犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死者には人権がない

2007-11-21 16:03:56 | 言語・論理・構造
人権思想を背景とする近代法は、人間の理性を最大限に信頼し、自然科学の手法を取り入れた精緻な理論を展開してきた。そこでは、好むと好まざると「死人に口なし」との理論が正面からまかり通ることになる。死者には理性がなく、人権もないからである。どんな殺人犯に対しても死刑を科すべきではないとされるのは、すでに殺された人間には人権がなく、他方で生きている者には人権があるからである。直観的に変だという疑問は、理性に基づく理由づけがなされない限りはまともに取り上げてもらえない。

交通事故の死者にとって一番浮かばれないのは、加害者に過失割合の文法の主張が許されていることである。ここでは、被害者の敵は加害者よりも保険会社であることが多い。いくら加害者が反省して自らの過失を認めていても、保険会社は被害者側の過失を主張して値切ることが仕事である。本来このような数学的な割合の算定は、理性があり人権がある人間同士において成立するものである。従って、被害者が怪我をしているにとどまる場合には、意識不明の重症を除いては、このパラダイムはとりあえず上手く回る。これに対して、被害者が死亡した場合には、この部分的言語ゲームのルールは加害者の一方的な語りを許す。あとは目撃者頼みであるが、これは単なる偶然であって、ゲームのルールに変更はない。

近代法下の人間は、判例の集積によって、過失割合に関する多くの基準を作り出した。例えば、交差点における自動車とバイクの衝突においては、自動車のほうに「止まれ」の規制がある場合には、自動車が85%、バイクが15%の過失と定められている。しかし、バイクの運転者が死亡した場合には、自動車の運転手の一方的な弁解が通る。「自分は減速したがバイクは減速しなかった」と言えば、自動車が75%、バイクが25%の過失とされる。さらに「自分は一旦停止したがバイクはスピード違反で脇見運転をしていた」と言えば、自動車が45%、バイクが55%の過失となる。このような部分的言語ゲームの勝負に持ち込まれると、死者は圧倒的に不利である。目撃者を探し、残されたバイクの破片を集め、道路のスリップ痕を細かく鑑定するのも、すべてはこの部分的言語ゲームのルールを上手く回らせるための苦心の策であるが、その根本は変わらない。

さらに、近代法に基づく部分的言語ゲームのルールは、死者を積極的に歓迎する場面がある。それが消極損害の算定の場面であり、裁判官においても弁護士においても、裏では「死んでくれたほうが計算が簡単だ」と言われている部分である。死者の場合には、休業損害に関する細かい計算が一切不要となる。また、後遺障害による逸失利益も考える必要がなく、労働能力喪失率の細かい認定からも解放される。遺族の言葉が法律家に伝わらないのも、言語ゲームの階層性によるところが大きい。近代法における複雑な部分的言語ゲームを遂行するためには、「死んでくれたほうが計算が簡単だ」というレベルにまで至らないと、とても専門家としてやって行けない。現に世の中はそのように回っているからである。

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