ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

アンジェイ・ワイダ監督

2013-01-05 00:28:45 | ひと

ポーランド映画界の巨匠、アンジェイ・ワイダ監督。クラクフ~カティンつながりでワイダ監督についていろいろと新しい発見があったので、新年最初のトピックは、ポーランド映画界の重鎮に敬意を表してワイダ監督を取り上げたいと思います。

最初の嬉しい発見は・・・ ワイダ監督の誕生日! 私と同じで3月6日なんです! しかも1926年生まれで私より36歳年長だから、干支まで同じ、寅年生まれ! すごい偶然で、一気に親近感が増しちゃいました。 

数多い作品のうち4本(『約束の土地』、『ヴィルコの娘たち』、『鉄の男』、『カティン』)がアカデミー外国語映画賞にノミネートされるという実力と、長年にわたる映画界への貢献が評価され、2000年にはアカデミー賞特別名誉賞を受賞しました。同年4月、ワイダ監督はこのオスカー像を、クラクフのヤギェウォ大学に寄贈。オスカー像は、監督が過去に受賞したヴェネツィア国際映画祭批評家連盟賞、カンヌ映画祭のパルム・ドール賞などと並んで展示されることになったそうです。(クラクフに行ったら、ぜひ拝見しなくちゃ!)

                         

(ここで、忘れないうちに・・・ 監督のお名前ですが、ポーランド語での発音に近いカタカナ表記をすると、“アンジョレイ・ヴァイダ”が一番近いのではないかと私は思います。といっても、 Google Translate で調べただけですが。でも日本ではアンジェイ・ワイダで定着しているので、ここでは便宜上、アンジェイ・ワイダで通したいと思います。)

 

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ワイダ監督は1926年3月6日、ポーランド北東部の町スヴァウキに生まれた。父親のヤコブはポーランド軍大尉、母親のアニエラは教師という知識層だった。しかし父親はドイツ軍のポーランド侵攻直後にソ連軍に捕えられ、二度と戻らなかった。出征する父親を見送った1939年、ワイダ監督はわずか13歳。のちにワイダ監督は、40歳だった父親はカティンで処刑されたことを知る。しかし遺族は1989年になるまで、墓碑に没年・没地を刻むことを許されなかった。

                                      

父親が行方不明になり、代わりに監督の母親が働きに出なければならなくなった。住んでいたクラクフはやがてドイツに占領され、監督は一緒に住んでいた伯父が家の3階で営んでいた鍛冶屋に隠れて過ごした。ワイダ監督の「書類が不完全であった」ため、ドイツ軍に見つかれば連行され収容所に送られる可能性があったのである。そんな緊迫した状況の中、10代のワイダ少年は危険を冒して対独レジスタンス運動に参加した。その時の体験は、後にデビュー作『世代』(若き日のロマン・ポランスキー監督も出演しているそうです)を撮るとき大いに役立ったという。

ワイダ監督の二人の伯父は賢い上に度胸もあった。同じ家にユダヤ人たちまで匿われていたことをワイダ監督が知ったのは、戦争が終わってからのことだった。ドイツ占領中はワイダ監督は家に隠れ、あれこれと雑用を手伝った。夜、疲れきった体にまだ体力が残っていたときは、こっそりバルコニーに出て風景を描いた。絵を描くことと馬に乗ることは、父親から教えてもらっていた。ドイツ軍のクラクフ占領直後の数ヶ月間は、美術学校に通うことができた。が、ドイツ軍による締めつけが激しくなり、学校を離れざるを得なくなった。

「私がアウシュヴィッツに送られることは、十分にあり得た。逮捕され、ドイツの強制収容所に労働者として送られることだってあり得た。だが少しばかりの幸運のおかげで、私は戦争を生き残った。勇敢で、強固な意志を持ち、必死で、武器を手にすることを躊躇しなかった人々は、ほとんどが死んだ。そういう人々は、最高の人々でもあった。」

戦後の1950年、ワイダ監督と兄はクラクフの美術学校に通っていた。監督の母親は、息子たちと住むためクラクフに移ってきた。が間もなく、50歳の若さで亡くなり、クラクフに埋葬された。ワイダ監督は美術学校で3年過ごしたが、共産主義に傾倒していくポーランドで“当局”に是認される絵だけを描いていく将来に興味を失いつつあった。そんなとき偶然週刊誌でウッチ映画学校が学生を募集していると知り、クラクフを離れてウッチに移ることを決意する。           

  

