わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

こどもに希望を語りたい

2011年10月30日 | 日々雑感
南三陸町の被災地に入ると、同行した若手スタッフは無言になりました。

一人は初めて目の当たりにする被災地の現状に、もう一人は福島のツナミ波被害は見ているのですがやはり街全体を飲み込む被害の大きさに、言葉を失ったのでしょう。

震災から半年以上たって、南三陸町の中心地、志津川に入ると、街なかの瓦礫がかなり撤去されているとはいえ、自分の思考の外にあるツナミの破壊力に、何度も足を運んでいる自分もまた改めて息をのむのです。


▼街全体が地盤沈下した。破壊された防波堤から街に海水が流れ込む。




それほどまでに、ツナミの被害はすさまじい。

3月に繰り返し報道されるテレビの映像を見たときに、映画のようだと想っていました。

でも、最初に志津川に足を踏み入れた4月、映画のセットではこの凄惨な状況は創り出せないとすぐに感じました。

高台にある志津川中学校から南三陸町の全景を視野に入れたとき、文字通り何もなくなってしまった街がいやおうなく目の前に飛び込んできます。

▼志津川中学校から望む南三陸町の全容。街が消え去った。



いまだにこの状況を処理できない自分がいて、目の前がくらくらするのです。

南三陸町を襲ったツナミの破壊力は、にわかには信じがたいパワーです。

木造建築物がツナミによって壊れるのはわかるとしても、鉄筋コンクリートの建物も跡形もなく運び去っています。


▼何度も紹介している防災庁舎。今日も遺族が足を運ぶ



▼どうして屋上に車があるのだろうか。そして半年たってもそのままなのだろうか。



3月11日の前日と前々日にかなり大きな地震があったそうです。

このときもツナミ警報が出たらしいのですが、1メートルくらいのツナミだったそうです。

それで、3月11日のツナミにも油断があったのでしょうか。

町の高台には、ツナミ対策として小、中、高校があるのですが、その校庭から街がまるごとのまれていき、逃げ遅れた人々も次々とのみこまれていくその凄惨な光景を見たこどもたち。

そのこどもたちは、今後、どのように育っていくのでしょうか。

そして、そのこどもたちを、私たちはどのように支えていけばよいのでしょうか。


▼元の南三陸の街。美しい街だった



志津川中学校を下ったところに、復興コンビニが営業されています。

そこでRQ市民災害救援センター東北本部長の佐々木豊志さん(くりこま高原自然学校代表)と合流しました。


▼復興コンビニ。街が消え去ったなかではコンビニは重要な存在。



佐々木さんに案内していただいたのは二つの仮設住宅でした。

ひとつは志津川の中瀬地区の仮設住宅。

中瀬地区はコミュニティがしっかりしてたこともあり、地区住民まるごと避難をしました。

その避難先が、RQ市民災害救援センターが本拠地を置いた登米市の旧鱒淵小学校です。

夏になり、志津川の中瀬地区にほど近い場所に建設された仮設住宅に、やはり地区まるごと移住してきました。


▼中瀬地区の仮設住宅。周りがすべて知り合いという安心感はお金では買えない。



コミュニティがばらばらになってしまっては、これまで培ってきた支えあいの構造もまたばらばらになってしまう。

区長さんのこの強い危機感が、どうしても地区丸ごとで避難・移住することを貫いたのです。

貫くといっても、それはそんなに簡単なことではありません。

最後の最後まで、そして今でもそれを貫く区長さんの強い意志と、その意志を支える地区住民の想いに、まさに脱帽です。

そして、仮設住宅は、日本で初めて民有地に建設されたものだそうです。

津波の被害を逃れた地主の方が、こういうときにこそ先祖から受け継いできた土地を活用するのだ、と。

中瀬地区の人々が、暮らしの営みとともに受け継いできた尊い志が持つ生み出す力が、今まさに発揮されようとしています。

▼中瀬地区の区長の奥さんに丁寧に案内していただいた。



次に案内していただいたのは、南三陸町の歌津(旧歌津町)。

中心地の志津川に比べ、支援の手が大幅に遅れてしまった周辺地の旧町です。

RQ市民災害救援センターは、そのような地区を支援するのが目的のひとつです。

いちはやくRQのブランチをつくり、細やかな支援を続けてきました。

歌津の中にある伊里前地区。

その伊里前地区皆さんが避難している仮設住宅を訪問させていただきました。

4月に歌津に足を踏み入れて以来、何度か顔をあわせている千葉さん。

千葉さんは、「契約会」という行政よりも強力な自治構造と自治の力を持つ集団の会長さんです。

なんでも江戸時代から続く、「結」「講」を重要視した自治組織だとか。

伊里前地区では生業としている漁船がことごとく津波で海にもっていかれたそうです。

千葉会長だけは、昔からの言い伝えどおり、地震直後に漁船を沖に向かわせて、この地区で唯一漁船が生き残ったということ。

千葉会長からは、生き残った漁船をなんとしてでも生業として復活させ、復興のシンボルにするという強い意志、伊里前地区が契約会を核とした住民自治本位の復興をめざすという熱い想いがほとばしっています。

