原敬首相の字は読みやすい。そういうわけで、筆者にも「原敬日記」がどうにか解読できた。
大正7年10月26日の日記の内容はこうである。
『伊藤伯(博文元総理大臣)の命日だったので、午後に谷中の墓地に赴いた。午後三時の汽車で腰越山荘に向かった。昨夜北里研究所が社団法人となった祝宴に招かれ、話をしたせいか、風邪に罹ってしまい、夜に入り38度5分まで熱が上がってしまった。―(後略)―。』
どうやら、北里研究所の祝宴では、昨今、巷で流行っているスペインインフルエンザの話題が出たと思われ、原首相もまたスペインインフルエンザに罹患したものと推測される。
29日には「―(略)― 風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風とよぶ)なりしが、二日間ばかりにて下熱(ママ)し、…」とすぐ軽快したかのような印象を受けるが、その後しばしば「風邪が治らない」とか、12月15日になっても「風邪全快せず。」と不調を訴え、無理を押して執務していた様子がうかがえる。肺炎を併発したものか。
10月30日には枢密院の会議があったが、流行感冒罹患後1週間も経ていないので天皇陛下の御前に出ることを遠慮、出席しなかったと記されている。
大正7年10月26日の日記の内容はこうである。
『伊藤伯(博文元総理大臣)の命日だったので、午後に谷中の墓地に赴いた。午後三時の汽車で腰越山荘に向かった。昨夜北里研究所が社団法人となった祝宴に招かれ、話をしたせいか、風邪に罹ってしまい、夜に入り38度5分まで熱が上がってしまった。―(後略)―。』
どうやら、北里研究所の祝宴では、昨今、巷で流行っているスペインインフルエンザの話題が出たと思われ、原首相もまたスペインインフルエンザに罹患したものと推測される。
29日には「―(略)― 風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風とよぶ)なりしが、二日間ばかりにて下熱(ママ)し、…」とすぐ軽快したかのような印象を受けるが、その後しばしば「風邪が治らない」とか、12月15日になっても「風邪全快せず。」と不調を訴え、無理を押して執務していた様子がうかがえる。肺炎を併発したものか。
10月30日には枢密院の会議があったが、流行感冒罹患後1週間も経ていないので天皇陛下の御前に出ることを遠慮、出席しなかったと記されている。