ワイダ監督は28歳だった1954年に、最初の映画『世代』を製作した。『世代』は1956年の『地下水道』、1958年の『灰とダイヤモンド』と合わせて、“戦争三部作”あるいは“抵抗三部作”と呼ばれている。当時、映画は共産主義政府が設定した“指針”に沿って製作されなければならなかった。が、ワイダ監督は巧みな撮影手法で“検閲”の裏をかいた。例えば『灰とダイヤモンド』の、共産主義者を暗殺した若き主人公は、最後はゴミの山に埋もれて死ぬ運命を辿る。「当局は、共産主義に反抗した主人公がゴミ捨て場で死ぬので良いエンディングだと思った。しかし観客の態度は異なったんだ。“あんなに同情心に溢れる若者がゴミ山で死ななければならないなんて、一体どういう社会体制なんだ?”ってね」と、ワイダ監督。

  

ワイダ監督の国外での評価は、1970年代に急速に高まった。1974年の『約束の土地』は、アカデミー賞外国語映画賞の最初のノミネートを獲得。1977年の『大理石の男』の主人公は1950年代に英雄として政府に利用された労働者の矛盾を描いており、1978年のカンヌ映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。1979年の『ヴィルコの娘たち』は、二度目のオスカー・ノミネートを獲得。しかしワイダ監督の映画製作は、やがて不自由を強いられることになる。

長年ソ連を優遇してきたポーランドの共産主義政府の経済政策のため、ポーランドの国民には不満が鬱積していた。1980年9月、港湾都市グダニスク独立自主管理労働組合『連帯』が誕生する。リーダーは当時36歳のレフ・ワレサ(レフ・ヴァウェンサ)だった。『連帯』は国民の絶大な支持を受け、一年以内に数百万人が『連帯』に参入し、各地でストライキが始まり、国家経済が麻痺状態に陥る。ワイダ監督はグダニスクに赴き、『鉄の男』を撮った。ワレサもカメオ出演した。ポーランド政府は『鉄の男』の公開を阻止しようとしたが、「文部大臣が映画は公開されないと発表すると、グダニスクの労働者が“『連帯』は『鉄の男』の公開を要求する”との嘆願運動を始めた。『連帯』のメンバーは一千万人に膨れ上がっていたから、文部省は要求を呑まざるを得なかったんだ」と、ワイダ監督は後に語った。

5ヶ月後の1981年12月、ポーランドに戒厳令が敷かれ、ワレサは逮捕され拘束され、『連帯』は非合法化された。ポーランド政府当局は、『鉄の男』の1982年のオスカー・ノミネーションを阻止しようとすら試みた。しかし『鉄の男』はオスカー候補に上り、カンヌ映画祭では栄誉あるパルム・ドール賞を受賞した。戒厳令のもとワイダ監督が運営を任されていた映画学校は閉鎖に追い込まれ、ワイダ監督はポーランド映画人協会長などの職を追われ、外国での映画製作を余儀なくされた。

  

非合法化された『連帯』はその後も活動を続け、改革と民主化をポーランドの共産主義政権に要求する勢力の中心となっていた。不景気や急激なインフレのため国民の生活は窮乏し、体制への不満や民主化の要求はやがて全国的なうねりとなり、もはや政府には止めることができなかった。反体制勢力との対話が必要と悟ったポーランド政府は、1989年2月、内務大臣と『連帯』のリーダーであるワレサが共同で議長を務める中、円卓会議を開催した。同年6月には自由選挙が実施される運びとなり、『連帯』が圧勝、9月7日に非共産党政府が成立してとうとう民主化が実現。1990年12月には、レフ・ワレサが大統領選挙に当選し、大統領に就任した。

  

1990年代に入り、自由な国になったポーランドは急速に変わっていった。ハリウッド映画がポーランドになだれ込み、ポーランド映画界は自由化・民主化を満喫する国民の嗜好に添うようなハリウッド的な映画製作に傾いていった。そのため、ワイダ監督は変わらず国民の尊敬を集めていたものの、彼の新しい作品のほとんどは、興行的に成功したとはいえなかった。

2000年、ワイダ監督は東欧の映画監督として初めて、アカデミー賞特別功労賞を受賞。ヨーロッパ映画祭での栄誉ある賞はすでにいくつか受賞していたワイダ監督だったが、「“Moviemaking”の国であるアメリカの賞は、完全に別格だ。映画はヨーロッパで始まったかもしれないが、それを今日ある映画にしたのはアメリカだ。これ以上の名誉はない」。

