運営委員長の岡野です。ご無沙汰してしまいました。
安倍政権の暴走ぶりとそれをかなり多くの国民が支持しているらしいという報道に、今は何を言っても効果はなさそうだな、とやや発言意欲を失っていましたが、当面の効果を考えず、ともかく言うべきことを言っておくべきだと思い、久しぶりに記事を書くことにしました。
以下は、あくまで私見で、みなさんと議論するための問題提起だと思ってください。
「エコロジカルに持続可能な国づくり」という視点から見て、今のところもっとも成功しているのがスウェーデンであることは国際的評価の一致しているところです。
そして、私はスウェーデンについてかなり多数の文献を学び、1度ですが現地で徹底的聞き取り調査もしてみた結果、それを可能にした思想はスウェーデンの国民性から生まれた成熟した民主主義(社会民主主義あるいは自由派社会主義)とその経済体制としての「混合経済」である、と確認するに到りました。
それに続いて、「なぜ、日本では社会民主主義が育たなかったのだろう?」という疑問が生じたのですが、正村公宏氏の『戦後史(上)(下)』(1985年、筑摩書房、1990年、ちくま文庫)を読んで、「なぜ」のほうは十分ではありませんでしたが、「どうして(どういうプロセスで)」ということ、「なるほど、こういうプロセスで、日本では〔マルクス主義とは重要な点で異なる〕社会民主主義が育たなかったんだなあ」ということは非常な残念感と共に了解できました。
さらに続いて、世界の資本主義と社会主義の歴史について、同氏の『現代史』(1995年、筑摩書房)を読むことで、大きな展望が得られた、という気がしています。
そのまた続きで、同氏の『人間を考える経済学――持続可能な社会をつくる』(2006年、NTT出版)を読んでみました。
「近年、一部の専門家は、『現代文明の発展傾向を放置すると、資源枯渇と環境破壊によって人類が滅亡する。産業主義と商業主義の圧倒的影響力によって、子供の生育環境が変質し、社会の統合力が衰弱しつつある』と警告しているが、大多数の人間が豊かさと便利さの追求に熱中し、政治家も社会の持続可能性(sustainability)を保証する文明への転換を提起しようとしないのは、価値判断が違うからではなく、状況判断が違うからである可能性が濃厚である。」(6頁)
「現代の社会研究と自然研究の究極の実践的目的は、文明の自己認識と自己制御のために必要な知識と知恵を蓄積し、環境破壊、核戦争、人間の指数の劣化と社会の制御不能などによって人類が滅亡してしまわないようにすることである。/文明の自己認識と自己制御という表現は、人類は、特定の状況判断と統合された目的意識にもとづいてひとつの行動を選択する可能性をもつ主体として、扱っている。そして行動の選択は、人類の共同意思を形成する巨大な政治過程を通じて実現される。地球と人類の将来を考え、大きな熱意を持ち、同時に冷静な知性を働かせて、現実を読み解き、多くの人間を納得させる信頼性の高い状況判断を示すように努力することは、社会研究者の責任である。」(7頁)
「経済体制をめぐる専門家の理解は、今でも混迷をつづけている。
世界史における二〇世紀後半を「冷戦(cold war)の時代」と呼ぶのは、軽薄である。朝鮮戦争やヴェトナム戦争のような大戦争が起き、東西対立のからむ深刻な内戦が各地で繰り返されたことを想起する必要がある。二一世紀初頭の世界の多くの紛争は、東西対立の後遺症の要素を含んでいる。旧共産圏諸国の近代化のやりなおしは容易でない。共産党独裁が残した最大の否定的遺産は、政治的粛清による大量の優れた人間の抹殺であろう。
二〇世紀後半の東側の体制は社会主義の理想と違うものであったし、西側の体制は過去の資本主義と違うものであった。一九世紀の民主主義の運動から社会主義が発生し、そこからさらにコミュニズムが発生したが、コミュニズムは、急進主義の落とし穴にはまり込んで民主政治の道を閉ざして二〇世紀の災厄のひとつになった。他方、二〇世紀後半の西洋と北欧では、民主的社会主義によって促進された改革を経て、混合経済(mixed economy)という言葉が妥当する体制が確立された。混合という表現はあいまいに響くが、混合型のシステムでなければ人間と社会の必要に合致しないことが、二〇世紀の経験によって証明された。
