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ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

クラクフ報告(10) カジミエシュ地区

2013-07-16 20:18:12 | 2013年6月のクラクフ

6月6日(木)、クラクフ観光3日目。朝から相変わらずのどんより空でした。

到着日と出発日を除くと、観光できるのは丸5日。最後の日は最後の街歩きにとっておきたかったので、そうすると、オシフィエンチム(ドイツ名はアウシュヴィッツ)に行けるのは、3日目か4日目になります。オシフィエンチムではかなり歩くことになるので、雨に降られる可能性の低い日に行きたいと思っていました。ところがクラクフ到着以来、ずっと降ったり止んだり・・・

どうせこのまま天気に恵まれないなら、今日オシフィエンチムに行っちゃおうかな・・・と思い、ホテルのレセプションの女性にこの日と翌日の天気を訊いてみました。すぐにネットで調べてくれた彼女によると、「今日はぱっとしないけど、明日は晴れます」とのこと。そこでオシフィエンチムは翌日にし、この日はまず、お土産の買い出しに。

下は、私が泊まったホテルから大広場に行く途中にあるレストラン u Stasi の写真です。ポーランド政府観光局のブログで「ポーランド版ぐるなびでも好評のおばあちゃんの味、クラクフのおうちごはん食堂」と紹介されていたので、是非入ってみたかったのですが・・・ 営業日は月曜から金曜まで、時間は12時半から17時までのみ。午後はたいてい大広場から離れたどこかをうろついていたので、今回は入る機会がありませんでした In Your Pocket の情報でも、「本物の地元料理を廉価で試したい人にはおススメの、家族経営の小さなレストラン」とのことなので、今度クラクフに行ったら、ぜひ機会をつくって入ってみたいと思います。

下左: 通りから見たところ。壁の青い看板に u Stasi と書いてあります。 下中: 長い廊下を抜けると中庭があり、 下右: その向こうがレストランです。このときはまだ準備中でした。

  

大広場の井戸でバケツに水を汲んでいるのは、お花屋さんでしょうか。          前の晩夕食に入ったレストラン、ハヴェウカです。

 

クラクフのあちこちで見かけた青い屋台。“Pretzel”と書かれていたのでてっきりドイツ風のプレッツェルを売っているのかと思っていました。帰国してから知ったのですが、これらはクラクフ名物のオブヴァジャネクというのだそうです。(甘党の私にはどのみち縁のない食べ物でしたが。)

おこぼれ目当てのハトが周囲をうろついている屋台が多くて可笑しかったです。

 

ふたたびフロリアンスカ門。そしてフロリアンスカ通り40番地にあるのが、魅惑のチョコレート専門店(カフェも併設) KARMELLO です。ここでお土産のチョコレートを買い込みました。

 

門から見たバルバカン。門を抜けたら右手に民族衣装のおじさまミュージシャンがお二人いらして、観光客に一緒に写真を撮ってと頼まれたり、小学生に囲まれたりしていました 

  

チョコレートをホテルに置きに戻る途中、瓶入りのお酒をウィンドーに並べたお店があったので、そこでポーランドの名物だという蜂蜜酒(250ml入)を購入(16.20PLN=¥486)。オットーも私も下戸ですが、名物なら話のタネにちょっぴり味わってみたいと思ったので。

レジのそばにポンチキがあったので、中味がローズ・ジャムであることを確認の上、そちらもひとつ買いました。1.60PLN(=¥48)でした。買物をホテルに置いて身軽になったあと、大通りに出てまた『一日バスと市電に乗り放題券』を買い、旧市街の南に位置するカジミエシュ地区に向かいました。

 

14世紀から第二次世界大戦前まで、ユダヤ人コミュニティーが大いに栄えたカジミエシュ地区(Kazimierz)。クラクフ旧市街の南、ヴィスワ川の手前に位置しています。ですがこの地区、どうやら中世期には、ヴィスワ川に当時存在した中島にあったようです。それでウィキペディアにも「1335年にカジミエシュ3世ヴィスワ川によって王国の首都クラクフから切り離されていた地域に新しい町を作り、この町をカジミエシュと名づけた」とあるのでしょう。その後この中島をクラクフ中心部から切り離していた部分は埋め立てられ、本流だけが現在のように残ったようです。

