ジャーナリストの木村太郎氏が、米国では水原一平賭博事件は大谷翔平問題として受け止められている、と本当のことを言って、随分と叩かれた。
”木村太郎は日本育ちで米国の何がわかる”という口コミが見られるが、氏は米国生まれの米国育ち、大学は慶応だが、海外駐在が長い国際通として知られているではないか。
2016年米国大統領選挙ではドナルド・トランプがヒラリー・クリントンに勝利するだろうと、木村氏は予想し、このときも散々叩かれたという記憶がある。
期待するところと現状の違いを評価できないところが、筆者を含む大方の日本人の弱点なのだろう。
第二次世界大戦に敗れてこの方、いまだにメディアのほとんどが大本営発表を続ける毎日が続いている。
大勢に阿ねる日本型処世術はこれからもかわらないであろう。
その証拠に、政治の世界では、つい先日まで同じことをしていた人間が、同じ立場だった人間の断罪と追い落としにかかっている。
法によってではなく私の決め事とやり方によって。
つくづく、この島は民主主義が根付かぬ土壌でできているとみえる。
大谷翔平は爽やかな青年だ。
野球少年がそのまま成長したような姿は無垢で無邪気すぎるほどだ。
しかし、その彼が置かれた現在の境遇は大変辛いものだ。
有象無象が彼の成功に群がるのは予想できた。
彼ほどのアスリートであれば、彼とチーム大谷には鉄壁の守りが必要だが、生まれ育った地ではない米国では難しかったことだろう。
大谷選手には女子アナとは結婚してほしくない、という外野席の勝手な希望が多かったが、MLBに進出した日本の野球選手が、伴侶として帰国子女や英語に堪能な女子アナを選ぶことが多いのは、慣れない米国での選手生活を安心して送りたいという気持ちが強いからだと思う。
なぜ、一人の通訳が片時も大谷から離れず、米国進出後もつねに寄り添い、同僚選手のようにダグアウトで腕に顎を乗せて並んでいるのか?
なぜ、大谷の持ち物であるはずの高級車を乗り回したりしているのか。
この関係を『固い信頼に結ばれた関係』とほめそやす風潮があり、教科書に取り上げられる予定だったというのだから、驚くではないか。
筆者の目には、この関係は『共依存』として映る。
大谷選手は、水原氏の英語能力、米国生活での経験や知恵、周囲との交渉、ちょっとしたやり取りによって心置きなく自分の野球に没頭できただろうし、水原氏には、”あの大谷選手の通訳”と言うポジション、名声の分け前、そして安定した経済力(足りなかったようだが)が提供されたはずだったが、悪魔に付け込まれる結果となった。
今、大谷選手が求められているのは『精神的自立』ではないだろうか。
彼にとって、多くの誤解を解くためにとりわけ必要なものは、騙されないための言語の習得かも知れない。
残念なことだが、大谷選手は米国で多くの信頼を失った形になっている。ブーイングの嵐の中でバッターボックスに立つのは辛いだろう。
近日中の岸田総理の国賓待遇での訪米後、何らかの動きがあるのではないかと思う。
この先、いかなる試練が大谷選手を待ち受けているか知れないが、彼の生活と活動の場である米国社会に真の意味で溶け込んで、失った理解を取り戻し、アスリートとしての稀有なる才能を発揮してほしいと思う。