6月4日(火)の観光の続きです。
聖マリア聖堂にある、ヴィト・シュトヴォシュ(Wit Stwosz、ドイツ名 Veit Stoss ファイト・シュトースのポーランド名)作の巨大な聖マリア祭壇。
“午前11時50分に両翼が開くので、時間に余裕をもって早目に内部に入っておいた方がいい”とのことだったので、11時半頃に入場券を買い、聖堂内部に入りました。
入場料は10PLN(¥300)、写真撮影料は5PLN(¥150)でした。あ、でもフラッシュは禁止だったと思います。他の皆さんのジャマになりますものね。
だんだん人が増えていく聖堂内。前方に祭壇が見えました。下右は、後方を振り返ったところ。
翼を閉めた状態で見えるのは、聖マリアの苦しみの12場面だそうです。 扉が開く時間には、聖堂内は見物客で満杯になっていました。
ぼんやりしていたら、向かって左翼はすぐに開いちゃいました。あわてて目を凝らしたら、どうやら尼僧の方が長い金属棒を使って翼を開けているようです。巨大な祭壇の前では、尼僧の方が小さく見えます。
両翼が開いた状態の祭壇です。詳しくは、入場券を買ったときにもらった説明書をご覧ください。(印刷が不鮮明な箇所や、日本語がヘンなところがありますが。)
下左は、上の「2」の、ヴィト・シュトヴォシュ作キリストの石像だと思います。 下右は、聖堂内部後方。
翼が開いたとき、ラッキーなことに私は特等席を占めていました。石段を2段上ったところにあるベンチ席で、聖堂内部の略図では「4」の数字の真上。下左の写真の中央で、男の子が二人座っている場所です。
別の角度からもう一度写真を撮って、聖堂を後にしました。
大広場の織物会館を背後に控えて威風を誇るのは、下左の写真のアダム・ミツキェヴィチ(1798-1855年)像。「ポーランドを代表する国民的ロマン派詩人であり、政治活動家」です。母語はポーランド語ながら、もともとはリトアニアの家系で、住んでいたのはベラルーシとのこと。ポーランドの「国民的詩人」として高く評価された彼は、イスタンブールでの客死後、最終的にクラクフのヴァヴェル大聖堂に埋葬されました。ワルシャワとベラルーシを含む各地に銅像があり、ミツキェヴィチ自身はクラクフを訪れる機会はなかったものの、ここクラクフにも銅像が建てられました。像の組み立ては、ミツキェヴィチの生誕100周年を記念して1898年6月16日に始まりました。
彼の足元で四方向を向いて一体ずつある像は、それぞれが祖国(東)、詩(南)、勇気(西)、学問(北)を象徴しているのだそうです。銅像のオリジナルは第二次大戦中だった1940年8月にドイツ軍によって破壊されましたが、幸い大部分は戦後ハンブルク近くで発見されました。今立っているのは、戦後に修復され1955年に除幕された再生版です。
クラクフ市民に“アダシュ”の愛称で呼ばれ親しまれているこの像は、待ち合わせだけでなく、意外な縁起かつぎに使われるようになりました。義務教育終了時の試験にのぞむ学生は、試験の100日前に催される卒業パーティーのあとこの大広場に来、片脚でアダシュの周囲をケンケンするのだそうです。それも6周。“6”が最高の成績なので、6周できれば万々歳なのだそうな。
“王の道”の続きをなすグロツカ通りに入り、ヴァヴェルの丘に向かいます。観光客を乗せた馬車は、クラクフではしょっちゅう見かけました。
南に下っていくと、やがて聖ペテロ聖パウロ教会(Saints Peter and Paul Church)が左側に見えてきました。1597年から1619年にかけての建造で、珍しくニ聖人の名前を冠する教会です。等身大より大きい12使徒の彫像が門の両側の塀の上に立ち並ぶ、特徴ある教会です。現在並ぶ彫像は複製品。18世紀に製作されたオリジナルは酸性雨や公害により損害を受けてしまったので収納されました。それゆえ現在立つのは複製品です。教会内部は、いくつも見てもどうせあとで印象がごっちゃになってしまうと思い、見ずにそのままグロツカ通りを南下しました。
グロツカ通りのおしまいの右手、ヴァヴェル城のすぐ外側に、カティンの森記念碑がありました。犠牲者の冥福を祈って合掌させていただきました。
小雨の中、東側からヴァヴェルの丘の南側を走る緩やかな上り坂を上っていきます。やがてヴィスワ川が見えてきました。おおっ、対岸のあの波型屋根の建物は、“マンガ”館にちがいないっ! ・・・ジョックはどこかな?
