犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

栃木県鹿沼市・クレーン車事故 (前半)

2011-04-27 00:36:01 | 時間・生死・人生
 4月18日午前7時45分頃、栃木県鹿沼市樅山町の国道293号線で、登校中の小学生の列にクレーン車が突っ込み、9歳から11歳までの6人の小学生が亡くなりました。その日、自宅の玄関から息子や娘を学校に見送ったであろう両親の今後の人生を勝手に想像し、夢も希望もないことを書きます。

 息子や娘を学校に送り出したその瞬間の光景は、目に焼き付いて忘れられるはずもなく、絶対に忘れたくもなく、しかしその瞬間が永遠の別れでもあり、心療内科的にはトラウマやフラッシュバックを引き起こす要因に位置づけられ、どちらに転んでも出口がない地獄だと思います。
 息子や娘が学校からある日ふと帰ってくるかも知れないと一瞬錯覚しても、次の瞬間には現実に破れ、せめてあと一度だけでも会いたいと思っても叶わないことは繰り返し承知させられ、この現実が現実であることを他人に伝えようとすれば気が狂ったと思われ、両親は面倒臭くなり何も言えなくなることと思います。

 息子や娘を学校に見送ったその日から、両親はそれ以前の自分ではなくなり、その前日までとは全く違う人生を歩むことになり、しかもそのような人生を歩むことは誰に強いられているのでもなく、今まで通りの人生を平然と歩むこともできるのだという人間の自由が、解決不能の問題を人間に突きつけるように思います。
 これに対する解決は、息子や娘が生きていることだけであり、それ以降は夢を見ている状態であり、従って両親の自分史はその日を境に書き換えられざるを得なくなるはずですが、その事実は息子や娘の自分史はその日で終わったのだという現実を明らかにすることでもあり、どう頑張っても最後のところは絶望に至るのだと思います。

 息子や娘を学校に見送ったその日で時間が止まり、これ以上の悲しみはないという悲しみの前には他のことは何も怖くはなく、ましてや世間では時間は流れているのだという常識から外れることなど怖くも何ともなくなり、しかもあの日で時間は止まっているのだと言明するや、世間からは同情を寄せられ、両親において信じられることは何もなくなっていくように思います。
 伝わらない人には何を言っても伝わらず、見当違いの反応に疲れ果て、その結果として自分の感情すら漠然として掴みどころがなくなり、結局は「なぜ自分の人生はこのようであるのか」という問いの周囲を回り、自分の人生は自分の人生である以上すべてを1人で背負うしかないという答えに突き当たり、出口がなくなるように思います。

 息子や娘を学校に見送ったその日から、息子や娘は家におらず、学校にもおらず、息子や娘は今日もおらず、明日もおらず、明後日もいないという現実が現実として繰り返し確認され、存在は不在によって際立つ以上、不在も存在によって際立ち、毎日毎日が不在の確認であり、それが人間の新たな絶望と苦しみを生むように思います。
 この不在は一瞬一瞬の不在であり、従って過去になることはなく、すべての現在において現実化していますが、世間的な感覚には反しており、暗いニュースは過去のことにしたい、終わったことにしたいという圧力は非常に強く、本来であれば余計なことに使う労力が増え、それによって手放してしまった一瞬の言葉は永久に戻らなくなるのだと思います。

(後半に続きます。)

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2 コメント

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車は怖い (名無しのペーパードライバー)
2012-03-24 00:44:09
 20年以上前の夜,わたしの母の従弟が
飲酒運転の車にはねられて死亡しました。
享年27歳。職場の飲み会があり,
車を置いて歩いて帰宅する途中に
ひき殺されました。加害者は20歳の女で,その両親が持ち家と土地,畑を売却して遺族に千万単位の賠償金を支払ったそうです。
 子供の頃,被害者のお母様が
「〇〇が死んで残念だわ」と深い悲しみの
こもった声でつぶやくのを聞いて,何十年経とうと,悲しみは心の奥に沈んだままなのだなと子供心に印象に残りました。
 今回の事故の犠牲者のご遺族がどんなに苦しまれるかと思うと,胸が痛みます。前にも事故を起こしているのに運転し続けた被告は極刑に処すべきです。もし私が加害者だったら自殺します。こんな男が10年も経たずに娑婆に出てきたら,他に生計をたてる手段はないのでまた同じ罪を犯すのではと危惧しています。なぜ危険運転致死罪に問えないのでしょうか。
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名無しのペーパードライバー様 (某Y.ike)
2012-04-03 01:01:19
 コメントありがとうございました。遅くなってすみません。

 人の命を奪ってしまった加害者は自責の念で自殺したくなるはずである、という倫理観を捉えているときに、「法は厳罰を叫ぶ国民の感情に左右されるものではない」という理屈をぶつけられると、思わぬ方向から急に殴られた感じになり、そこで思考が止まってしまいますね。刑事裁判の現場でこのような齟齬がどれだけ繰り返されてきたかと思うと、気が遠くなります。

 法は時と場所によって異なる相対的なルールに過ぎませんから、この件を危険運転致死罪に問えないのは、単に現在の刑法は人命に重きを置かない選択をしていると言うしかないと思います。ただ、ここで加害者の自責の念という倫理的直観を経なければ、「刑法は死刑の存置によって人命を軽視している」という理論に引っ張られるかも知れません。

 人間は自力で報復して恨みを晴らしていた時代から、理性によって問題を解決する時代へと成長し、刑事裁判の制度が確立したという説明が一方でなされます。他方では、裁判所は単に法的な紛争を解決するための場所に過ぎず、真相究明や道義的責任の追及の場ではないという説明がなされます。これは、法律家が見て見ぬふりをしている矛盾点であり、だからこそ被害者遺族を黙らせなければならない部分なのでしょう。

 飲酒運転をしないよう歩いていた27歳の方が亡くなり、飲酒運転をした20歳の加害者が生きているのは、不公平だとか不当であるとか言う前に、不思議ですね。加害者が事故のことをさっぱり忘れているのは論外として、仮に心から反省して苦しみ続けているにしても、被害者は二度と生きることはできないのに、加害者が罪を償って生きることができているのは不思議なことだと思います。
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