わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

【若者よ、その実感を、手に握れ!】 ~NPOグリーンウッドがスタッフ募集~

2016年12月17日 | 泰阜村のソコヂカラ
信州泰阜村で、共に働く若いチカラを募集している。

今年度、夏から募集を続けてきたが、いよいよ【最終エントリー】が1月末。

この情報が、全国の若者に届くように、ぜひ皆様の関係者にご案内いただきたい。

募集についてのNPOグリーンウッド代表理事(私)のコメントを、以下に紹介する。

ぜひ、ご笑覧いただきたい。





 グリーンウッドの採用情報にアクセスしていただきありがとうございます。

 皆さんは、「自律」と聞いて、何をイメージするでしょうか。「自立」とは違うのだろうか? 自分自身を律することなのでは? 様々なことをイメージするでしょう。

 私たちグリーンウッドは、「周囲と協調・連携しつつ、自発的に責任ある行動をとること」が「自律」である、と解釈しています。そして「自律の人づくり」こそグリーンウッドのミッション(社会的使命)でもあるのです。

 私たちは、自然を相手に仕事をしています。泰阜村という地域を舞台に仕事をしています。同じ志を持つ仲間と、知恵と力を合わせて仕事をしています。自然との関係も、地域住民との関係も、そして仲間との関係も、すべて「自分の思い通り」にはならないものです。

 このような「思い通りにならない」環境で仕事をする、ということは、自らの感覚を総動員させて考え抜く「チカラ」、周囲の様々な要素と折り合いをつけるという「チカラ」、そして自発的に責任ある言動をとる「チカラ」、すなわち「自律のチカラ」が必要となります。

 私たちグリーンウッドは、世の中の大企業とは違い、職員15人程度の少数精鋭の職場です。文字通り少ない人数の知恵と力を結集させて、大量生産・大量消費、効率的・合理的といった既存の価値観とは違う「新しい価値観」を創出することに挑戦し続ける仕事が待っています。その責任ある仕事は皆さんに、「小さな力が社会を変革する実感」を手に握らせてくれることでしょう。

 また、皆さんは人口1800人弱の小さな山村:泰阜村の住民となります。隣に住む人の顔や首長の顔もわからない都市部と違い、ほとんどの人の顔が見える暮らしが展開されます。皆さんがこれまで感じる事の少なかった政治や行政が身近になり、一人一人が役割を持つ「暮らし」をより立体的に実感することになるでしょう。その役割ある暮らしは、「地域の未来をデザインするプロセスに参画できる実感」を手に握らせてくれることでしょう。

 職場においても地域においても、皆さん一人一人の役割と責任が大きく深いことが、私たちグリーンウッドの特徴です。そう、役割に大きく責任を持つからこそ、そして深い責任を果たすからこそ、「自律のチカラ」が身につくのです。

 私たちグリーンウッドのビジョンは、「あんじゃね(※)な社会」を創ることです。人と自然の関係、人と社会の関係、人と人の関係が、安心できる世の中にしていきたいと強く願っています。そのような世の中を誰かに作ってもらうことを待つ時代は終わりを告げ、今や自らの手によって産み出していく時代です。自らの頭で考え、自らの手足を動かし、周りと協調性を持って自発的に社会創りに取り組んでこそ、本質的に豊かな時代が到来するでしょう。

 時代は混迷を極めていきますが、そのような時代だからこそ試されるのです。どのような状況に陥ったとしても、本質を見抜いて状況を判断することが。そして周囲と支え合いながら、自発的に責任ある行動を起こすことが。その「自律のチカラ」を培った人こそが、社会を楽しく変えていくのです。

 集まれ、若い力。共に素敵な社会を創りましょう。皆さんの応募をお待ちしております。

※「あんじゃね」=「案ずることはない」「大丈夫だ」「安心しなさい」という意味の方言




代表 辻だいち


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【広島のど真ん中で"未来(希望)"を語る】 ~やっぱ戦争、あかんやろ~

