老人雑記

生活の中で気づいた浮世の事

某月某日 長い待ち時間

2016-10-06 10:34:47 | 俳句
       🐢     酔芙蓉三日続けて見に来たる

        

昨年はこの句を作るのに、三日続けて山の辺に咲いている酔芙蓉を見に通った。
てらいもなくそのとうりの事を詠んだ。

        

山の辺の道にある蕎麦畑。
少し暗くなった夕べ。
茎はまだ青い。茎が朱く染まり始めると蕎麦が実になりかかる。

       🍒    蕎麦の花碁敵来たと呼ぶ声が

       🍒    蕎麦の花里山統べる大鳥居

       🍒    蕎麦の花暮れ残りゐる段畑


昨日は病院の待ち時間に長谷川櫂の「俳句の宇宙」を読む。

言葉は本来あいまいなものである。
。。。。。    。。。。。    。。。
俳句の言葉は、自然や人生といった「場」の上で、プラズマのように活性化する。
これは俳句が紛れもなく言葉でありながら、言葉だけでできているのではないということである。
ここが俳句が他の文芸といちばん違うところ、俳句の俳句性の根ではないだろうか。
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。。。。。。。。。。    。。。。。。。。。。。
俳句は「俳句」としか呼びようがない。

ここからが私の注目を、、、
俳句に対する勘違いの多くは、俳句は言葉だけで出来ている、一行の詩である、という思い込みから出発している。
ことに俳句の近代は、言葉が自然や人生といった「場」と一体になって働く俳句の独自性などお構いなしに、たとえばワイルドの芸術至上主義のような欧米の文学理念を無理に俳句に押し付けて、俳句というものを理解しようとしてきた。
。。。。。。。    
。。。。。。。。。    。。。。。。
俳句を詠む時の「場」の大切さを強調しているくだり、、、

次に、「場」を認めない俳句が文脈にも依存しないとすれば、その俳句の言葉はあいまいなまま留まるしかない。
この場合、俳句の作者は一語一語に過剰な意味を込め、十七文字を、そして「切れ」を煉瓦で搭を造るように構成するだろう。
しかし、読み手との間の、たとえば自然のような「共通の場」を認めないから、
他の人には意味あり気な言葉の羅列としか見えない。難解な句だ。
。。。。。   。。。。。。。    。。。。。
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いつもは私が診察を受ける間、夫が待つていてくれる。
笑ってしまう。泣くに泣けない。
今度は夫が心筋梗塞の疑いで検査をすることに。
待っている苦しさを今日は私が味わっている。
夫婦は同じ食生活であるから、病気も同じなるのかしらね。
夫婦で病の厄病神に立ち向かうしかない。
コメント
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