わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

【「貸間」なんてもう絶滅やろ】 ~四半世紀後の札幌の学生街~

2017年01月21日 | 私のルーツ・私の物語
札幌に来た。

こんな寒いところで学生時代を過ごしたんだな、と学生街をとぼとぼ歩く。

自分が過ごした時と、ずいぶん学生街が変貌している。

あたりまえか、もう四半世紀も前のことだ。


▼私が住んでいた場所




住んでいたのは「貸間」というジャンルの建物だった。

なんというのか、漫画「めぞん一刻」のような感じ。

いや、めぞん一刻などという言葉も、もう通じないのかもしれない。

トイレや洗面所が共用、もちろん風呂などない。

ギシギシと響く階段や廊下。

私の下宿なんかは、隣の部屋の声が聞こえるのは当然で、もうひとつ隣の部屋の話声まで丸聞こえだった。

女の子を連れ込むなんて、不可能に近い住まいだった。

大学生になる息子と部屋探しに行くようになった身には、もう、笑い話としか思えない。

その「貸間」だが、もう絶滅に近い感じだ。

私が住んでいた「永幸荘」も近代的なビルに変貌していた。

あたりまえか、もう四半世紀も前のことだ。




でも、隣の「道友荘」は奇跡的にまだやっていた!

どうやって経営しているのか深刻に気になるが、でも何か昔の友人と再会したような気になる。

近くに住んでいた友人の「友和荘」や「興和荘」も、跡形もない。

名前もまた味わい深い時代だったな、と想う。


▼隣の「道友荘」






大学1年生の冬に、あまりの寒さにバイト代をはたいて買ったダウンコート。

そのコートを今まさに着て歩いている。

おそらく死ぬまで着れる丈夫さだ。

完全に元はとったな。

体育会で毎日死ぬほど身体を動かしているにもかかわらず、ほんとに様々なバイトをやったもんだ。

親からの仕送りが限られる中、部活の遠征費などは自分で稼ぐしかなかった。

遠征費に使いたいけれど、寒さにおののき、ダウンを買うことは即決。

そのダウンコートを来て学生街を今歩くと、懐かしい青春がよみがえる。


▼わが母校




▼母校のイチョウ並木




▼母校のローン(芝生)




▼一応、ここで勉強した




▼大学時代のほとんどの時間をここで過ごした





そのバイトをしたススキノにも足を運び、学部の先輩たちと朝方まで飲んだ。

みんな変わってないけれど、もう齢50に近い。

貫録があり過ぎで笑えるよホント。

最後のラーメンはほんとにうまかった。

次に札幌に帰ってくるのはいつになるかなあ。

またこの街を歩きたい。


▼ススキノの定番




▼20年ぶりくらいに再会した先輩たち




▼「けやき」の味噌ラーメン




代表 辻だいち


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【口から生まれた男】 ~私の価値観を変えた運命の出会い~

2017年01月20日 | 私のルーツ・私の物語
大沼をあとにして、岩見沢という街に来た。

この街には、私の学生時代の恩師が住んでいる。

進藤省次郎先生。

出会いは20歳の時、大学2年の秋。

もともとは社会教育を専門にしようかと思っていたのだが、この先生の研究との出会いをきかっけに、私は体育を専門とすることになった。

人生、わからないものだ。



「体育嫌いのこどもがなぜたくさんいるのか?」

その問いから始まる研究は、スポーツ至上主義とは決別した「身体を通した本質的な教育」を私にたたきこんでくれた。

「より速く、より高く、より遠く」が評価になる体育、つまり「できたかどうか」が評価される体育では、体育嫌いが増えてしまうのも無理はない。

そうではなく、身体を動かす楽しさやその運動種目の持つ「本質的な楽しさを得たかどうか」で評価する体育。

「できる子ども」を「よりできるようにする」体育ではなく、「できない子ども」もその「楽しさを得る」体育。

中学、高校、そして大学と、競技スポーツに打ち込んできた私の価値観は、粉々に吹き飛んだ。

体育って何なんだ?