カジミエシュ地区の東にあるシェロカ通り(Szeroka Street)の広い部分はまるで広場で、中央部分は駐車場になっています(下左)。この記事のためあちこち読んでいて知ったのですが、化粧品会社を創設したヘレナ・ルビンシュタインはこの通りの12番地に、ユダヤ人商店主の娘として生まれたそうです。現在この住所は、ホテル兼レストランになっています。

広場部分に向かい合って南側に、現存するシナゴーグとしてはクラクフのみならずポーランドで最古だという、その名もオールド・シナゴーグ Old Synagogue がありました(下右)。15世紀に建立され、16世紀に火事で消失したあと再建され、第二次大戦中はドイツ軍の弾薬庫として使われました。ドイツ軍によって略奪され内装も台無しにされたシナゴーグは戦後、1956年から1959年にかけて修復され、1961年に『クラクフのユダヤ人の歴史博物館』として開館しました。(私は入りませんでしたが。)

 

第二次大戦中だった1943年に30人のポーランド人が、オールド・シナゴーグの外で殺害されたそうです。下左写真の左手に見えるのは、その慰霊碑と思われます。下右は、クラクフの地図。これまでカジミエシュ地区を『旧市街の南』に位置すると書いてきましたが、こうして見ると、正確には『旧市街の南東』ですね。 Kazimierz の表示が読みづらいですが、ヴィスワ川を下(南)にしたゆるい平行四辺形がカジミエシュ地区です。

 

オールド・シナゴーグはシェロカ通りから一段低い位置にあり、間には緩やかな階段がありました。下左は、シナゴーグを背にしてシェロカ通りを見たところ。

オールド・シナゴーグの裏庭は草ぼうぼうでした。低い塀の上の柵には、ダビデの星がデザインされていました(下右)。

 

ウィキペディアによると、“現代のカジミエシュ地区では毎年7月初旬に大規模なユダヤ文化祭り『シャローム』が開催され、アメリカやイスラエルなど、ポー ランドから移住していったユダヤ教徒もやってきて様々な催しを繰り広げ、ユダヤ教徒もキリスト教徒もみな集まって歌ったり踊ったり食べたり飲んだりと、和気あいあいの賑わいとなる。このシャローム祭りの期間にこのカジミエシュ地区のシェロカ通りで行われるユダヤ音楽祭りは、世界最大のユダヤ音楽祭。”とのこと。

下はネットから借りてきた、ユダヤ音楽祭りの写真です。なるほど、すごい盛り上がり! 

 

今年のシャロームは、6月28日から7月7日までの10日間だったようです。さぞかし賑わったんだろうなぁ。私が訪れた時は静まり返っていたけれど。

 

第二次世界大戦前のクラクフの人口は、約25万人。そのうち1/4の6万人強がユダヤ人だったと考えられています。(←使いまわし文。)

ナチスによる迫害・虐殺を生き延びてクラクフに戻ってきたユダヤ人の人口は、1948年頃には5000~6000人ありました。しかしポグロムの脅威や共産政権による冷遇により、多くのユダヤ人がアメリカやイスラエルに移住したため、人口が激減したカジミエシュ地区は、荒廃していきました。1980年代後半に入ってようやくカジミエシュ地区を再活性化させようという意識が高まり、1988年に初めてのユダヤ文化祭り『シャローム』が開催されました。1989年に共産政権が崩壊。1993年にはスピルバーグ監督が、主にこの地区で、映画『シンドラーのリスト』を撮影。おかげでカジミエシュの知名度は一気に高まりました。近年は再開発も進み、エキゾチックでおしゃれな街として、多くの観光客が訪れるそうです。

『工学技術博物館』です。私は興味ないので入りませんでしたが。                 小ぎれいな最上階は、増築部分?

 

異国のような街並です。                                           スタイルのいい人が着たら、とても似合いそうなツーピース(?)。

 

こんなおもしろい車も置かれていました。                        煩雑で人間味があって、何となく東京の下町っぽい雰囲気です。

  

下左は、カジミエシュ地区の心臓部ともいえる Plac Nowy (New Square) です。ちょっと見づらいですが、中央に円形に近い多角形の建物があります。1900年に建てられたこの建物は、1927年にユダヤ人コミュニティーに貸し出され、ナチスに占領されるまで家禽類の場として使われました。

現在この円形建物の内部は肉屋ですが、外側はクラクフで有名なファスト・フード、ザピエカンカを売る店が軒を並べています。周囲には、雑貨や新鮮な野菜・果物を売る屋台が。

 

長さ30cmはありそうなザピエカンカ(Zapiekanka)。半割りバゲットのピザ風といった感じです。買っても一人では食べきれないと思い(私も弱気になったものよ・・・)、学生さんらしいかわいい三人連れにお願いして写真だけ撮らせてもらいました。若いっていいなぁ!

