少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

美術館の楽しみ方

2024-03-18 21:49:21 | 哲学

人間の脳において自動的なソフトウエアが走っているという話をした。それはその人の意思とは関係なく勝手に動作しているプログラムであり、自分で動かしたり止めたりすることはできない。そんなことを考えているときに、近くの世田谷美術館に出かける機会があった。世田谷美術館は、区立の美術館にしてはずいぶん立派な建物で、世界の名画とはいかないまでも、いろんな企画展をお手ごろな値段で楽しめる。今日は、小田急線沿線の美術家の作品を集めた展覧会をやっていた。最近のメジャーな美術館の入場料は2000円を超えて結構高いのだが、ここは500円と安くて助かる。

館内に入っていろんな芸術品を鑑賞するのだが、横に書いてある説明を私はあまり読まない。少し距離を置いて、絵を何となく眺めると、ちょっと心臓がどきどきしてくるというか、

「おおっ、いいなあ。」

と思える作品に時々出会う。どちらかというと輪郭のはっきりした、色味を多く使った作品に惹かれることが多い気がする。コントラストのはっきりしたモノクロ写真もいいと思う。昔は好きだった印象派のような輪郭のはっきりしないふわっとした作品はあまり感じない。何枚かそういう作品に出会えると、美術館にきてよかったと思う。

多分それは、自動的に私の頭の中で動いているソフトウエアが、その作品に反応しているのだと思う。意識とは関係ないところで、感情や体の反応という形でそのソフトエアはリアクションを示している。意識の主体である私は、それを横で傍観するしかないけれど、自動ソフトエアがどう反応するのだろうと考えながら絵画を鑑賞するのは悪くない気がする。

実は、こういうことって美術品の鑑賞に限った話ではないだろう。カメラを持って町に出かけるとき、写真家は何にレンズを向けるのか。それは必ずしも意識的に選択されるわけではないはずだ。考えてもよくわからないけど、

「おおっ、いいなあ」

と思う被写体にカメラを向けるに違いない。私もそんな感じでスナップ写真を撮る。それは、美術館のお気に入りの作品と同じだ。そして、そういう風にしてとられた写真というのは、同じような自動ソフトウエアを持った人にも同じ様な反応を想起させるんだろうと思う。こういうプロセスを「感動」と呼ぶんだろうなきっと。逆に言うと、いくら技巧を凝らしてきれいに見える作品や写真を撮っても、そういう自動ソフトエアの関与しない作品には感動は生まれないに違いない。豊かな自動ソフトウエアってどうやってはぐくまれるかはよくわからないけど、芸術を理解するというのは、そういう自動ソフトウエアの関与が絶対に必要なのだろうと思う。


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