むき出しになった石灰岩の小高い丘の上に建造されたヴァヴェル(Wawel)は、多くの建造物や要塞の複合体です。主要な建物はふたつ。東の部分を占めるヴァヴェル城と、北側の中央部を占めるヴァヴェル大聖堂です。ヴァヴェルに達した頃雨足が激しくなり、激しく地面を叩く雨に、傘をさしていたにもかかわらずしばらく雨宿りするようでした。
この時と、クラクフ到着の日にホテルを探して歩いていた時の降りが、クラクフ滞在中の最もひどい降りでした。
下の写真、合成にしたわけではないのですが。南を走る緩やかな坂を東側から上ってヴァヴェルに達すると、下の写真の正面に見える建物の裏側に着きます。この建物はビジター・センターで、インフォメーションとチケット売場とレストランとカフェとトイレがあり、こちら側(北側)からも裏側(南側)からも入れます。私は最初それを知らなくて、チケット売場を探してこの建物とは正反対側にあるヴァヴェル城まで行ってしまいました。 写真の下の図(西が下)の、二重丸の建物がそれです。
午後1時25分頃にヴァヴェル城見学用のチケットを買いましたが、見学時間は午後4時終了なので、その時点でもう見学できる場所は限られていました。しかも3ヶ所中2ヶ所は時間指定つき。道理でガイドブックに、「午前中早めに着いて見学を始めるように」とあったわけだわ。仕方ない、見逃した箇所は次回ということにしよう。
屋内での写真撮影は禁止でした。伊万里焼の大きな花瓶があったんだけどな。
入場料は、State Rooms 18PLN(¥540)、Crown Treasury and Armoury 18PLN(¥540)、Oriental Art 10PLN(¥300)でした。
さて、普段はチャルトリスキ美術館に所蔵されている、ダ・ヴィンチ作『白テンを抱く貴婦人』。現在同美術館が改修工事中のため、ヴァヴェル城に避難中でした。同美術館を創設したイザベラ・チャルトリスカの長男として生まれたアダム・チャルトリスキが1798年にイタリアで購入したとされるこの作品。持主の政治的亡命に付き合ってパリに隠れたり、ナチスに取り上げられてベルリンに送られたり、ナチス高官のハンス・フランク総督に私物化されたり。ポーランドと同様歴史に翻弄されましたが、無事いるべき場所に戻れてよかったこと。
見物料は10PLN(¥300)。この絵は広い部屋にそれだけがぽつんと、柔らかいスポットライトを浴びて展示されていました。さすがに特別待遇だわ~。
1596年にワルシャワに首都が移されるまで(正式な遷都は1611年)、ポーランドの首都だったクラクフ。 歴代の王の戴冠式が行われたのも、王が居城としたのも、ここヴァヴェルでした。首都がワルシャワに移ってからも、「政治の中心はワルシャワ、文化の中心はクラクフ」として変わることなく栄えてきました。
第二次世界大戦中のドイツ占領下ではここヴァヴェルにドイツ軍本部が置かれ、ポーランド人が忌み嫌ったナチスのハンス・フランク総督はヴァヴェル城に滞在して指揮を取ったそうです。
ヴァヴェル城の中庭です。上階から見るとこんな(下右)感じ。屋内の撮影は禁止されているので、お城の写真はこれだけです。
次は、ヴァヴェル大聖堂を見物に。入場料は12PLN(¥360)でした。
大聖堂の一部をなすジグムント塔には、1520年に鋳造されたポーランドで最大の鐘(シグムントの鐘、重さ13トン)があります。木の階段を上っていきました。最後の抜け穴(下右写真)は、お相撲さんには、ちょっとムリかも?(通れてよかった~) この鐘の舌(ぜつ)に左手で触ると幸運を呼ぶということなので、私もさわってきました。(届いてよかった~
) 下右の写真で、女性が触っているのがそれです。そういえば、鐘そのものの写真、撮るの忘れたわ!
ジグムント塔からの眺めです。真下には、 北側にある入口へと通じる緩やかな坂道が見えました。
ヴァヴェル城と並ぶヴァヴェルの重要な建造物、ヴァヴェル大聖堂。シグムント礼拝堂のまばゆい黄金の丸屋根がユニークです。地下にはポーランドの歴代王や歴史に残る英雄が埋葬されています。先ほどの国民的詩人“アダシュ”さんもここで眠っています。2010年に航空機の墜落事故で死亡したレフ・カチンスキ大統領夫妻のシンプルな石棺がありました。特別に大事に安置されている棺があったので、名前を書き留めておきました。ユゼフ・ピウスツキでした。
黄金の丸屋根、好天気の日だったら眩しすぎるかも? 奥まった所に、ヨハネ・パウロ2世の銅像がありました。
ヴァヴェルの庭です。このあたりをうろつくだけなら、入場料は要りません。中央にヴァヴェル大聖堂、その右手奥にヴァヴェル城です。大聖堂の手前、ベージュ色の角ばった独立した建物で、大聖堂への入場券を売っていました。
ヴァヴェルを降りて、すぐ近くにいるはずのジョックを探しに行きました。なんと、ヴィスワ川をはさんで、“マンガ”館とほぼ正反対の位置にいました。
クラクフの忠犬ジョックです。 ジョック! 会いたかったよ~!
連日の雨でできた大きな水たまりを避けつつ、横からジョックと握手 背後についているはずの募金箱は、なくなっていました。誰かに盗まれたのか、いたずらされるので取り外されたのか。残念なことです。
ヴィスワ川対岸から見たヴァヴェルです。
次は“マンガ”館に向かいました。
≪ つづく ≫
そうと知っていたら、修道院を訪れていたのに・・・
貴重な情報、ありがとうございます。
もう一度クラクフを訪れるチャンスがありますように!