教育って何なんだ?

あらゆる視点からそれらを見つめ、仲間と議論する時間。

その時間を経て、私の価値観はじんわりと再構築された。

眠っていた大学のゼミ資料を引っ張り出した。

まだそのころは手書きの討論資料である。

びっしりと赤字で修正してある資料を見ると、今こうやってパソコンで文字を入力している自分はあの時のテマヒマかけた学びが削ぎ落とされているのではないかと感じる。

運動や体育、スポーツ、身体のことを、今思えばけっこう勉強してたのかなあ。

体育会の活動ばかりでほとんど教室にいなかった。

でもゼミだけはサボれないのでがんばっていたんだと想う。

そんないい加減な私を、最後まであきらめずに指導いただいた。




大学教員としては評価されない活動も積極的に手を出す先生だった。

事実、体育会の学生からは高い評価を得ている。

話すのがとにかく好きな先生で、飲み会では9割以上、彼がしゃべっていた。

「口から生まれた男」とも言われていた。

今回は先生の家に泊まらせていただき、お酒を飲みながら語り合った。

しかし、歳はとってもあの頃のまま。

相変わらずしゃべりまくっていた。

いつも想うことだが「お願いだから俺にもしゃべらせろ」である(笑)





進藤先生の奥さま:貴美子先生も大学教員。

こちらは身体と暮らしをつなげる踊りが専門。

彼女もまた伝説の教員であり、大好きな先生でもある。

NPOグリーンウッドにも講師で来てもらったことがあるほどだ。

夫婦そろって素敵な体育教員だが、ここ最近この二人にも転機が訪れている。

貴美子先生が奄美大島に転居し、島の集落住民に完全になり切っているとのことだ。

省次郎先生も、足しげく通って、島の暮らしを楽しんでいる。

「卒婚」ということらしいが、要は二地域居住ということだろう。

ちょうど貴美子先生が、奄美から岩見沢に数日間、帰ってきた日に、私は泊まらせていただいた。

運がよかった、ということになる。

島の暮らしを生き生きと語る貴美子先生は、とても70歳を迎えたとは思えない。

さらにパワフルになった貴美子先生に会いに、いつか奄美に行こう。



それにしても、である。

出会ったころのご夫妻の年齢が、ちょうど今の私の年齢なんだな。

そう想えば想うほど、今の自分の来し方行く末を考える。

やはり今年は転機の時なのかもしれない。


代表 辻だいち


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【は~るばる来たぜ、函館~♪】 ~古くて月並みだけれど、それでも歌いたくなるのだ~

2017年01月19日 | 全国のなかまたち
は~るばる来たぜ、函館~♪

久しぶりの北海道に上陸し、想わず口ずさむ。

でも、古いな(笑)




▼北海道の翼「エア・DO」





函館は、北海道のどの街とも違う雰囲気が漂う。

いつかは暮らしたい、と想うほど気になる街だ。

空港でレンタカーを借りて、湯の川温泉を通り過ぎる。

私は大学時代は札幌で過ごした。

体育会に所属し、ハンドボール三昧の4年間。

インカレ出場を争うライバル校が函館にあった。

よく函館に合宿に来たなあ。

湯の川温泉の安宿に泊まり、ライバル校とガチンコ勝負をしたものだ。

でも、私の在学中は、ついぞ一度も勝てなかったが。

悔しさ残る思い出の地である。



その想い出の温泉を横目に、あまずは立待岬に向かう。

あまりメジャーではないスポットだが、そこがいい。

石川啄木ゆかりの地からは、津軽海峡をはさんで下北半島が見える。

誰もいない岬を一人占めすると、思わず口すざむのは・・・

津軽海峡~、冬景色~♪

やっぱり古いな(笑)