経済の自由は、効率性への誘因(incentive)を刺激する基礎条件であると同時に、政治と社会と文化の自由の基盤である。市場機構(市場経済の仕組み、market mechanism)の活用は不可欠である。市場経済に欠陥があるからといって、私有財産制と市場経済を廃棄することは、問題の解決にならないだけでなく、別のタイプの災厄をもたらすことが、すでに鮮明である。
しかし、市場機構は万能でない。市場経済は重大な欠陥を持つ。マクロの目的意識に基づく適切な方法による制御が不可欠である。二〇世紀の経験は、自由放任型の市場経済はかえって自由な社会の基盤を破壊すること、分配の構成と生活の安定を目指す改革こそが経済を安定させると同時に社会の統合を強める効果を持つことを、示している。
混合型の経済体制のほかに選択がありえないからこそ、いいかえればたったひとつの単純明快な原理によってすべての問題を割り切ることは許されないからこそ、現実が提起するさまざまな問題を的確に受け止める鋭敏な感覚、さまざまな制度の組み合わせを絶えず見直す知恵、マクロの主体である政府の政策の有効性を高めるねばりづよい努力が、必要とされる。」(33-34頁)
これらの論点のうち、「大多数の人間が豊かさと便利さの追求に熱中し、政治家も社会の持続可能性(sustainability)を保証する文明への転換を提起しようとしないのは、価値判断が違うからではなく、状況判断が違うからである可能性が濃厚である」という点については残念ながら同意できません。
多くの人・場合に、状況を判断するための情報そのものが価値判断によって選択されているように見えるからです。
地球環境全体の危機について、日本のリーダーと市民の多くが、見たくないことは事実でも見ない、聞きたくないことは事実でも聞かない、という状態にあるのではないでしょうか。
どれほど「冷静な知性を働かせて、現実を読み解き、多くの人間を納得させる信頼性の高い状況判断説得力のある状況判断」を提供しても、それが無視されて読まれなければ、影響を与えることはないようです。はなはだ残念でもありきわめて困ったことですが。
しかし、「コミュニズムは、急進主義の落とし穴にはまり込んで民主政治の道を閉ざして二〇世紀の災厄のひとつになった」が、他方、「市場機構は万能でない。市場経済は重大な欠陥を持つ。マクロの目的意識に基づく適切な方法による制御が不可欠である」、だから「混合型の経済体制のほかに選択がありえない」という点については、全面的に同意しました。
しかし、現在の日本の安倍政権が向かっているのは、新自由主義市場経済のグローバリゼーションという、中長期で見ればうまくいきそうもない路線だ、と私には見えます。
日本に、本格的な社会民主主義・混合経済の潮流が育ち、できるだけ近未来に主流になることを強く願わずにはいられません。
みなさんは、どうお考えですか? 新自由主義市場経済のグローバリゼーションに乗り遅れまいという路線で行けば、それに並行して自動的に、エコロジカルに持続可能な国、そして持続可能な世界が実現できる、と思われますか?
人間を考える経済学 持続可能な社会をつくる | |
クリエーター情報なし | |
NTT出版 |
残念ながら、そうですよね。
でも、いま日本全体は、短期の景気回復のムードに踊っているように見えます。
それに対抗するには、「社会主義」のイメージが悪くなりすぎていて、「社会民主主義」と言っても、日本の市民・庶民には届きそうにありませんね。
会が始まって間もなくからずっと、ムード作り―、空気の醸成―イメージ戦略を考える必要がある、と思っているのですが、まだ名案がありません。
ぜひ、みんなで頭をひねりましょう。
毎日の天気予報をよく聞いているとしばしば「観測が始まって以来の……」という言葉が出てきています。
それから考えると、気候変動は確実に進んでいるようですが、政治家も経済人もメディアも、短期の景気回復の期待で胸がふくらんでいるのでしょうか。環境のことがほとんど、まったくと言っていいくらい語られませんね。
私も、心配です。