地域の底力、本領発揮です。

▼この底力があれば、きっとよみがえる



私は佐々木さんと眼を合わせ、これまであたためておいた計画を千葉会長に伝えました。

全国のへき地農山漁村のこどもたちが、「環境」「教育」をキーワードに相互交流する計画です。

その第一回目の実行委員会を、ここ歌津で開催することも。

千葉会長は快諾です。


▼仮設住宅で熱く語る千葉さん(水色の服)



伊里前小学校や歌津中学校では、漁師のみなさんと協働した環境教育プログラムがもともとあったとのこと。

この大震災で壊滅した漁港では、このプログラムが復活するはずもなく。

ただ、この計画をきっかけに、復活させたいという千葉会長の想いも重なりました。


こどもに希望を語りたい。

その一点で、全国6箇所(宮城、福島、北海道、長野、福井、沖縄)のへき地農山漁村の人々がつながります。

泰阜村をはじめとした農山漁村の教育力と、被災地の集落の底力が、「お互い様」でつながりはじめます。

小さな力、弱い力が、「お互い様」の支援の縁でつながろうとしています。

絶望の縁(ふち)にたたされた人々との間にできた縁(えん)。

この縁を豊かに紡いでいくことが、本当の意味での「支援」なのだと想います。

そして、弱く小さな力が紡がれていくその過程こそ、大震災後にあてもなく彷徨うこの国に必要なことなのだと確信しています。

小さな縁が織り成す、こどもに希望を語る動き。

3年続けます。

小さな弱い動きが、どのように強くなっていくのか。

ぜひご期待ください。


▼登米市のRQ本部。視察の中核はここです。



▼RQ東北本部長の佐々木さん(右) 本当にお世話になりました。



代表 辻だいち

血の涙

2011年10月28日 | 日々雑感
私が被災地に入るのは7回目です。

今回は、泰阜村で実施する事業のための視察です。

宮城県登米市に本拠地をかまえ、気仙沼、南三陸、石巻の沿岸地区の被災地支援を行うRQ市民災害救援センターの活動を視察しました。

特に、全国から多くの青年ボランティアを集めて、半年以上もボランティアセンターを運営しているマネジメントについて。

NPOグリーンウッドの若手スタッフも同行しました。

彼らは初めて宮城県の被災地に入るので、RQの本拠地に入る前に、土地勘が芽生え始めた私がいくつかの場所を案内しました。


東松島市野蒜地区。

東松島市のなかでも多くの犠牲者を出したところです。

何度かこのブログでも紹介していますが、私の知り合いの教員が勤める中学校(鳴瀬第二中学校)が津波の被害にあいました。

校舎を津波が突き抜け、3名の生徒が犠牲になりました。

その被害の様子、4月29日のブログで詳しく紹介しています

ぜひご覧ください。


▼成瀬第二中学校の校門。校庭のど真ん中まで流されていた



この成瀬第二中学校に3ヶ月ぶりに足を運びました。

4月29日のときと比べると、校舎内の瓦礫はきれいに撤去されていました。

がらんどうになった校舎は逆に、もう二度とこの場にこどもの声が戻ってこないことを意味しているようです。

津波襲来の時間で止まった時計を見つめながら、埃が混じる潮風を身体中に受けて、ただただ佇むだけでした。

▼地震のあった2時46分の1時間後に津波が襲った



石巻市大川小学校。

もう説明する必要がないほどマスコミで紹介されている悲劇の小学校です。

74名もの小さな命が散ったその地に、私はこれまで6回の被災地訪問でついぞ足を運べませんでした。

被災地の現実を直視するために足を運んできているにもかかわらず、なぜ自分がこの地に足を運ばなかったのかは、今回この地を訪れてようやくわかりました。


遺族が次々と訪れる大川小学校前の献花台。

私がその場で手を合わせることすら憚れましたが、それでも合唱をして小さな命に向き合いました。


▼献花台。訪れる人々が耐えない



- 生きたい - 

この地には、こどもたちの無念の想いがさまよっている。