立待岬のすぐ近くに、とっておきの温泉がある。

函館市民が愛してやまない谷地頭温泉。

早朝に羽田を出たので、眠気覚ましに一風呂浴びる。

茶褐色のお湯は、とても函館市のど真ん中に沸く温泉とは思えない。

湯の川温泉とは違う風情を感じ、函館の街を抜けて大沼に向かう。


▼谷地頭温泉




▼函館の坂




▼函館のレンガ倉庫





いやしかし、変わるもんだ。

北海道新幹線が函館まで延伸し、高速道路が札幌から南下してもう大沼近辺まで伸びてきている。

学生時代にバイクでひたすら走った面影はあまりない。

インフラが変わったのか、私が忘れているだけなのか。

函館から大沼まであっという間だった。




大沼に来るのはもう20年ぶりだろうか。

通り過ぎることはあっても、降りたつのはずいぶんと久しぶりだ。

大沼は、新日本三景に選ばれたことがあるという。

確かに、と想うほど、ほんと駒ケ岳が美しい。






この大沼のほとりで、牧場経営を始めた知人を訪ねる。

北海道に根ざした自然学校「ねおす」に所属していた宮本さん。

忙しいにもかかわらず、突然訪れた私を案内してくれた。









とにかく広い。

高低差・標高差こそ信州の方がダイナミックだけれど、こと広大さ・茫洋さとなるとてんで北海道にはかなわない。

広すぎる牧場をゆっくりと歩きながら案内を受けると、踏みしめる一歩一歩に彼の覚悟が表れているように感じる。

この土地に根ざし、馬と農と森をテーマに経営手腕をいかんなく発揮している。







尊敬すべきだな。

心にズキズキするくらいに刺激になった。

来てよかった。

それにつけも、馬、いいな~。

泰阜でも飼いたい(笑)


代表 辻だいち

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【1月17日が、「いいな」の日になるその日まで】 ~阪神大震災の被災児童から届いたメール~

2017年01月17日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
1月17日。

22年前に、西日本に巨大地震が発生した日だ。

自然の猛威にたたずんだあの日。

NPOグリーンウッドと泰阜村は、阪神・淡路大震災の被災児童を3人、3年間山村留学に受け入れた。

そのこどもももう32歳。








「22年やねー!
この間にいろんな所で震災とか、噴火災害とか洪水被害とかたくさん天災あったけど、その中でも阪神のんって復興の早さはすごかったんだなぁと思うよ。
都会だからかなぁ??
まだまだ復興してない地域を見ると恵まれてたのかなぁとさえ思う。
心の傷とか、大切な人をなくした人とか、見えない部分では何年経っても支えが必要なんだろうなぁ。」


「俺自身神戸の街を離れて10年以上たって、たまに帰るぐらいやけど地震の面影は感じないな。
当時の記憶も一年のうちほとんど忘れてるけど、毎年1月17日になると、当時の記憶を思い出すわ。地震発生時とか、逃げたルートとか、電気も水もない生活とか
当時は小4やったけど、怖い思い出とか辛い思い出とかは覚えてるもんやなって思う
けど、それも思い出すのはほんの数日ですぐに忘れるけど
ただ、やっぱり他の地で地震とかあったらその場の人の苦労とか気にするねー」


「今でもこの時期になると母が少しナーバスになります。
私は祖父母とだいだらがあったから、一番大変な時期をあまり苦しまずに過ごす事が出来たけれど、母は震災直後から本当に苦労続きだったろうなと。
今は何かあってもそばで支えになれる歳なので、そういった形で母を励ましてあげられる事が、なにより月日を感じさせます。
あれから日本各所で大きな地震がありました。
私たちのように、その都度だいだらに助けられた子供たちや、そのぶん安心して過ごせる家族もいた事と思います。
地震と日本はっても切り離せない間柄ですが、これからもそんな人たちの支えになってあげてください」