2016年12月16日 | あんじゃねぇ=平和で安心な社会へ
広島に来た。

まずは平和祈念公園に足を運ぶ。

長崎もそうだけれど、広島も外国人が多い。

この地に立ったから、というわけではないが、やっぱり想うことがある。

その想いは、最後に記す。






平和記念公園の原爆資料館の横に、広島国際会議場がある。

こんなすごい会場で開催された環境省主催のフォーラムで基調講演をした。

「『地域づくり×ESD』の素敵な未来」という演題で。

ESDとは「持続可能な開発のための教育」のこと(Education for Sustainable Development)。

ムズカシイよね~

そうなんだよな、ESDっていまだに俺もよくわかんない。

でも、俺の言葉で翻訳すれば「素敵な未来を創ろう!っていう学び」のこと。

中国四国地方から多様なひとびとが集まって、素敵な未来を語り合った。

私の好きな言葉の一つに「学ぶとは、未来を共に語ること」(フランスの詩人:ルイ・アラゴン)がある。

広島で、未来を楽しく語れたことに、感謝したい。










でもね、俺、想うんだよね。

やっぱ戦争、あかんやろって。

原爆が戦争を終わらせて日本国民を救ったんだとか、オスプレイの墜落は住宅を避けて海を目指しだんだ、とか。

日米安保がどれだけ大事だとか、集団的自衛権が必要だとか、駆けつけ警護だとか。

でも、俺、ほんと、想うんだよね。

ニッポンもアメリカも、そして世界中のクニグニも、なにがなんでも戦争をなくそうっていう、強い意志とひたむきな努力が、やっぱ欠
落してるんじゃないかなって。

俺はやるよ。

学びを通して、素敵で平和な社会づくりを。

やっぱ戦争、あかんて、ほんと。


代表 辻だいち

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【イカサマ忍者が立教大に登壇】 ~これで心置きなく年末を迎えられる~

2016年12月15日 | 全国のなかまたち
イカサマ忍者が、立教大に登壇した。








熊本県阿蘇市に住むイカサマ忍者こと薄井隊長が、私の「自然と人間の共生」の授業でゲストスピーク。

「イカサマ忍法」って、なんのこっちゃと想うだろうが、九州では知れ渡るパフォーマンスのプロでもある。

彼とは数年前に、ここ国立阿蘇青少年交流の家で知り合った。

そのころは現役の消防隊・レスキュー隊だったので、隊長。

一方で、「あそBE隊」の隊長でもあるのだが。

隊長は、今年4月の熊本地震で被災された。

地震の1週間後に私は被災地に入るが、その際、阿蘇地域を隈なく案内してくれた。

夏に、信州こども山賊キャンプに熊本地震の被災児童を招待するプロジェクトでは、阿蘇地域のこどもたちのとりまとめを買ってでてくれた。

今年1年は、彼との関係性が急速に深まった時間だった。







授業では、自身の消防隊・救助隊の経験をもとに、「自然と向き合うことは命と向き合うことだ」という素敵な話をしてくれた。

閑話休題鉄器に繰り出された「イカサマオヤジの戯言」は、300人の学生に大ウケだった。

そしてお決まりのイカサマポーズをそこかしこで。

クリスマス直前の立教大正門は、ことのほか素敵な雰囲気だったが、ここでもイカサマポーズ。

これで心置きなく年末を迎えられる(笑)









代表 辻だいち


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【越(高志)の白山】 ~生まれてから今までの縁が、白山の麓に呼び寄せている~

