ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

“マンガ” 日本美術・技術博物館

2013-01-13 19:32:05 | クラクフ (ポーランド)

クラクフについて調べ始めて間もなく、クラクフには記事タイトルのような博物館が存在することを知った。通称“マンガ館”。

な~るほど、日本のアニメやマンガ人気はポーランドにも浸透し、とうとうそんなセンターまでできたのね。と早合点しかけたが、ちょっと違った。

旧市街の南端にある、歴代王の居城だったヴァヴェル城。マンガ館は、ヴィスワ川をはさんでその対岸に位置する。

 

正式名称は、2007年までは Manggha Centre of Japanese Art and Technology。その後 Manggha Museum of Japanese Art and Technology に変わった。

館内にあるカフェ・マンガ(Cafe Manggha)では寿司を含む和食が食べられ、テラス席では対岸のヴァヴェル城を眺めながらのティータイムを楽しめるらしい。

    

でも、なぜに日本から遥か遠いポーランドの古都クラクフに、日本美術・技術博物館が???  ・・・その答は、少しずつ見つかっていった。

事の起こりは、フェリクス・ヤシェンスキ(1861-1929年)というエキセントリックな批評家/美術品収集家。富裕な大地主の家柄に生まれた彼は、外国を旅行する機会にも多く恵まれ、日本美術を愛好するようになり、自らが日本に出掛ける機会は終生なかったものの、浮世絵・木版画・掛け軸・屏風・甲冑・刀剣・鎧・陶器・印籠といった日本美術品を、イタリア・ドイツ・フランスなどで数多く買い付けた。また『北斎漫画』から「マンガ」の一語をとって、自らを “フェリクス・マンガ・ヤシェンスキ” (Felix Manggha Jasienski)と名乗った。ヤシェンスキは自分の収集品を、1901年から1913年にかけてワルシャワ、クラクフ、リヴィウなどで展示した。1901年からクラクフに住むようになった彼は、「公衆への展示を目的とすること」と「ばらばらにせず、常に一ヶ所にひとまとめにしておくこと」を条件に、1920年、約15,000点に及ぶ日本美術の収集品を、クラクフの国立博物館に寄贈した。

ヤシェンスキの写真(下左と中)と、マンガ館に設置されたヤシェンスキの記念碑(下右)。

      

ヤシェンスキの死後、膨大な日本美術品は博物館の倉庫に眠ったままになった。量が膨大すぎて、展示するスペースが見つからなかったのだ。

クラクフがドイツに占領されていた1944年。ドイツ軍は同盟国である日本の美術品の一部を、大広場にある織物会館で展示することにした。たまたまその展示を見たのが、当時18歳だったアンジェイ・ワイダ。美術を志していた彼は、日本美術に大きな感銘を受け、すっかり心を奪われた。

「あれほどの明るい色彩と秩序と調和の感覚は、それまで見たことがなかった。」 ワイダは後に語った。 「人生においてあのとき初めて、真の芸術に出会った。」 

ナチス・ドイツによるヤシェンスキの収集品の横取りが懸念されたが、不思議なことにドイツ軍は、515点ほどの木版画(歌麿、北斎、春信、広重、春章、豊国などが含まれてはいたが)と17点の絵画を持ち去っただけだった。

1987年にワイダ監督は、日本の稲盛財団から京都賞を受賞した。彼は受賞のスピーチで、賞金の4500万円(34万ドル)を「クラクフに日本センターを建設するために遣いたい」と述べた。「若いときに経験した感情や歓喜は、人生において最も強く心に残る。若かった私が初めて日本の美術に触れたときに得たあの幸福感を、他の人々にも味わってもらえたら、と思う。」

翌1988年、ワイダ夫妻が発起人となって『京都クラクフ基金』が設立される。基金の最初の目的はもちろん、「クラクフの国立博物館倉庫に保管されている日本美術品を常設展示する建物の建設」。京都賞の賞金は大金ではあったが、この偉大な目的のためには十分ではなかった。資金への協力は、日本からきた。JR東労組(東日本旅客鉄道労働組合)が100万ドルを提供してくれたのだ。それもワイダ監督の映画が日本で広く知られていたおかげであり、ワイダ監督の映画を長く上映してきた岩波ホールの高野悦子も、センター建立のための資金集めに協力した。彼女のエネルギーと人脈の広さのおかげで、各界著名人の支持と協力が得られ、日本政府も約300万ドルを提供。最終的に550万ドルという必要資金が集まった。一方クラクフ市も建設を支持し、無償でセンター建設のための土地を提供することを申し出、いくつか候補地をあげてくれた。