彼らからさきほど届いたメールだ。

阪神・淡路で被災して心も身体も傷ついたこどもが、小学生時代に泰阜村の風土に包まれて育った。

そして青年になった今、彼らが果たす社会的役割に期待なのだ。

1月17日が、「いいな」の日になるその時を夢見ている。


代表 辻だいち


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【どんなに世の中が変わっても】 ~昔の友人は大切にしたいこだわりである~

2017年01月16日 | 私のルーツ・私の物語
「変わらんなあ、服装が」。

新宿で、実に20年ぶりに再会した旧友の第一声だった。

大学の学部仲間である。

身体についての学問が主であり、私は体育方法学、彼は身体発達学。

その時の同期はデカイやつが多く、「体育山脈」と言われた。

再会した友人も、私よりデカイ。

だから、新宿アルタ前の待ち合わせは、簡単だった。

そういえば、体育会の仲間でもあったな。

私はハンドボール部、彼は躰道(たいどう)部。

躰道って、あの頃もよくわからなかったが未だによくわからない。

興味ある人は、調べてください。




そんな彼は、今はスーツ姿。

あの当時、大企業に就職した。

彼に合わせて都会向けの服装にしたつもりだったが、その姿は彼にとっては昔のまんまの俺だったらしい。

すなわち田舎のアウトドア姿だったんだろうな(笑)。

全く違う世界に進んだ二人が酌み交わす久しぶりの酒。

バカ話ばかりだったが、その酒はことのほか美味しかった。

どんなに世の中が変わっても、昔の友人はイイモノだ。

大切にしたいこだわりのひとつである。



代表 辻だいち

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【あきらめず、しぶとく、強(したたか)かな想い】 ~集落総出のどんど焼き~

2017年01月15日 | 泰阜村のソコヂカラ
今日は集落のどんど焼き。

正月飾りを焼いて、みんなで無病息災を願う。

朝早くから私の居住する集落「田本」の人々が集まってきた。

老人ばかりと思われがちだが、こどもがとても多い集落。

とてもにぎやかなどんど焼きとなった。





私は集落の神社役員。

中学校PTA役員でもある。

どんど焼きを直接担当する役員ではないが、そこはお互い様。

大人は誰いうことなく、焼き肉やイワシを焼いて振る舞う。

大きな火を囲みながらお酒を飲んで、イワシを食べて、焼き肉をつついて。

こどもたちはこどもたちで、こども会の会長(中学生)がジュースやお菓子を振る舞っている(笑)

もちろん書初めを燃やしておおはしゃぎ。

最後は熾(おき)でお餅を焼いて無病息災を祈った。







その後、集落のおっさんたちと2次会。

ずいぶんと飲んだくれた後に、こども会の会場に行って映画を見た。

いや、正確には昼寝した(笑)





集落の老若男女が集まって、持ち寄って支え合っての手作りのどんど焼き。

なんだか豊かな気分になるものである。

小さな山村の集落が営んできた「支え合い」の土台があればこその、このどんど焼きの豊かさだ。

お互い様・支え合いの文化に身をおくことはことのほか心地よい。

集落に住む人々だけではなく、被災地の人々も、全国の人々も、今も戦争に脅かされている人々も、無病息災でありますように。

泰阜村の風土が育んだ、「あきらめず、しぶとく、強(したたか)かな想い」

その想いが、小さな集落の大きな炎に乗って、全国に連なっていく。


代表 辻だいち


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【もうひとつの1月7日】 ~昭和の歴史が終わり、日本海がよみがえる~

