ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

フレッド&ローズ・ウエスト ① ローズ・ウエストの生い立ち

2014-03-02 21:35:15 | 事件

のちにフレデリック・ウエストの妻および連続殺人の共犯となるローズマリー・ポーリーン・レッツは、1953年11月にデヴォン州で生まれた。姉3人・兄1人に続く7人兄弟の第5子で、下に弟が2人いる。 

父親のビル・レッツは統合失調症(当時の精神分裂病)を患っていて、家庭内では妻子に絶対的服従を求め、暴力をふるう理由をいつも探しているような暴君だった。低賃金の仕事を渡り歩き、なのにどこでも長続きしなかったため、一家は常に金に困っていた。ローズの兄のアンドリューは言う。「父は子供たちの就寝が遅いと感じたら、バケツ一杯の水を浴びせかけるような男だった。庭を掘れと命じて隅から隅まで掘り起こさせ、軍隊長のような態度で出来上がりを調べ、気に入らなければ最初からやり直させた。普通のよその子たちのように話したり遊んだりすることは禁じられた。騒がしくするとベルトか木切れで青痣ができるまで叩かれて、母が止めに入るまでやめようとしなかった。そして今度は、代わりに母が叩かれた。」

 

    ローズの母デイジーと姉たち(左からパトリシア/グレニス/ジョイス)、1950年         ローズの両親、ローズの弟グレアムの結婚式にて、1979年

       

 

母親のデイジーはひどい鬱病にかかっていた。家事と育児に追われつつ夫の暴力にも耐えなければならなかった彼女は、ローズを妊娠中に入院を余儀なくされ、何度か電気ショック療法を受けた。間もなくローズが生まれたが、電気ショック療法が母親の胎内にいたローズに与えた影響は定かではない。しかしハワード・ソウンズ(?Sounes)著“Fred & Rose”によると、ローズは兄弟とは明らかに異なっていた。ベビーベッドで体を揺する癖ができ、乳母車に入れられても、ブレーキがかかっていないと乳母車全体が部屋を横切ってしまうほどひどく体を揺すった。少し大きくなると、何時間も続けて頭を振るようになった。幼女になるまでその癖は続き、何時間も頭を振り続けた彼女は、しまいには半分意識を失ったかのようにぐったりしていたという。

大きな茶色の瞳、明るい肌色、豊かな茶色の髪をもつ幼い頃のローズは可愛らしかった。しかしローズは動作が緩慢でぼんやりした子供に育ち、学校では“Dozy Rosie(おねむのローズィー)”と仇名をつけられた。成長するにつれぽっちゃり体型になったが、そのことでからかわれると怒って相手に叩きかかった。短気で攻撃的なローズには、ほとんど友達ができなかった。ローズは父親に言われたことはすぐさますることで父親のお気に入りになり、叩かれることから免れた。父親のビル・レッツは少女にいたずらをする性癖があるとの噂があった。また父親はローズを近親相姦の対象にしていたと、一般的には信じられている。

ローズの一家は1964年、デヴォン州からグロスターシャー州に移った。早熟だったローズは入浴後裸で歩き回り、弟のベッドにもぐりこんで弟に性的な愛撫をした。父親から同年代の男との付き合いを禁じられており、また彼女の癇癪を知っていた同年代の少年たちは彼女に近寄らなかったため、彼女は年上の男に興味をもつようになった。1968年、彼女につけ込んだ男によって彼女はレイプされた。

 

        

 

夫のサンドバッグであることに疲れ果てたローズの母親デイジーは、1969年始め、15歳になっていたローズを連れて既婚の娘グレニスの家に身を寄せた。父親の支配がなくなったローズは、夜遅くまで外を出歩くようになった。義兄のジム・タイラーによると、ローズは複数の年長の男と関係を持ち、彼をも誘惑しようとしたという。

