少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

自動プログラムについて

2024-03-25 13:33:47 | 哲学
頭の中には本人もコントロールできない自動プログラムが走っていると指摘した。芸術を見て感動することなどは、そういう自動プログラムの結果ではないかと思うのだ。でも、普段、人はそういうプログラムの存在に全く気が付いていない。すべての行動は自分の意志によって行動していると思っている。もちろん私もそうである。
でも、時々そういうソフトウエアの存在を示唆するようなことに気が付くこともあるのではないだろうか。例えば恋愛感情というのは、自分の意志というよりも、相手のことを考えずにはいられないような意識を越えた力の存在を感じずにはいられない。時にそれを運命と意識は考える。でもロマンチックな話をこんな風に書いたら、イメージが台無しになってしまうかもしれないけど、こういう感情は頭の中に埋めこまれた自動プログラムの典型的な例の様に思える。恋に落ちるとは、ある種のソフトウエアが何かをきっかけに頭の中で走り出したことを意味するのだ。そのソフトウエアが何かの拍子にとまってしまうと、百年の恋も冷めてしまうことになる。嗚呼。
 
そんな風に考えると、自由意志と思っている私たちの意識いうのは、そのほとんどすべてが意識下の自動ソフトウエアの動作の結果ではないかとも思えてきた。他人が起こす、考えられないような事件や遠くの国で起きている争いごとは、遠く離れて客観的に見ればそんなことをなぜするのだろうと思うような事柄であっても、当の本人にとってはそうせざるを得ない意識によって引き起こされている。だから自動ソフトウエアには、民族や文化を共有する人たちにおいては、多分似通っているのだろうと思う。そしてそうした意識下の自動ソフトウエアが勝手に意識をコントロールしているとは言えないだろうか。行動を起こしている本人には、その行動を正当化するようなロジックが当然あるのだろうけど、実際には自動ソフトウエアがつじつま合わせの理屈を作っているだけに過ぎない。私たちの意識とは、多分その程度のものに過ぎないと思うのだ。
 
じゃあ、私たちにはそうした作られたインチキの意識に対して何の対抗手段も持ちえないのだろうか?自動ソフトウエアは、エゴイスティックに作られていて、そのせいで世の中から争いが絶えないのだろうか?私は自分の意志が自動ソフトウエアによって作られたものであると考えることにヒントが隠されているような気がする。それは自己否定にもつながるような考え方なので、やや精神的な危険を伴う考え方ではあるのだろうけど。

美術館の楽しみ方

2024-03-18 21:49:21 | 哲学

人間の脳において自動的なソフトウエアが走っているという話をした。それはその人の意思とは関係なく勝手に動作しているプログラムであり、自分で動かしたり止めたりすることはできない。そんなことを考えているときに、近くの世田谷美術館に出かける機会があった。世田谷美術館は、区立の美術館にしてはずいぶん立派な建物で、世界の名画とはいかないまでも、いろんな企画展をお手ごろな値段で楽しめる。今日は、小田急線沿線の美術家の作品を集めた展覧会をやっていた。最近のメジャーな美術館の入場料は2000円を超えて結構高いのだが、ここは500円と安くて助かる。

館内に入っていろんな芸術品を鑑賞するのだが、横に書いてある説明を私はあまり読まない。少し距離を置いて、絵を何となく眺めると、ちょっと心臓がどきどきしてくるというか、

「おおっ、いいなあ。」

と思える作品に時々出会う。どちらかというと輪郭のはっきりした、色味を多く使った作品に惹かれることが多い気がする。コントラストのはっきりしたモノクロ写真もいいと思う。昔は好きだった印象派のような輪郭のはっきりしないふわっとした作品はあまり感じない。何枚かそういう作品に出会えると、美術館にきてよかったと思う。

多分それは、自動的に私の頭の中で動いているソフトウエアが、その作品に反応しているのだと思う。意識とは関係ないところで、感情や体の反応という形でそのソフトエアはリアクションを示している。意識の主体である私は、それを横で傍観するしかないけれど、自動ソフトエアがどう反応するのだろうと考えながら絵画を鑑賞するのは悪くない気がする。

実は、こういうことって美術品の鑑賞に限った話ではないだろう。カメラを持って町に出かけるとき、写真家は何にレンズを向けるのか。それは必ずしも意識的に選択されるわけではないはずだ。考えてもよくわからないけど、

「おおっ、いいなあ」

と思う被写体にカメラを向けるに違いない。私もそんな感じでスナップ写真を撮る。それは、美術館のお気に入りの作品と同じだ。そして、そういう風にしてとられた写真というのは、同じような自動ソフトウエアを持った人にも同じ様な反応を想起させるんだろうと思う。こういうプロセスを「感動」と呼ぶんだろうなきっと。逆に言うと、いくら技巧を凝らしてきれいに見える作品や写真を撮っても、そういう自動ソフトエアの関与しない作品には感動は生まれないに違いない。豊かな自動ソフトウエアってどうやってはぐくまれるかはよくわからないけど、芸術を理解するというのは、そういう自動ソフトウエアの関与が絶対に必要なのだろうと思う。


感情について

2024-03-18 21:47:10 | 哲学

「何かを感じる」、それはその人の自発的な行為の様に普通は考える。しかし、そのプロセスをよく観察してみると、実は意識的に何かを感じているということはほとんどないのではないかと思う。本人の意思とは関係ないところで「感じる」というプロセスは発動していることが多いように思える。感じることは自動プロセスであって一義的には人の意識とは関係がないと言っても差し支えないのではないか。

他方、何かを感じるということは、感じる対象があるということだから、それは自分だけで完結する事柄ではなく、周りとの相互作用の結果生まれているともいえる。純粋に頭の中で起こった妄想でなければ、感じることも外部との関連は深く結びついているともいえるだろう。絵を美しいと感じることや小説に感動することなど、感情には対象が必要である。

では、果たして「感じる」という事象は、外部の対象によって起動された自動プロセスなのか、それとも自動プロセスが起動されたのちに辻褄合わせの様に外部の対象に結び付けられるのか、どっちが先かというとなかなか難しいところだと思う。どちらかというと前者の方が常識的な見方かもしれない。美しい絵を見たから「美しい」と感じたのであって、その逆ではないはずだ。しかし、自動プロセスによって想起された感情によって、周囲の状況とマッチするように状況が取捨選択され、それが体験として認識されるということはないのだろうか。例えば、「美しい」という感情が心の中に湧き上がってくると、何となく上野の美術館に行きたくなって、そこで見たゴッホの絵を見て感動する、みたいに。表面的には美術館で傑作を見たから美しいと思ったということになるけれど、本当は「美しい」という感情の方が先にあったということはあり得る気がする。

もし、そうだとすると、もし自動的な感情を何とかしてコントロールすることができれば、自分の目の前で起こる経験をも制御することができるのかもしれない。もちろん、自動的な感情をコントロールするというのは矛盾したステートメントである。自動的なものは制御できない。でも、人々は長い歴史の中でそれにチャレンジしてきたようにも思える。座禅などの瞑想や、リラクゼーション、運動など、精神的な安定のための方法が様々提案されているし、最近は不調をきたした精神に対する投薬も行われている。自動的な感情プロセスの起動には体のフィジカルな部分も含めて様々なファクターが関与しており、そうした因子を制御することにより感情の自動プログラムをコントロールしようとしているのである。

異常気象や天変地異、政治不信に紛争の長期化。皆、それぞれの人の感情とは別のところで起こっている事実の様に思っているけど、もしかするとそれぞれの個人の心の中で発動している感情ソフトウエアによって自らが拾い上げているにすぎないのかもしれない。