“・・・ワイダ監督の芸術性は、世界の視点を何度もヨーロッパへと向けました。ヨーロッパ人の魂の卓越した高尚と最も暗い深遠を映し出すことで、我々に、人類に共通する人間性を再吟味するよう促しました。ワイダ監督はポーランドに属しますが、彼の映画は全人類の文化資産の一部です。

・・・アンジェイ・ワイダが示した例は、我々映画製作者に再認識させます。歴史は時には我々の勇気に、予期すらしなかったような重要な要求を突きつけてくるかもしれない。観客は我々に、精神的な高揚を求めてくるかもしれない。時には我々は、市民の生活を守るためにキャリアを危険にさらさなければならないかもしれない。

・・・彼が彼であり、映画芸術のために彼が成し得たことを理由に、私はアンジェイ・ワイダを2000年3月のアカデミー賞特別功労賞に慎んで推薦いたします。”

実はこの受賞の陰には、スピルバーグ監督によるアカデミー会への熱心な推薦があったそうで、ワイダ監督自ら、ご自身の公式サイトでその推薦の手紙を公表している。(スピルバーグ監督は『シンドラーのリスト』(1993年)を撮るにあたってワイダ監督にアドバイスを求め、ワイダ監督は「ぜひ白黒で撮影なさい。あれはそういう時代だったのだから」と勧めたそうです。その時のお礼の気持ちもあったのかもしれませんね。)

 

2010年12月、ポーランドを訪問したメドベージェフ・ロシア大統領から『ロシア友好勲章』を贈られるワイダ監督(下左)と、女優で衣装デザイナーでもある奥様(Krystyna Zachwatowicz)と(下右)。

 

 

さて私生活のワイダ監督ですが。実はなかなかの恋多き男!?これまでに4度結婚されているそうですよ。ところで、検索して出てきた下左の写真が本当に若い頃のワイダ監督なのだとしたら、・・・ ハンサムぅ~!   3番目の奥様で人気女優の Beata Tyszkiewicz (下中の写真)との間には娘さん(Karolina Wajda、1967年生まれ、女優、下中と下右)もおられるそうです。 ・・・うぅ~む、娘さんもなかなかの美人だわ~ 

   

 

映画 “KATYN”(2007年)を最後に隠退するはずだったワイダ監督だが、その後発言を撤回。2011年11月に、レフ・ワレサ(レフ・ヴァウェンサ)を描く映画でタイトルもそのものずばりの “WALESA” の製作発表を行った。(ポーランド文字のうちふたつが表記できません、ご容赦ください。)

1970年代に起こった出来事で映画は始まり、ワレサが1989年に米国議会で行った演説によって映画は締めくくられるのだそうだ。素朴でありふれた一労働者がカリスマ性のあるリーダーへと変貌を遂げていく、その変身の過程をワイダ監督がどう見せるのかが注目される。

              

存命する実在の人物が主人公の映画は「本当に難しく」、「身構えて批評を待っているよ」と、去年4月の時点でワイダ監督は語った。

「出来事には、関係した人々と同じ数の見方がある。誰もが自分の視点を持っており、画面に映し出すべき出来事とそうでない出来事の判断も異なる。映画が完成しても、ゆっくり落ち着く暇はないね。」

 

WALESA” は去年のうちに公開される予定だったけれど、延期になっているようです。製作が長引いているのでしょう。ワイダ監督が『ワレサ』を製作する意志を固めた動機については、こちらをお読みください。

レフ・ワレサとワイダ監督。

 

 

13歳から19歳という文字通り『ティーン』だった多感な時期を、否応なく悲惨な戦争に巻き込まれて過ごさなければならなかったワイダ監督。父親を失い、運命を翻弄され、祖国はドイツとソ連によって蹂躙されました。戦後ですら共産主義政府によって自由を奪われ、半世紀近くも抑圧された生活を強いられました。日本でも「日本人は、水と自由は無料(ただ)だと思っている」なんて昔誰かが言いましたが、きっとワイダ監督は、戦争体験世代として「最近の若者は、自由があるのが当たり前で、自由の尊さを知らないし知ろうともしない」と、嘆かわしく思っているのでしょう。そのため、映画作りをやめられない。Remembrance Day (戦没者追悼の日)の “Lest we forget” (忘れまい)という精神と、通じるものがあります。

再来月には87歳になられるワイダ監督。とっくに隠退して世界旅行に出掛けるなり、気候の温暖な土地でのんびり余生を過ごすなりするに値するお方であるにも関わらず、新たな映画製作に情熱を燃やしていらっしゃる。頭が下がります。

これからもお元気で、ますます活躍してくださいね!  

(長くなってしまったので、ワイダ監督と日本との縁についてはまた今度。)

 

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