クラクフ南の郊外に建設された、プワシュフ強制労働キャンプ。
クラクフ・ゲットーを含む近隣のゲットーの「使える」ユダヤ人を強制労働に就かせるため、ユダヤ人墓地があった場所に建設されました。
そういえば映画『シンドラーのリスト』に、ユダヤ人墓地を破壊し、墓石をキャンプの道の敷石に使うシーンがありましたっけ。
1 所長アーモン・ゲートの家 2 鉄道駅 3 合同墓所 4 採石場 5 火葬場 6 古いユダヤ人墓所
位置関係はこんな感じ↑で、キャンプからシンドラーの工場までは約2.5kmありましたが、のちにシンドラーは工場内に施設を作り、ゲート所長を説得し、自分の工場で働くユダヤ人はキャンプと工場を毎日往復することなく、そこに寝泊まりできるようはからいました。
キャンプの被収容者は軍備物資工場と採石場の労働力として酷使されました。死亡率は高く、女性や子供を含む多くの被収容者がチフス、飢えや処刑によって命を奪われました。
恐怖で支配されていたことで悪名高いこのキャンプ。目撃者の証言によると、所長のアーモン・ゲートは、「朝食前に囚人を、少なくとも一人射殺するのが習慣だった」そうです。
クラクフ・ゲットーの解体を任されたゲートは、「使える」ユダヤ人はこのキャンプに収容し、「使えない」ユダヤ人はその場で殺害するかアウシュヴィッツなどの絶滅収容所送りにしました。
『シンドラーのリスト』にはレイフ・ファインズ演じるゲートが自分に与えられていた家のバルコニーから囚人を狙い撃ちするシーンがありますが、実際にはあれは不可能だったそうです。ゲートの家は丘の麓にあったうえ、映画で描かれていたよりずっと小さな二階建てだったからです。“赤い家”(Red House)と呼ばれていたその家は、戦後は元の所有者に返還されました。
プワシュフの所長時代は贅沢三昧な生活を送り丸々と肥っていたゲートは、終戦前に横領と囚人虐待の容疑で逮捕されました。1945年の初めに証拠不十分で無罪放免されましたが、拘置所生活のため大分痩せました。ドイツ敗戦後は身分を偽って正体を隠そうとしましたが、正体がばれて裁判にかけられ、プワシュフ収容所における8000人の殺害とクラクフ・ゲットーにおける2000人の虐殺に関して責任があるとされ、死刑判決を受け、1946年9月13日にクラクフで絞首刑に処されました。
ゲートは3回の結婚で4人の子供をもうけました。最後の妻ルース・カルダーとの間に生まれたのは、娘のモニカ。彼女は1945年10月23日、ゲートの処刑の10ヶ月前に生まれました。母親のルース・カルダー・ゲートは1983年、『シンドラー』というドキュメンタリー番組でインタビューに応えた直後に自殺したそうです。
モニカは2006年に製作されたドキュメンタリー“INHERITANCE”に出演し、父親の犯罪を背負った人生について語っています。ドキュメンタリーには、ゲーテに昔使われていた元メイドのヘレン・ヨナス=ローゼンツヴァイクも出演。モニカとヘレンはプワシュフ収容所跡で面会しました。のちにヘレンは語っています。
「彼女(モニカ)と一緒にいるのは辛かったわ。多くを思い出させるから・・・彼女は背が高く、(ゲーテの)面影もあって。私は彼を嫌悪していた。でも、彼女も犠牲者。彼女がドイツで、自らすすんで自分の生い立ちや体験を語っていることは、とても重要だと思うわ。彼女によると、ドイツの人々は日々の生活に忙しく、彼女の話を聞きたがらないそうよ。ナチ戦犯の子供はたくさんいるけれど、自分の体験を語る彼女はとても勇敢だと思う。とても難しいことだもの。私も子をもつ母親だから、彼女に同情を禁じ得ない。父親が戦犯だったことに、彼女の人生は大きく影響されている。だから私、彼女に会ったの。世界は知らなければならないわ。あんなことが、二度とふたたび起こらないようにするために。」
“INHERITANCE”のDVDカバーと、 プワシュフ収容所敷地内のゲートの家。
1944年7月と8月に、多くの被収容者がアウシュヴィッツ他の収容所へと移送されました。ソ連軍の接近を受けて1945年1月、残っていた被収容者は50km離れたアウシュヴィッツへと“死の行進”をさせられ、生きてたどり着いた者の多くは到着と同時に殺害されました。
証拠隠滅のため書類は焼却され、プワシュフ収容所は徹底的に解体され、後に残ったのは広大な野原でした。合同墓所に埋められていた大量の遺体は掘り起こされ、焼かれました。
下の写真は近年撮影されたものです。左上にある妙な建造物は採石場の石灰窯で、ここの採石産業は第二次大戦前はユダヤ人実業家が所有していましたが、戦中はナチスが使い、戦後は国有化されて1980年代まで毎年25万トンもの石を製造していたそうです(情報源: Liban Quarry in Krakow)。
映画『シンドラーのリスト』の撮影のため、プワシュフ強制労働キャンプの複製版のセットが建設されたのはこの辺り。「ユダヤ人の墓石で作った道」の、コンクリート製の偽物も、今でも残っているそうです。
1964年に建立された巨大な慰霊碑は、5人の人間がうつむいた形をしています。これはプワシュフの犠牲になった人々の5つの出身国を象徴しているそうです。胸のあたりの大きな裂け目は、突然終わらされた彼等の命を表現しています。後ろ側には、ポーランド語の大きな文字で“1943年から45年にかけてナチスにより虐殺された犠牲者を偲んで”(To the memory of the martyrs murdered by the Nazi perpetrators of genocide in the years 1943-45)と刻まれているそうです。
このプワシュフ収容所跡は郊外にあるので行けるかどうかわかりません。でももし時間があったら、出かけてみたいと思っています。
出発が明後日に迫りました。明日は仕事はオフなので、ゆっくり時間をかけて準備です。
明後日の今頃はクラクフにいるなんて、信じられないな~
お天気に恵まれますように!
毎日、いつ殺されるかわからない状況で強制労働をさせられていた人々、特に子供たち・・・本当に忘れてはならない大犯罪です。
いよいよ明後日出発なのですね。
お天気もよさそうですし、楽しんで行ってらっしゃいませ!!
旅行記も楽しみにしています^^
お気をつけて~
明日の今頃はクラクフ・・・ どうか無事に着けますように。
お天気は予報があまりかんばしくないのですが、外れることも多いですし、第一もう行くっきゃないし。
雨が降ろうが槍が降ろうが(?)めいっぱい楽しんできますね!