ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

家庭内独裁者だった義父

2011-01-25 22:12:19 | 義理の家族のこと
義父は1926年4月生まれ。現在84歳である。今でも車を運転し、ほぼ健康体。とても有り難いことである。  しかしながら・・・

年に2、3回は体調を崩し、往診を頼んだり病院のお世話になったりする。が、いろいろ検査をしてもらっても、たいていの場合どこにも異常はなし。入院しても翌日かせいぜい数日後には退院してくる。先週も胸が痛むと義母に訴え、午前3時に救急車で病院に運ばれた。でもどこも異常なく、翌日には退院してきた。

オットーによると、義父は昔からそんなことを繰り返してきたそうだ。オットーが10歳、つまり義父が40を出たばかりの頃から。どうも病気や死を異常なほど怖れていて、ちょっとでも不調を感知すると床に伏せ、『病は気から』の言葉通り、自分で自分を重病人にしてしまう傾向があるらしい。往診に来てくれたお医者さんや病院のお医者さんに「どこにも異常なし、健康体そのものですよ」という保証をもらって初めて元気になれる。

左の写真は、1歳のときの義父(なんちゅうヘアスタイル!?)。右は13歳のとき。

左は20代の頃の義父。右は義父母がドイツのおじいちゃんおばあちゃんに初孫を見せに行ったときの写真で、左からおばあちゃん、オットー(生後11ヶ月)、義母、義父、一人おいておじいちゃん。

2007年夏に金婚式のお祝いをした義理の両親だが、実は彼等の結婚が継続したのは、すべて義母の我慢に次ぐ我慢、忍耐に次ぐ忍耐のおかげだった。

オットーによると、義父は暴君でワンマンで自己中。オットーが子供の頃は、家庭内の空気は完全に義父によって支配されていたという。例を挙げると・・・


* 食事中は一言も口をきくことを許されなかった。自分の分が食べ終わっても、最後の人が食べ終わるまでじっと座ったまま待たなければならなかった。全員が食べ終わって初めて「もうテーブルを離れてもいいですか」と訊き、許可をもらってはじめてテーブルを離れられた。

* 出された食事は、何ひとつ残さず食べなければならなかった。あるとき弟②がどうしても食べ切れなかったのに許してもらえず、無理やり食べさせられて吐き戻した。

* 義父は社員食堂でお昼を食べるのを好まず、昼食には必ず家に戻って料理された温かい食事を取った。そのため先生をしていた義母は、お昼になると学校から走って戻って料理をし、また駆け戻るようだった。

* ある年はクリスマス前に何か面白くないことがあったらしく、クリスマスが禁止された。ツリーを飾ることは許されず、プレゼントもなし。クリスマスのごちそうもなく、いつも通りの生活を強いられた。

* 仕事から帰宅してむっつりと無言で食事を終えると、義父は自分の作業部屋にこもり、趣味の時計いじりをして夜を過ごした。義父に遊んでもらった覚えはほとんどない。

* おもちゃが欲しいと言ったら、棒切れに紐を結びつけたものを渡された。

* 自分が不快な思いをした時は、近くにいる息子が罰せられた。例えば風でドアがバタン!と大きな音を立てて閉まると、びっくりさせられた義父は「おまえがやったんだ!」と運悪く近くにいた息子のうちの誰かを叩いた。男の子たちは、殴られながら育ったようなものだった。

* そんな義父でもひとり娘には手の平を返したように甘かったので、男の子たちは義父の妹に対する甘さをみて驚愕の思いだった。オットーと弟たちは、どうやったら完全犯罪で義父を亡き者にできるかを話し合って鬱憤を晴らした。


やがて月日は流れ、オットーが15歳くらいだったある日のこと。また理不尽な理由で義父に殴られたオットーは、「黙って殴られるのはこれが最後。今度やったら殴り返すから」と宣言した。オットーに身長で追いつかれたことにそのときようやく気づいた義父は、その後は殴るのをやめた。

共働きだったにもかかわらず、義父は家事・育児の手伝いは一切しなかった。義母はいつも疲れ切っていて、義母の友人は皆一様に義母に離婚を勧めたそうである。でも義母はきっと『離婚したら子供がかわいそう』みたいな考えの人だったのでしょうね。ガマンにガマンを重ね、耐え難きを耐えてここまできたわけです。

オットーによると、オットーが10代の頃数年の間一緒に暮らしたドイツのおじいちゃんも義父と同じ、いや、それをパワーアップしたような暴君だったそうだ。体調を崩して伏せっていたら、おじいちゃんに「そんなのは精神的なものだ、普通にしていれば治る!」と叩かれ、ベッドから引きずり出されたのを覚えているという。そんなおじいちゃんを見て育った義父だから、暴君になったのもムリはない? おじいちゃんは1973年に亡くなったが、その後おばあちゃんが2000年まで長生きしたのもうなずけるというものだ(享年97歳)。

というわけで男の子たちは殴られながら育ったが、幸い義母と義妹が手を上げられることはなかった。しかしながら義父は義母に対してはかなり、今で言うモラハラ気味だったらしい。全然手伝わないくせに、義母のすることに何から何までいちいち文句をつけ、がみがみ怒鳴って。義父が反面教師となってくれたのか、幸いオットーにはそのケはなくてよかった。(あったらとっくの昔に離婚してます。)

そんな義父も、定年退職して毎日が日曜日となり自分の好きなことだけをして暮らせるようになってから、かなり丸くなったそうだ。幸い私が知っているのは丸くなってからの義父のみ。
それでも時々義母に対して「料理が冷めかけてる!」「紅茶が濃すぎる!」「紅茶が薄すぎる!」などと声を荒げることがあるので、義理の両親宅にお邪魔中は、ミニ爆弾を抱えているような心境? 不発で済むことも多いから、ま、いいか。

それにしても、義母の辛抱は並大抵のものではなかっただろう。4人の子供を抱えて、家事も育児もすべて一人でこなして。紙おむつなどなかった時代のこと、オットーは、義母が弟妹の布おむつを煮沸消毒する臭いを今でも覚えているそうだ。

お義母様・・・貴女は偉大です。


  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

ジョアナさん事件ですが、先週逮捕された32歳のオランダ人男性は、殺人罪で起訴されました。この男性、隣の建物の一室にガールフレンドと暮らしていた人で、ジョアナさんの家族によると、彼の名前をジョアナさんが口にしたことはなかったから知り合いだったとは思えない、とのこと。今後の裁判で殺害の状況や動機などが判明してくると思いますので、また続報をお届けします。

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