この無念の想いを受け止める覚悟が、私にはなかっただけなのです。

生きることの願いを奪う権利は誰にもありません。

でも、この地ではあっという間に74もの願いが奪われた。

献花台の前で遺族の後姿を見つめていると、海のかなたに自分が放り出されてしまうようなすさまじい勢いで気が遠くなりそうでした。

そして本能のまま身体が震えるのです。

身震いするとはこのことかと。


私たちは、こどもを核とした教育活動を通しての支援活動を志向してきました。

そして暮らしの学校「だいだらぼっち」(山村留学)に1年間の長期にわたって被災児童3人を受け入れました。

夏には「信州こども山賊キャンプ」にフクシマのこども47人を招待しました。

今後もこどもを核とした支援を続けます。

しかし、「支援」って何なのだろうか。

大川小学校の地に立ち、海のかなたから聞こえてきた小さな命の無念の叫びに、改めて自問自答するのです。

「支えあう」

それはきれいごとはでありません。

うわべだけでもありません。

絶望の縁から立ち上がろうとする被災地の人々。

その人々が流す血の涙を、私たちはどう支えるのでしょうか。

そして、支えようとする私たちが流す血の涙は、いったい何なのでしょうか。


▼この母の想いにどう応えるのか



すみません、想いが先走り、RQ市民災害救援センターの活動を視察するところまで進みませんでした。
次回の紹介にさせてください。


代表 辻だいち

東北を経て

2011年10月26日 | 震災支援:山賊キャンプ招待
こんにちは池田ばんです。

23日、福島でのキャンプ報告会後、24・25日の2日間は宮城県各地を回ってきました。

初めて肌で感じた被災地の状況。

上手くまとまりませんが、自分が目の当たりにした様子、そして感じてきたことをご報告させていただきます。


▼仙台市荒浜地区のガソリンスタンド。



▼小学校は回収車両の置き場となっている。校舎には津波の爪痕が。



▼さらに海岸付近へ行くと、建物の土台が残っているだけ。




▼74人の児童が亡くなった大川小学校。10名の先生と3人の中学校生徒も命を落とした。学校前には慰霊碑が建てられ、車から下りた瞬間からお線香の匂いがした。



▼南三陸町。“街”そのものが無くなってしまった。



言葉を失うという経験。

しかし、現地の方々が失ったものとは比較にすらなりません。

私事になってしまいますが、自分の故郷である奄美諸島の与論島を想い、海岸沿いの情景を重ね合わせました。


そうした中、現地では多くの作業車両が往復していました。


田畑(があったであろう土地)や道路の修復、瓦礫撤去を行う方々の姿には力強さだけではなく、美しさすら覚えました。

たくさんのボランティアの方々も作業を行っていました。

また、至るところに「頑張ろう!」「負けるな!」といったメッセージを目にしました。

商店街の旗。作業車両や道路の電光掲示板。そして壁に殴り書きしたものも。

触れてきたのは、嘆くような状況ばかりではありません。


津波でへし折られた電柱の山。そのすぐ側に建てられた新しい電柱。

「先祖が残してくれた土地だから。」と、仮設住宅を建てるために自分の土地を提供した方。

その実現に向けて動いた区長さん。

我が身を省みず、多くの人を助けようとした人の姿。

未来を生きる人々が「同じ悲劇を繰り返さないために。」と、自らの体験を涙ながらに語る人。


代表のだいちは、3月に「ここ(泰阜村)だけで支援を叫んでいてもダメだ。」と、何度も東北へ足を運びました。

その言葉の真意がようやく腑に落ちました。

自分にできることは微々たるものであることは分かっています。

それでも自分たちにやれることがある。

3月11日から7ヶ月半後の東北、絶望の爪痕と共に希望を感じた2日間でした。









また足を運ぶ日まで、再び泰阜で歯を食いしばって頑張ります。


短期事業部長 ばん

もうひとつの大震災(2008年宮城岩手内陸地震)