  

ネットで見つけた円形建物の下左写真は、二度の世界大戦の間に撮られたものらしいです。現在の同建物の、内部への入口(下右)。

 

新鮮な野菜や果物も売っていました。土曜日は骨董品・がらくた市、日曜日は衣類の市が立つそうです。広場を囲んで並ぶ安食堂では、安くておいしいものが食べられるそうです。

 

Plac Nowy から南に歩いて数分の距離にあるもうひとつの広場、Plac Wolnica (ヴォルニーツァ広場)。1335年に、当時はクラクフとは別の町だったカジミエシュの大広場として確立されました。原形はクラクフ旧市街の大広場(200mx200m)とほぼ同じ、195mx195mの大きさがあったそうです。その後徐々に縮小されてしまい、かつては広場の中心にあった市庁舎(下左写真の立派な建物)は、現在は広場の西端に位置しています。1800年にカジミエシュがクラクフに吸収されたため、旧市庁舎はその機能を失いました。荒れ果てていた建物はユダヤ人コミュニティーにより1876年に後期ルネッサンス様式に修復され、学校になりました。第二次大戦後は民族史博物館として使用されています。

広場の名前はポーランド語で free を意味する wolny が語源で、これはその昔、場でなくこの広場で週一回、土曜日に肉を売ることが許可されたことに由来するそうです。

 

広場の噴水に立つ“三人の音楽家”の彫像は1970年に設置されたもので、ブロニスワフ・フロメ(?Bronisław Chromy ; l は斜め横棒入り)の制作。あら、フロメさんて、ジョックの像とヴァヴェル・ドラゴンの像も制作された方でしたね。

さて、この日広場には閉じた屋台のようなものが並び、何やら準備中の模様。実はこれ、2日後に迫った『パン祭り』の準備だったのです。事前に情報を掴んでいた私。6月8日(土)と9日(日)の開催だから、帰国日の9日はダメだけど、8日は見に行けるな・・・と目論んでいました。ただ心配なのは天気。クラクフに着いて以来、ずっとどんより空から降ったり止んだりだったので。お願い、明後日は上天気にしてあげて~!

 

下左は、旧市庁舎の東面。下右写真は、二つの世界大戦間に撮られたものだそうです。こちらを向いているのは、旧市庁舎の南面。

 

二日前の夕食“Polish Plate”に含まれていたポテトパンケーキがとてもおいしかったので、今日の昼食はできればそれにしよう!と思っていました。広場の北東の隅にカフェがあった(下左写真の淡いピンクの建物)ので、入ってみました。入口を入ると前方は通路のみ。カフェは右と左に分かれていて、右がメインでした。誰もいない左側の部屋がかわいっぽかったので、許可を得てそちらに席を占めました。誰かのお宅に招かれたような、居心地いい雰囲気でした。

 

窓際の二人用の小さなテーブルもかわいかったです。

 

バックパックを背負わされている椅子が、私が選んだ席です。テーブルの上にあるのは私のガイドブックと、カフェのメニュー(赤い方)。

 

パンケーキのマッシュルームソースがけとコーヒーを注文しました。ポーランド料理は量が多いので、サラダとかデザートとかを頼む余裕がないのです。あれこれ試してみたいんだけど・・・ 

 

大きなポテトパンケーキは、3枚重なっていました。おいしかったのですが、3枚目はさすがに食べ終えるのが・・・苦しかった・・・ 平らげましたけどね

ポテトパンケーキが19PLN(¥570)、コーヒーが8PLN(¥240)。チップ込で30PLN(¥900)払いました。カフェの名前は Cafe Mlynek (l は斜め横棒入り)、住所は Wolnica 7番地。リンクはこちらです。

上階では別経営でB&Bをやっているようですが、評判はまちまちのようです・・・ 

 

≪ 6月6日の観光 つづく ≫

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