2017年01月07日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
1月7日。

七草粥を食べる日だが、若い世代は今は食べるのだろうか。

人日の節句である。

私の世代が知るもうひとつの1月7日は、28年前、1989年のこの日だろう。

昭和の歴史が終わった。

私は当時大学受験真っ最中。

最後の共通1次試験が目前に迫っていた。

折しも今は、平成天皇の即位が議論されている。

数十年後に、今年のことを思いだす人がいるかもしれない。



さて、それから9年後の1997年1月7日。

覚えているだろうか。

福井県三国町の日本海で重油タンカーナホトカ号がひっくりかえり、大量の重油が日本海を汚染したことを。

福井は私の故郷で、三国の海岸はこども時代によく遊びに行った海だ。

小正月に帰省した時に、油だらけの真っ黒な海を見て絶句した。

「日本海が終わった」

そう想うほどに壮絶な状況だった。

荒ぶる真っ白の吹雪と、黒い油膜がうねる荒波のコントラスト。

でも、いつもの冬の荒々しい波ではなく、重々しい波に、涙が出るどころか、この世の終わりとばかりに震えたものだ。

実に、20年前のことである。



ここで活躍したのが全国から集まった青年ボランティアである。

その2年前の1995年が阪神大震災を機にボランティア元年と呼ばれ、間をおかずに勃発した災害に、国民が反応した。

全国から集まった善意が地域住民の不屈の想いと重なり、日本海はよみがえった。

そして私もまた重油を掬いに行ったボランティアの1人である。

もちろん、暮らしの学校「だいだらぼっち」の子どもたちも。

その当時、新聞に紹介された記事を2件、紹介する(毎年紹介しているけれど、まあおつきあいいただきたい (笑))。




1997年(平成9年) 1月22日(水曜日) 中日新聞

福井の重油回収 県内の若い力も支援活動
泰阜のダイダラボッチの小中生 11人、駆け付け奉仕
すくい出しやふき取り


泰阜村田本、通年合宿所ダイダラボッチ(辻英之所長)の子供たち11人(小学生6人、中学生5人)は19、20の両日、ロシア船籍タンカーによる重油流出事故で海岸への漂着被害を受けている福井県坂井郡三国町を訪れ、ボランティアで重油回収作業を手伝った。
 辻所長(26)は福井市の出身。小正月で実家に帰省した際、三国町で重油回収作業に参加し「一人でも多くのボランティアが必要」と感じ、子供たちに福井からファクスで参加を募った。

 合宿所で生活する子供たちの中には、神戸市灘区から来ている小学生もおり「阪神大震災の時のお礼もしたい」と全員が賛同。19日が授業参観で、20日が振り替え休日となっていたことから、19日午後にマイクロバスで三国町に入った。

 日本海は荒天で、回収作業は20日の午前中、2時間ほどしかできなかった。しかし、子供たちは、海岸の石を一つひとつ持ち上げ、すき間にたまった重油をすくい出したほか、石に張り付いた重油をふき取る作業に一生懸命に取り組んだという。

 19日は、辻所長の友人宅に泊めてもらい、現地の人から重油が海や環境へ与える影響など、貴重な話を聞くこともできた。

 辻所長は「わずかな時間しか参加できなかったが、小さなカの積み重ねが大切だということを学んだと思う。日本海が元の姿を取り戻すまではしばらく時間がかかる。また機会を見て、ボランティアに参加したい」と話している。(終)







1997年(平成9年)1月24日(金曜日)  信濃毎日新聞

重油回収 僕らも
泰阜村 山村留学の子供たち参加
福井・三国町で深刻さを実感「また行きたい」



日本海のタンカー重油流出事故で、下伊那郡泰阜村の山村留学施設「グリーンウッド遊学センター」(辻英之所長)の子供たちがこのほど、タンカーの船首部が漂着した福井県三国町で、全国から集まったボランティアに交じって重油回収に協力した。

 ボランティア参加したのは、関東、中京方面から山村留学し、村内の小中学校に通う子どもたち13人。19日に現地入りし、20日の午前中、海岸に打ち寄せた重油の回収を手伝った。

 「チョコレートが溶けたような感じ」(子供たち)で至る所にこびり付く重油を、竹べらやスコップでこそげ取り、石を一つひとつ布でぬぐう。「気の遠くなるような作業だった」と辻さん。神戸市民をはじめ、全国からボランティアが詰めかける中、子供たちは新聞やテレビニュースでは想像もできなかった被害の深刻さと、人々の支援の力を実感した。