2016年12月14日 | 私のルーツ・私の物語
石川県白山市にいる。

この市は海から(海抜0m)から白山頂上(標高2072m)まで、手取川の流域全が含まれる。

多様性の縮図ともいえる自治体。

今回は、その中腹ともいうのか旧尾口村へ。

200人程度の集落に、金沢工業大学の高専が、2年間の全寮制で学ぶキャンパスを創る。

戸惑う受け入れ地域へのアドバイスが仕事だ。


▼小さな小さな集落



▼キャンパスの整備が進む




実はこの白山市や周辺とは多くの縁がある。

白山市最も奥地にある旧白峰村。

霊峰白山の登山口である。

私の故郷:福井から、白山は良く見えた。

「越(こし)の白山(しらやま)」といわれ、福井市の学校の校歌の歌詞にはほとんど登場
するのではないか。

「白山遠く 霞む日に わが学び舎の・・・」

これは私が通った松本小学校の校歌冒頭。

「白山高く 朝日に映えて 生気天地に 溢る・・・」

これは私が通った進明中学校の校歌冒頭

「~日は若き 越(高志)の白山 まかがやく 時の流れ~」

これは私が通った高志高校の校歌の歌詞。

という感じで、白山はこどもの頃からもう、切っても切れない心の山である。



そして、この旧白峰村にある唯一の中学校だった、旧白峰中学校(現在:白嶺小中学校)と縁がまた深い。

なんと、私が通っていた進明中学校と白峰中学校は、昭和57年(1982年)から20年来、交流学習が続いていた。

私のクラスにも、白峰中学校の生徒が来て、文通もしていた。

まあ、姉妹校のようなものである。

白峰中学校は、2008年に統廃合で廃校。

わが進明中学校は、当時の生徒数の3分の1の規模になってしまった。


▼統合されて生まれた白嶺小中学校




そして実は、白峰小中学校では、山村留学も実施されていた。

18年ほど前には、泰阜村で運営者となった私と、白峰村の担当者との間で、交流もあったものだ。

白峰小中学校の山村留学もまた、時代の流れにのまれて消えていった。



故郷の福井が近かったゆえに生まれた縁。

そして泰阜村と境遇が似ている地勢がゆえに生まれた縁。

いくつもの縁が、今また、私を白山の麓に呼び戻している。

この地のひとびとが、地域の命運をかけて取り組む構想に、泰阜村での30年の積み重ねが役立つかもしれない。

特色あるカリキュラムを作りたい金工大側にも関わらなければと想う。

そしてゆくゆくは、ひとねる大学と連携したい。


▼集落のひとびとの勉強会に、話をさせていただいた





代表 辻だいち


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【金沢を象徴する黒瓦と曇天が、北陸生まれの自分にはしっくりくる】 ~この気候こそが私の土台を創ってきた~

2016年12月11日 | 私のルーツ・私の物語
四国はあんなにおだやかな天候だったのに。

この季節の北陸へ移動は、気候の変化に身体がついていかない。

金沢では「雪おこし」という気象現象に遭遇した。

日本海各地で、雪おろし、とか、ぶりおろしとも言われる。

猛烈な風が吹き荒れ雷が激しく鳴り響く。

あっという間に、路面が真っ白になった。

私も故郷が同じ北陸の福井だから、まあ、この現象があると「冬に入るなあ」という感じである。









そんな激しい天候にもかかわらず、観光地は相変わらずのひと、ひと、ひとだ。

街を見下ろす高台に来てみた。

こんな所には観光客は誰もいない。

でも、冬の金沢を象徴する黒瓦と曇天が、北陸生まれの自分にはしっくりくる。







新幹線が来た街に、観光客もまたどっと来た。

金沢人気がいつまで続くかわからない。

けれど、雪おこしの冬はいつも通りにやってくる。

この冬の気候、北陸の冬こそが、私の土台を創ってきたんだと、つくづく想う。

でも、雪はもう、見たくもないと心から想う。

小さなころの、豪雪の記憶、雪かきの日々は身体にしみついている。

それから逃れたい、そう想いつつも、結局札幌経由で信州に暮らすんだから、やっぱ雪からは離れられないのかもしれない。

今日は、北陸石川の酒で、一人一献傾けよう。





代表 辻だいち



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【85歳のおふくろに、「運転気をつけろ」と言われた】 ~やっぱりおふろくはおふくろなのだ~

2016年12月10日 | 私のルーツ・私の物語
四国から次の地に向かう。

その途中で、故郷の福井に途中下車した。






85歳になるおふくろの顔を見にいくためだ。

福井に帰ってきたら必ず食べるのが、越前おろしそば。

手前みそかもしれないが、日本で一番おいしいそばだと想う。






そのおろしそばを一緒にすすりながら、他愛もない話をする。

競技かるた(百人一首)で日本一になった経歴を持つおふくろは、かるたブームに沸く小中学生からサインをねだられたとか。

私も幼い時代に競技かるたを毎日やっていた。

いや、やらされていた(笑)

あの頃の思い出話も少々。

孫の話も、この頃は定番の話である。

こうやっておふくろと会話するなんて、40年ほど前にタイムスリップしたようだ。








歳を考えればウソのように元気だけれど、やっぱり老いは止めようがない。

確実に迫ってくる“その時”までに、おふくろに何を還すことができるのだろうと自問自答する。

「車の運転、気をつけるんやざ」と別れ際に言われた。

おいおい逆だろうと想うが、いつまでたっても息子のことを心配するのが、おふくろなんだろうな。

折しも今日は、8年前に他界した親父の誕生日だ。

途中下車だったけれど、おふくろと親父と出逢えてよかった。

そして、次の地、金沢に向かう。



代表 辻だいち


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【「命をかけて」紡ぐ歴史の数々】 ~小さな山村の強(したた)かさを見よ~

2016年12月09日 | 全国のなかまたち
さてさて、今回は一応仕事で四国に来ている。

先月も来た高知県大川村に2回目の訪問だ。

正確には20年前ほど前にも来たことあるので3回目ということになる。

離島を除いて日本一人口が少ない村で、なんと396人!

