります。昨日と何一つ変わらない日々に。でも飼い葉おけに寝かされた赤ん坊によってその日々は変えられていきます。飼い葉おけに寝かされた赤ん坊を礼拝した者たちはすでに希望を持って生きていきます。クリスマスに与えられた希望のゆえに、本来は悲惨でみじめな非衛生的な馬小屋の場面が、礼拝をする者にとって喜びに満ちた美しい場面となるのです。


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