 福井市出身で、小学生のころ現場近くの海岸に遠足に出掛けたという辻さん。たまたま帰省していた18日に三国町に立ち寄り、汚染のひどさを見て、センターにファックスを入れた。支援の呼び掛けに、子供たちは即座に参加を決定。阪神大震災で被災し村に来ている小学五年生も、高校受験で横浜市に帰っていた生徒も駆け付けた。

 「またボランティアに行きたい」と子供たちはいう。「元通りのきれいな海に戻すには相当時間がかかるはずだ。助け合いがどんなものなのか、感じ始めた子供たちと、また現地に行きたい」と辻さんも考えている。(終)






いや~若いな(笑)

阪神大震災の時(1995年)、被災児童を暮らしの学校「だいだらぼっち」で3年間預かった。

そのこどもが、1997年の福井重油事故では、先頭に立って重油を掬ってくれた。そそう、私は、神戸のこどもたちにも、ふるさとを助けてもらった一人である。

その恩を、私は一生忘れない。

2011年から今まで、東北のこどもたちを支援することに奔走してきた。

支えられた自分が、今度は東北を支えてきた。

同じことは昨年の熊本地震でも。

あの時、重油をすくった子どもたちは今、30歳を超えた。

そのうちの一人は、この春、結婚する。

もちろん、私も参列するつもりだ。

うれしすぎる。

きっと彼らは今でも、周囲のひとびとを支えているはずだ。

それでいいのだ。



ひとは、傷つけば傷つくほど、ひとにやさしくなれるのだと想う。

苦しめば苦しむほど、悲しめば悲しむほど、ひとを想いやれるのだと想う。

支え合いは、支え愛。

1月7日はいつも、愛を感じる日なのだ。


代表 辻だいち


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【小さな村の成人式】 ~だから一番うれしい日なのだ~

2017年01月03日 | ひとねる=自律のひとづくり
盆暮れ正月が一番忙しい私たち。

そんな私たちが、年末年始で一番うれしい日。

それはわが泰阜村の成人式である。

例年、1月3日。

この村は、山村留学(だいだらぼっち)の卒業生を成人式に呼んでくれる。

こども時代に一度住民票を移し(転校してきて)、一時期村民になったとはいえ、また村から離れた(転校して出ていった)こどもたちだ。

そんなこどもたちを招待してくれる。

本当に素敵な村である。

まさに第二のふるさと。

成人した卒業生に聞いてみると・・・

「大都市の成人式だと、もう知り合いもわからない。そもそも高校なんて、全然違う自治体から通学してきた友人だから、ほとんど逢えないし」

「でも、泰阜だと、友人全員と会える。それがうれしい。村長さんとか来賓もみんな知り合いだし(笑)。ほんと、招かれたって感じ」

村にたった一つの小中学校なら確かにそうだな。

しかも、こどもたちはこの村の宝だ。

みんなで成人を祝うんだよ。

私の息子も、来年成人式だ。

やっぱり、1年といえどもこの村で過ごしたこどもは、宝なのだ。





村の方言で、子どもが「育つ」ことを「ひとなる」という。

人に成る、という格調高き方言だ。

卒業生が成人式から帰ってきた。

村のひとびとにお酒を飲まされたらしく赤ら顔である。

同じく成人を迎えた職場スタッフのこどもも一緒に。

この後、村の友人たちと2次会だそうだ。

素敵な仲間にも恵まれて、素敵な人生の一歩を踏み出して、素敵な大人に成長していく。

だから、一番うれしい日なのだ。


代表 辻だいち

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【もちろん締めは、信州恒例の「万歳三唱」なのだ】

2017年01月01日 | 泰阜村のソコヂカラ
あけましておめでとうございます。

新年は集落の神社で迎えた。

0時になった瞬間からの元旦祭。

氏子総代(神社役員)の私はスーツで司会進行。