縁あってこの村の未来づくりに関わっている。






今回は、50年前の村の話を聴いた。

村議会議長の朝倉さんからだ。

彼の口から語られたのは、忘れ去られたような小さな山村に暮らすひとびとが、「命をかけて」紡ぐ歴史の数々。

やっぱりそうなんだよな。

踏んづけられても、コテンパにこづかれても、全く相手にされずバカにされても、それでも生きぬく強(したた)かさ。

信州泰阜村とおんなじだ。

胸を打つ話だった。


「まあ見てろって」というハングリー精神を持ち続ければ、ゆっくりと浮上するよね。

こんなに多くの人々(ほぼ村の人口の1割)が集まって、村の未来を考えようとしているんだから。

一緒にがんばりましょう。






夜に、大川村のひとびとと一献傾けた。

いろんなアイディアが産まれた。

話をしていると、20年ほど前にこの地を訪れた記憶が少しずつ蘇る。

当時、文部省の研究委員として、全国の山村留学の調査を行い、現地調査として四国をまわった。

私が、この大川村の報告書を担当していたことを想い出してしまった!

「辻さんの仕事は、泰阜に帰ったら、まずその報告書を見つけること」と皆さんに言われてしまった。

さて、あるかな~。



代表 辻だいち



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【山好きな血が騒ぐ】 ~大好きな街・松山で結局は酒好きの血が騒いだだけなのだ~

2016年12月08日 | 私のルーツ・私の物語
夜汽車に乗り、降り立ったのは愛媛の伊予西条駅。

ホームにどかんと石鎚山の案内が立つ。

こういうのを見ると、山好きの血が騒ぐ。

若いころなら、問答無用で1日休みを入れて登ったもんだが。






西条から四国山地での仕事を終えて、松山を訪れた。

松山は好きな街のひとつだ。

大学4年の晩秋に初めて来て以来、なぜか訪れたくなる。

ということは、もう24年前か。

当時私は運動部(ハンドボール部)に所属していた。

全日本インカレが松山で開催され、北海道代表として出場したというわけだ。

道後温泉の安宿に宿泊し、道後公園で身体を動かしたなあ、と懐かしく想い出す。


▼おそらく、この体育館が会場




▼道後公園で、身体を動かした





久しぶりに温泉本館にも入った。


風情がありすぎる温泉では、話し好きな地元のおっちゃんに湯船で果てしなく語られた。

というかほぼ説教。

それにつきあうのもまた、旅の醍醐味。

湯は昔のままだったけれど、あの時に泊まった宿は探しても探しても見当たらなかった。

記憶がおぼろげなのか、もう宿がなくなってしまったのか、それとも湯にのぼせたからなのか。









温泉付近も、お城も、街も、あの頃に比べれば、格段に洗練されてオシャレになっている。

こんなに「みかん、みかん」してたっけ? 

でも、松山の街の気質は変わってないんだろうな、と感じる。

うん、また来よう。


▼松山城にも24年ぶりに






▼歴女がいました







▼泊まったホテルのロビーには、みかんジュースが出てくる蛇口! おいしい!





石鎚山を見て、登高意欲が沸いたが、そんな時間も体力もなく。

結局、山の石鎚ではなく酒の石鎚になる。

ま、酒好きの血も同時に騒いだだけの話なのだ。










しかしどうも地名に「松」が入る街を好きになるきらいがある。

松山、松江、松本、会津若松・・・、なんか共通項あるのかな???


代表 辻だいち



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【これははまりそうである】 ~夜汽車の汽笛が聞こえる街で育った~