周囲が驚いたことに、ローズはその年の半ばになると、父親の元に戻っていった。同じ頃ローズは12歳年上のフレッド・ウエストと出会い、親密な関係になり、フレッドの幼い2人の娘たち(実際はフレッドの実娘はうち1人だけ)の世話をするようになった。(当時フレッドは既婚だったが、最初の妻のリナはフレッドの肉体的・性的暴力から逃れるためたびたび故郷のスコットランドに戻っていた。) 父親失格だったビル・レッツにすら、フレッドが娘ローズの理想的な恋人には程遠いことは明らかだった。二人の関係に大反対したビルは、児童福祉課まで巻き込んで騒ぎ、フレッドが住んでいたトレイラーハウスに出向いて直接彼を脅しもしたが、二人の仲を裂くことはできなかった。ローズは16歳の誕生日(1969年11月29日)を過ぎて間もなくからフレッドと同棲を始め、彼の子を妊娠。1970年7月、二人はフレッドの2人の娘たちとともにトレイラーハウスを離れ、グロスターのミッドランド通り25番地にある2階建ての家に引越した。

 

     ミッドランド通り25番地の家 (向かって右半分)

      

 

1970年10月17日、フレッドとローズの間の最初の子供で長女のヘザーが誕生。ローズとの間にできた娘の誕生も、フレッドの手癖の悪さを変えることはなかった。1970年12月4日、窃盗で有罪になったフレッドは1971年6月24日まで刑務所に収監された。まだ10代だったローズは、夫の長い留守中三人の子供の世話に追われ、鬱憤を募らせた彼女は継子たちに辛く当たった。

ローズの継子で当時8歳だったシャーメイン(フレッドの実娘ではない“長女”)は、フレッドの釈放が間近だった1971年6月半ばに、突然姿が見えなくなった。ローズは周囲には「シャーメインの母親のリナが来て彼女を引き取っていった」と説明していたが、実際には同年8月後半になってからリナがシャーメインを迎えに来ている。リナもまた、シャーメインと同様行方がわからなくなった。

20年以上経ち、連続殺人事件が発覚したのが1994年2月。ローズ・ウエストはすべての殺人について関与を否認した。「ローズは無関係」とするフレッド・ウエストはまず嘘をついて殺人を否認し、にっちもさっちもいかなくなるとちょっぴり告白する、というのらりくらりとした態度をとり続けた。そのためミッドランド通りの家のキッチンのコンクリートの床下からシャーメインの遺骸がようやく発見されたのは、同年5月4日のことだった。それに先立ち、フレッドの故郷マッチ・マークル村近郊の畑に埋まっていた最初の妻リナの遺骸は、フレッドの供述により4月10日に発見された。

 

     シャーメインの遺体はキッチンの床下(赤矢印の位置)で発見された         ミッドランド通り25番地での捜索                         

       

 

    リナの遺体が埋められていた畑地                                 赤矢印がリナの、青矢印がアナ・マクフォール(後述)の遺体の発見場所

       

 

実のところシャーメインはフレッドの子ではなかったので、シャーメインはまったく血縁のない男女と暮らしていたことになる。フレッドとリナの娘でシャーメインの異父妹だったアン・マリー(シャーメインより一歳下)によると、ローズは二人とも虐待したものの、シャーメインはより激しく折檻されていた。おそらくそれはシャーメインが、どんなに激しく痛めつけられても決して泣かなかったからだろうと、アン・マリーは推測する。シャーメインが突然姿を消したのはフレッドの収監中だったため、ローズが単独でシャーメインを殺し、一時的に死体を隠し、釈放されたフレッドが死体をキッチンのコンクリートの床下に遺棄したと考えられる。フレッドはシャーメインの遺体を遺棄する前に、指と足指と膝蓋骨を“記念品”として取り除いていた。彼はこの損壊行為を、他の犠牲者達の遺体の多くにも加えた。

1972年1月29日、フレッド(30歳)とローズ(18歳)はグロスターで結婚した。同年ウエスト一家はクロムウェル街25番地に移り住み、6月1日には、次女のメイが生まれた。

 

≪ につづく ≫

 

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