祭式の最中に集落の人々が初詣に訪れて、その人々にお神酒をふるまって。

その後、神社役員やら区長やら消防団長やら、コタツを10人で囲んで深夜1時からいきなりの新年会(3時まで)。

しこたま酔っぱらった。



そして夜が明けたら、「第30回新春お年玉マラソン大会」。

30年続く私の集落の恒例行事。集落のひとびと100人以上が集り、おだやかな元旦の時間を走ったり歩いたり。

あちこちから「・・・今年もよろしく・・・」の挨拶が聞こえ、走った後の大宴会も、カラオケあり、抽選会ありで、とっても楽しい元旦になった。

もちろん締めは、信州恒例の「万歳三唱」。

集落に住む20代の若者たちが、4年前からこのイベントを引き継いでくれた。

みんな家でのんびりしたいであろう元旦に、私たちがずっとやり続けてきた行事が、こうやって次の世代に引き継がれていくことはほんとにうれしい。
4年前まではあのステージの上で司会者として絶叫していた自分を想い出し、笑える想い出として、集落のおっさんたちで飲んだ飲んだ♪






国道も信号もコンビニもない山村のひとびとが、少ないながらもそれぞれの資源(時間、労働、情報、食料、お金)を持ち寄って、支えあいながら豊かなコミュニティを創りあげている。

時代を生き抜いた小さな山村のひとびとの営みに敬意を払い、今年も身の丈にあう形で世の中に発信を続けたいと想う。


今年1年、よろしくお願い申し上げます。



代表 辻だいち


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【昔ながらに年末は過ぎていく】 ~南信州の伝統行事「お年とり」の意味~

2016年12月31日 | 泰阜村のソコヂカラ
大晦日。

泰阜村は静かな年の暮れを迎えている。

冬の信州こども山賊キャンプのこどもたちがもちつきをしたりおせち料理をつくるそばで、スタッフや息子たちと注連縄をつくった。

今年山村留学のこどもたちと一緒につくたお米。

収穫の際にできた稲ワラが材料である。

村のおじいまの「魔法の手」には足元にも及ばないが、縄を「なう」一連の作業と、注連縄の際に使う「逆ない」の作業、そして注連縄は3束使うんだってことを連中に教えた。

玄関を飾る大注連縄は、男5人がかりのチカラ作業だった。

出来栄えは、まあ、合格としよう(笑)

正月を迎えるにあたり必要なものは自分たちで創る。

泰阜村は昔ながらに大晦日が過ぎていく。








夕方からは、みんなで伝統行事の「お年とり」。

この地域には、新年を迎えるにあたり伝統文化がまだまだ息づいている。

「年越し」とは言わずに「年とり」という。

したがって「年越しそば」も「年とりそば」。

そしてこの「年とり」こそが伝統文化を色濃く残す行事なのだ。

「年とり」って何?ということだが、その昔とっても貧しかったこの山村で、大晦日の夜だけはなかなか手に入らない尾頭付きの魚を食べて、家族全員でひとつ”年をとった”。

いわゆる数え年の考え方だが、おもしろいのは元旦ではなく大晦日におせち料理を食べてしまって「年をとる」ということ。

今でもこの風習が息づいていて、今日の夕方は村中の家で、一家の大黒柱が「さあ、みんなでひとつ、年をとるぞ」と、尾頭付きの魚を食べることになっているのである。

私もたった今、冬の信州こども山賊冬キャンプのこどもたちとスタッフ家族みんなで、ひとつ年をとった。

こどもたちにかかれば、伝統的な「お年とり」もパーティーになってしまう。

それでいいのだ。






来る年が素敵で幸せな1年となりますように。

皆さん、良い新年をお迎えください。

私は「お年とり」二次会(つまり事実上の新年会)、そしてその後、集落の神社で新年を迎える。

氏子総代なので元旦祭を催す側だ。

ひゃ~寒そう。



代表 辻だいち



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