高野悦子によってワイダ監督に紹介された、国際的に有名な建築家の磯崎新は、無償でセンターを設計。『波』をイメージした屋根のデザインは、現在も高い評価を受けている。ヴィスワ川を挟んだヴァヴェル城の対岸が建設地に選ばれ、急ピッチで建設は進み、1994年11月30日に落成式が執り行われた。センターは、レフ・ワレサ大統領と高円宮によって公式にオープンされた。2002年7月には、天皇皇后両陛下もセンターを訪問された。

2009年5月、マンガ館前で、稲盛財団の稲盛専務理事とワイダ夫妻。     2009年9月、ワイダ夫妻とマンガ館を設計した磯崎新と正体不明の誰か。

 

こうして約7000点の日本美術品がようやく居場所を与えられ、日の目を見るようになった。コンファレンス・ルームやコンサート・ホールも擁するセンターは、期間限定で現代美術や最新テクノロジーを展示し、能や歌舞伎など日本の伝統芸術も披露する。

 

 

マンガ館は日本の美術品の展示だけでなく、文化センターとしても活発に活動している。茶道・活け花のクラスに加えてジャズやクラシック・コンサートを含む様々な企画・催しが行われ、日本とポーランドの文化交流の拠点としてすっかり定着した。ポーランド盆栽クラブの本部でもある。

                          

子供の日の『お習字体験クラス』らしい。漢字、逆さまだけど・・・ま、いっかっ。  

  

クラクフを泳ぐ鯉のぼり。                                            三味線演奏や剣術披露などもする。

  

マンガ館の活動はさらに広がり、2003年にはマンガ館の隣に360㎡の日本語学校が建設された。JR東労組が20万ドルを、日本政府が40万ドルを拠出した。

現地の日本語指導助手のお二人のレポートにご興味ある方は、こちらこちらをどうぞ。

下左: 日本語学校の着工式でレンガを積むワイダ監督。          

  

時代の要求に応えるべく、今後のマンガ館は、中国や韓国といった日本以外の東洋の国の文化や芸術も活発に推進していくことになった。その拠点として “東洋芸術ギャラリー” を、マンガ館の隣に建設する計画もある。これは独立した建物で、日本以外の東洋の国々の展示会やイベントに使用される予定だそうだ。

(オマケですが、日本ファンの若いポーランド女性のブログを見つけました。浴衣姿の8人の若いポーランド女性が、クラクフの町を闊歩する写真が載っています。外国人女性の浴衣姿というのも、なかなか素敵ですね ヴィスワ川にかかる橋から撮られた写真では、右にヴァヴェル城、左にマンガ館が見えて位置関係がよくわかりました。)

 

・・・と、いうわけで。これが、クラクフの下調べを始めた私が発見した、“ワイダ監督と日本との縁”です。ワイダ監督の公式サイトにも、日本に関するページ “Andrzej Wajda - Why Japan?” があります。(以下、私のつたない訳ですので、ゆる~く信じるにとどめて下さいね。)

「ドイツに占領されていたとき、私はクラクフにいた。書類の不備のため、隠れて暮らさなければならなかった。一度だけ町に出掛けたら、織物会館で日本美術が展示されていた。美術品がどこから来たのかも、誰がクラクフにそれらを集めたのかも知らなかった。日本はドイツの同盟国だったから、ヴァヴェル城に本部を置いていたドイツ軍の総督が日本に敬意を表するため展示を決めたのだろう。危険を承知で、織物会館に紛れ込んだ。それは信じられないような冒険だった。その時のことは、今でも細部にわたって鮮明に覚えている。今日ヴィスワ川のほとりに立つマンガ館は、ここクラクフで私が日本美術と出会ったあの驚くべき体験に端を発したことは間違いない。

