生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

天国の門

2008-06-04 16:52:55 | 聖書から

祈祷会でキリスト教の教理を続けて学んでいますが、今日は世の終わりと天国についてでした。

世の終わりはあるのでしょうか? 地球温暖化の問題、核戦争の恐怖のある現代において、いつか地球が滅び、人類が絶滅する日が来るのではないかと漠然とした恐れを抱いている人は多いのではないでしょうか。
 聖書には世の終わりはあると書かれています。でも、それがいつなのかわからないといっています。

「しかし、主の日は盗人のようにやってきます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(Ⅱペテロ3:10)」


わたしは、本来非常に憶病なので、初めて「世の終わり」について聞いたとき、恐ろしいとしか思いませんでした。

でも、キリストを信じている者は恐れる必要はないのです。世の終わりには、イエスキリストが再び地上にやってこられる(再臨)とも書かれています。

イエス様がわたしたちを引き揚げて下さるのです。そのときすでに死んでいた者は、よみがえって空中で主と会うことになると聖書(テサロニケ人への手紙4章)に書かれています。

キリストと共に永遠にいられる世界が天国です。天国で神様が「彼らの目の涙をすっかりぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや、過ぎ去ったからである。(黙示21:4)」
わたしは、この聖句にどれだけ慰められたかわかりません。つらくて涙が眼に浮かぶとき、いつかこの涙はぬぐっていただけるんだと思うと、つらさに耐えられるのです。

天国の門は真珠からできていると黙示録に書かれていますが、今日その意味を教えていただいて胸が熱くなりました。

真珠貝は、異物を入れられて、その痛みに耐えながらそれを包みこんで真珠層を形成し、真珠ができあがります。真珠は痛みを通りこしてできたものです。
天国の門を通るとき、通る人の痛みや苦しみ、悲しみなどを真珠の門が吸い取ってしまう。だから、天国に入ったときは、いっさいの苦難がなくなっているのだそうです。 

いま、苦しんでいる人、悲しみに沈んでいる人、苦しみ悲しみのない世界があることを覚えて、希望を持ってくださいね。

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8 コメント

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真珠の門 (yumiko)
2008-06-06 20:31:43
こんにちは。いつも貴ブログに励まされ、学ばせていただいています。

私の教会でも神の御国について学んでいるところです。
今回真珠の門の意味をこちらで知り、とても感動しました。
ただただ美しいという意味ではなかったのですね。

涙のない世界があること、そこに入ることができることを日本人全体が知ることができますように。
yumikoさんへ (文香)
2008-06-06 22:32:17
yumikoさんコメントありがとうございます。

天国の門が真珠であることの意味をわたしも先日初めて知りました。

日本中……世界中の人たちがキリストを信じて、天国に行くことができますように願わずにはいられませんね。
天国の門は真珠ですか (さわちん)
2008-06-08 02:15:28
ニュースを見てると、なんでこんな亡くなり方をしなくてはいけないのか…と思うような犯罪の被害者、あるいは天災で亡くなる方、いらっしゃいますね。
その痛みや苦しみを真珠が吸い取ってくれると知って希望を覚えました。

先日、アッセンブリー教団の宣教師が、フィリピンでの宣教の途中報告をしに、私の通ってる教会にいらっしゃいました。
私はフィリピンのこと、よく知りませんでしたが、富んでる人と貧しい人の差が激しく、人の命を軽んじ、簡単に人の命を奪ったり、罪の多い国だそうです。
今こそ福音が必要だとおっしゃってました。
宣教の成果により、子供達が教会に導かれ、洗礼も受けてると聞きました。
その先生の宣教活動とフィリピンの人達の為にお祈りいただけたら幸です。
さわちんさんへ (文香)
2008-06-08 17:25:55
もし、クリスチャンが悲惨な状況で召されたら、周りの人は大きな悲しみに包まれますね。「神様、どうしてですか?」と恨み事をいう人もいるでしょう。

でも、本人は痛み、苦しみのない天国でイエスさまとともに過ごしていると思うと慰められます。

フィリピンの宣教師の働きのために、フィリピンの方々の救いのためにお祈りします。
お祈り (さわちん)
2008-06-08 22:21:17
ありがとうございます。
人の命は神様に委ねられてますが、身近に人の死があると、「なぜ?この人が?」と疑問に思うことがあります。でもそれが神様の決めたことなら、そう捉える他ないですよね。

今日、ようやく、礼拝で献金を捧げることができました。思いつきで捧げたわけではなく、二日ぐらい前から、「献金を捧げよう」と決意を固めてました。捧げようというか、捧げたいという気持になりました。
今まで、献金を捧げる意味が理解できなくて苦しみました。
感謝の祈りも自分がしたいと二日ぐらい前に申し出て、どういう内容を祈るか考えてましたが、言いたいことの半分も言えなかったかもしれません。
祈りを前もって考えるのは本来のありかたではないんでしょうけど、私の場合、言葉にならない思いがあって、それをどう言葉にしようか、事前に整理しないと、とっさに言葉が出てこないんです
初めての感謝の祈りは、しどろもどろでしたけど、牧師は「一歩前進ですね。」と喜んでました。
さわちんさんへ (文香)
2008-06-09 13:03:50
ハレルヤ! 嬉しい報告ありがとうございます。

さわちんさんが献金を捧げたいという気持ちになられ、また感謝の祈りもされたことを伺って、喜んでいます。

わたしは今でも人の前で祈るときは緊張します。心に示されるまま祈ることもありますが、あらかじめお祈りの言葉を考えていることもあります。

しどろもどろでもかまわないのですよ。さわちんさんの祈りを神様は喜んで下さっていることでしょう。
私も (さわちん)
2008-06-10 00:08:56
感謝の祈りの時は喜びに満たされました。
アブラハムがイサクを捧げようと、まさにほふろうとした時に羊を備えてくださった、という旧約聖書の言葉を引用しました。
神様は私達に必要なものを備えてくださる、そのことを信じ、献金を捧げることを決めました。
さわちんさんへ (文香)
2008-06-10 10:48:53
アーメンです。

「主の山の上には備えがある。」
まさにそのとおりですね。

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