2016年12月06日 | 私のルーツ・私の物語
四国に行くため、東京から夜汽車に乗る。







子どもの頃、夜汽車の汽笛が聴こえる街で育った。

北陸の街は、大阪から青森へ向かう夜汽車が頻繁に通る。

車輪の音もそうだが、「ピ――――――!!!」という汽笛は、冬の夜中の風物詩的な音だった。

上野に向かう夜行急行もあった。

栃木の祖母が亡くなった時に乗った夜汽車は、本当に寂しい風情で、夜の車窓は忘れられない。

札幌の大学に合格し、下宿の手配をするために函館行きの寝台列車「日本海」にも乗った。

できたばかりの青函トンネルを通り、どんなもんかとワクワクしたがトンネルに突入して「こんなもんか」と、ただただ暗闇が続く海底

トンネルに期待外れだな、と想ったものだ。

札幌での学生時代にはよく夜行列車を使った。

釧路行きの夜行急行、函館行きの夜行急行、網走雪の夜行急行、そして上野行きの寝台列車「北斗星」。

どれもこれも、くたびれた青い車体で、揺れに揺れた。

そこがいい、というマニアもいるが、とてもそうは思えない揺れだった。

でも、哀愁漂う雰囲気は、一人旅に似合っていたから、どちらかといえば好きだった。









東京から四国に向かう寝台は、今や、こんなにオシャレな夜汽車である。

これだけ夜行バスが隆盛なのにもかかわらず、もう夜行列車はこの「サンライズ瀬戸・出雲」だけらしい。

この列車、ほとんどが個室である。

乗り合わせたひとびととの触れ合いこそないが、ビジネスで使うにはもってこいだろう。

今回乗ってみて、四国や山陰の仕事に「これは使える」と、はまりそうである。

立教大学の講義の後、ゲストとの慰労会で夜21時まで新宿で飲んでいた。

翌朝9時には愛媛県にいなければならない。

そこで今回、寝台列車を使ったというわけだ。

移動と宿泊が一緒になっている時間と経費の効率の良さは、夜行ならでは。

何より、横になって寝れるのがいい。

そこが夜行バスとの違いだ。

そして私は、流れる車窓を見るのが何より好きなので、一人だれにも邪魔をされずに、酒をちびりちびりとやりながらは格別な時間だった。

降りたつ前に瀬戸大橋を渡るが、ちょうど朝日の時間帯なので素敵な1日のスタートとなった。

また使おう。


代表 辻だいち




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【その執念に脱帽である】 ~東日本大震災で傷ついたこどもたちへの「命の授業」~

2016年12月05日 | 全国のなかまたち
立教大学「自然と人間の共生」の授業。

今回は、宮城県東松島市からゲストスピークを迎えた。

東日本大震災の被災者で、教え子を津波で失った元中学校教員:制野俊弘先生。

東松島市の鳴瀬第二中学校の体育教員だった。



私は学生時代は体育・健康・体力の勉強をしていた。

東日本大震災の際、私の学生時代の恩師である進藤先生から、被災地の体育教員である制野先生を紹介していただいた。

要は体育教員仲間である。







制野先生が勤めていた鳴瀬ニ中は、津波により壊滅的な被害を受けた。

当日は、午前中に卒業式が終わり、卒業生は隣の施設で謝恩会を行っていた。

地震の後、3階に避難した。

在校生の半分以上は帰宅していた時刻。

バキバキという松の折れる音と共に、普段は松原によって見えない海が視界に広がり、あっという間に津波は、中学校と隣の施設を飲み
込み、校舎をつきぬけた。

3階ではだめだと屋上に逃げ、隣の中学校を見れば皆一番高い場所に避難しる様子がうかがえた。

津波が校舎を突き抜けるという光景に泣くというより泣き叫んでパニックになる生徒が続出した、その日はその場所で夜を明かした。

と、その時の様子を学生に話してくれた。



▼津波が校舎をつきぬけた旧鳴瀬第二中学校












鳴瀬ニ中の生徒は数人が犠牲になった。

祖父母の介護をしていた子、逃げるのが遅れる祖母と一緒にいた子、小さい兄弟と一緒にいた子(兄弟が固まって見つかったそうだ)・・・。

親族を失った生徒は多く、家族でたった一人だけ助かった子もいる。

制野先生は野球部の顧問だったが、帰宅してた部員は津波に飲まれ、泳ぎきって命からがら助かった子も多くいたよう。

その後、鳴瀬ニ中は、少し離れた鳴瀬一中に間借りをして学校が開始された。

そして、数年後、二つの中学校が統合して、鳴瀬未来中学校になった。



制野先生をはじめ教員一同は、「命の授業」を始める。

震災から3年たっても、本当の気持ちを外に出せないこどもたちのためだ。

気持ちを表に出すと、周りが迷惑するのではないかという恐怖心がこどもを襲っていた。

笑顔を取り繕っていたこどもたちは、教員一同の粘り強い「命の授業」を通して、ようやく心を開いていく。

その教育者の執念に脱帽である。

命の授業の様子は、昨年のNHKスペシャルでも放映され、大反響を呼んだ。

被災者ということだけではなく、こどもの心の闇が晴れていく(虐待や、離婚、いじめなど)取り組みは、全国でも求めらるだろう。

また学生の前で話もらう機会を創りたい。








震災直後に東松島市を訪れた際、初体面にも関わらずそのまま「辻君、泊まってけ」となった。

その気さくな人柄は、今も変わらない。

講義後の慰労会・懇親会は、池袋のいつもの店で(故郷:福井の焼き鳥屋)。

ちょうど東京に来ていた鳥取鹿野の小林清さんも加わった。

命をつなぐまちづくりについて、話が盛り上がった。

制野先生は、今年4月から一念発起で東京に来て、和光大学で教鞭をとっている。







しかし、この時期の、この大学は、ほんとに素敵な雰囲気だ。

正門のこの風景はずいぶんと有名らしい。



代表 辻だいち


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