その後何年も経ち、私の映画は認知度を高め、外国に行く機会も増えた。日本でも知られるようになり、日本のノーベル賞ともいえる権威ある京都賞を受賞した。それには私の想像を超える大金が、賞金としてついてきた。映画製作であれほどの大金を稼いだことはなかった。それで思った。妻のクリスティーナも同じ意見だった。これは、クラクフに日本を紹介する良い機会ではないか、15000点に及ぶ膨大な収集品は、居場所を与えられるべきではないか、とね。磯崎新は建物を設計してやって来、我々は一緒にヴァヴェル城のテラスに立った。市当局はいくつか候補地を挙げたが、センターは水の近くに建てられるべき、というのが彼の意見だった。世界の最も美しい建物は、水辺に建っているからだ。それで建設予定地が決まり、そうこうするうち突然政治情勢が変わり、センターは15ヶ月で完成した。大金を拠出してくれた日本政府とJR東労組のおかげで、突然クラクフに日本が存在することになった。」

 

親日家のワイダ監督からは、東北関東大震災の後にも励ましの寄稿『日本の友人たちへ』がありました。

ワイダ監督、折に触れてはマンガ館に足を運んでいるようです。監督とマンガ館の情報をサーチしていて、とてもラッキーだった日本人フリージャーナリスト・武部好伸さんのブログ記事を見つけました。雨宿りと寒さしのぎのためにふらりと立ち寄ったマンガ館に、何と、偶然、ワイダ監督がいらしていたんですって!   許可をいただいたので、リンクを貼らせていただきますね。「好々爺とひ孫」のくだりでは、思わず笑ってしまいました。 (好々爺・・・なるほど、確かに。

世界的に有名な大監督が、祖国に日本文化を紹介するために尽力して下さっていたとは・・・ これまで露ほども知らず、申し訳なさで一杯です。

一日本人として、ワイダ監督ご夫妻と、マンガ館実現に協力して下さった全ての方々に、心からお礼を申し上げます。 

クラクフに行ったら、マンガ館にも絶対、足を運ばなくちゃ!

(和食が目当てな訳ではありませんよ。ええ、決して・・・ 

 

ひとこと追記:

   不思議なことに、京都とクラクフって、まだ姉妹都市になっていないんですね。

   京都もクラクフも昔は首都だったし、古い建物が数多く残る美しい古都で、京都クラクフ基金を通じて交流もあるし、

   これは絶対姉妹都市になるべきだ!と私は思うのですが?

 

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2 コメント

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Unknown (真一)
2014-01-11 22:48:39
ブログを読ませていただきました。私は神奈川県在住、高校生です。昨年11月下旬から12月上旬に、学校に許可を取ってポーランドに行く機会を得ました。

といいますのも、私の大叔母に山口悦子という人物がいることに所以します。在ポーランド大使館のホームページなどをみていただくとわかると思うのですが、マンガ美術館で、大叔母が大使より表彰状をいただきました。

昨年11月29日にクラクフのバリツェ空港に着き、30日にはマンガ開館記念日兼ワイダさんのお誕生日会に招待していただき、実際に美術館や日本語学校に行ってきました。帰国後、ネットで調べるとこのブログがヒットし、楽しみながらよませていただきました。

展示エリアでは上方の歌舞伎、浮世絵特集をしていて無料で見せていただきました。

今年は大叔母がポーランドとの交流を始めて40周年、マンガ開館20周年の式典があります。自己紹介でイギリス在住とのことがわかりましたので、ぜひポーランドに訪れてみてください!クラクフはタイムスリップしたような感覚にしてくれる街です!それから興味深いブログ、ありがとうございました。
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コメントありがとうございます! (ハナママゴン)
2014-01-12 07:28:46
そうですか、真一さんは、大叔母様がポーランドに縁の深い方なのですね。
11月から12月にかけてのポーランド・・・ さぞお寒かったのではと思います。
私のこの記事は、クラクフに行く前の予習として学んだことを書いてみたものです。
クラクフへは、去年の6月に6泊7日で訪れました。
前半は天気があいにくでしたが、最後の一日半にようやく天気に恵まれました。

クラクフ、本当に美しい街ですよね。イギリス人に人気があって、観光客の1/4がイギリス人というのも不思議はないと思いました。
今年は秋に、クラクフとヴロツワフに行きたいと計画しています。イギリスからなら2時間ちょっとの飛行、楽なので助かります。
コメントありがとうございました。
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