2011年10月25日 | 日々雑感
宮城県栗原市にいます。

東日本大震災で震度7を記録したところです。

そして3年前の2008年6月14日の宮城・岩手内陸地震でも震度6強を記録しました。

わずか3年の間に、最大震度を2回も記録した栗原市。

それにもかかわらず、宮城・岩手内陸地震の記憶ははるか彼方に飛んでいってしまったかのようです。



栗原市の耕英集落を訪ねました。

土石流の直撃を受けた温泉旅館「駒の湯」がある集落です。

本来ならば、土石流が起こっても、影響のない場所に建っていたそうです。

しかし、山がまるごと崩落して川をふさぎ、土石流が行き場を失って方角を変え、高台にあった旅館をのみこんだということです。

7人の犠牲者が出ました。

まさに「山津波」です。

駒の湯があった場所は、おそろしいまでの土石流防止の工事が進んでいました。

目がくらむようなコンクリートの量です。

▼すごい工事。正面の山がまるごと崩れて川をせきとめた



人間の手によって造られた世界最大の防波堤が、津波によってことごとく破壊された東日本大震災。

それでもなお、ここでは人工物で自然をコントロールしようとしています。

そのことにすでに限界が来ていることに気づいているにもかかわらず。

超大規模工事が進む片隅に、ひっそりとたたずむ慰霊碑に、人間社会の理不尽さや矛盾を感じつつ、そっと合掌しました。


▼7人の犠牲者の慰霊碑



宮城・岩手内陸地震では、山がまるごと崩落し、100メートル以上の断崖が出現しました。

ここは冷沢という崩落地です。

道路もろとも崩れ落ちた断崖を見ると、言葉を失います。

そこに立つだけで、おそるべき自然の猛威に対する恐怖が、身体を突き抜けます。

▼冷沢。道路が崩落で寸断された


▼地図上の点線部分の道路が、山もろとも崩れおちた


▼替わりに橋ができる。栗駒山の紅葉は日本屈指。天気でないのが残念



行政の指示により、集落全員が避難を余儀なくされた耕英集落の人々。

自衛隊のヘリで山の麓まで下ろされ、そのまま数ヶ月の避難生活です。

イワナの養殖に日本で初めて成功した方も、イワナをそのまま置いていかなくてはならない無念。

その無念、いかほどのものだったのでしょうか。

身体が痛くなります。

▼日本初のイワナ養殖に成功した人がここにいる



それでもイワナの養殖を復活させました。

その不屈の精神には、頭を何度下げても下げたりないです。

ご主人は不在でしたが、奥さんが丁寧に説明してくれました。

ときおり見せる笑顔には、苦難を乗り越えた3年の日々が刻み込まれていて、とても素敵でした。

▼奥さん(右から二人目)が丁寧に案内してくれた



今回、案内をしてくれたのは、耕英に本拠地をかまえる「くりこま高原自然学校」の佐々木豊志さん。

3年前にも被災した彼は、東日本大震災ではRQ市民災害救援センターを立ち上げ、今度は被災者支援に奔走しています。

昨夜は自然学校に泊めていただき、スタッフと懇親を深めました。

みなさん、とびきりの笑顔でお酒を酌み交わしていましたが、耕英に戻ってきたのはつい2ヶ月前だとか。

もうひとつの大震災もまた、まだまだ復興の端緒についたばかりです。

▼くりこま高原自然学校


▼右の建物が傾いている。自然学校の施設の基礎が相当やられた。3年前の地震の復興もまだまだ始まったばかり


この3年で、宮城は海も山も傷つきました。

フクシマと同時にミヤギの小さな地域を、私たち泰阜村の人々が支えることはできるのでしょうか。

きっとできます。

そう信じています。

泰阜村の教育力と、被災地の集落の底力が、「お互い様」でつながりはじめます。

栗原入る前にめぐった南三陸のひとびとと、そんな前向きな打ち合わせもできました。

こどもに希望を語りたい。

その一点で、お互い様の支援の縁がつながろうとしています。

まさに「支援」は「支縁」です。

詳しくは別途紹介したいと想います。

佐々木さん、自然学校の皆さん、本当にありがとうございました!

泰阜に車で帰ります。720kmあるらしいです。ちょっとびびっています(笑)

代表辻だいち

もうひとつの大震災

2011年10月23日 | 日々雑感

今日、10月23日。

7年前の今日、2004年10月23日、新潟県を中越地震が襲った日です。

皆さん、覚えているでしょうか。

上越新幹線が脱線したことを。

トンネルが崩れて一人の少年が奇跡的に助け出されたことを。

山古志という村が、全村避難を余儀なくされたことを。

紀伊半島に出現した「せきとめ湖」が、あちこちに出現したことを。

阪神淡路大震災以来の震度7を記録したことを。


たった7年。

されど7年。

あの日、凄惨なできごとだったことが、もはや記憶の彼方に追いやられた事も多いのではないでしょうか。

私たちは、中越地震の際も、こどもを中心とした震災支援活動を行いました。

詳しくはこちらをご覧ください。


今、仙台にいます。

さきほど到着しました。

明日からは、東日本大震災の爪あとを巡ります。

一方で、もうひとつの大震災の「地」や「時」そして「人」も巡りたいと想います。


ぜひブログを注視ください。

代表 辻だいち