昨日の昼前、久しぶりに総社の吉備路風土記の丘を訪れる。
総社は岡山市の隣にある。目的地まで距離20㎞ぐらい、時間にして車で30分程度だろうか。ここには国分寺跡、国分尼寺跡、こうもり塚古墳、吉備路郷土館などがある。かなり整備されて、遊歩道あるいは散歩道として散策するにはすばらしい。
(備中国分寺の五重塔、前景はレンゲの花)
まず、国分寺跡の五重塔へ行く。吉備路の代表的な文化財である。画家の平山郁夫がここを訪れ五重塔を描いたそうだ。描いたその場所に記念碑のようなものが造られている。今、建っているのは江戸時代末期に再建されたものだ。小生が高校生の時、社会研究部にくっついて訪れたことがある。小生は部員ではなかったが、友人に誘われたのだ。引率の先生が歴史を教えていた佐藤米夫先生だった。そのとき、五重塔を上まで昇った。心柱が真ん中に上まで伸びていて、階段を上がった記憶がある。今は、五重塔の中へ入ることはできない。ちょうど近辺の小学生たちが来ていて、少し騒がしかった。初夏が近いので、生徒たちも気だるい感じだ。休憩しているのか、写生しているのか分からない。小生も五重塔の下の岩に座ってコンビニおにぎりを食べて休んだ。
おもむろに散策を始める。緑も多く、小さな田圃にレンゲの花が咲いている。こうもり塚古墳は、長さ100㍍もある前方後円墳だ。黒姫塚とも呼ばれていて、石室が明日香村の石舞台程度の規模があるという。石室に入って進めば、ひんやりして気持ちよい。そこを出て国分尼寺跡へ行く。途中、シトラスの香りがしていた。もう大きな松の木の上で蝉が鳴いている。後で人に聞いたら「はぶせみ」(聞き間違いのようである。「ハルセミ」)と言っていた。国分尼寺跡には大きな礎石しか残っていない。
最後に吉備路郷土館で展示物を見学する。ここでは、いかに吉備地方が古代において文化が発展していたかがわかる。稲作も縄文時代から始まっていたようだ。羽柴秀吉による備中高松城の水攻めの様子を説明したコーナーもある。今ちょうど大河ドラマで「功名が辻」をやっている時なので関心がある。水攻めの戦術は、黒田勘兵の策だそうだ。文献では「高さ7.2m、幅14.4m、長さ3㎞の堤防を一週間で築いた」となっているが誇張されているようだ。客は誰もいなかった。
吉備路風土記の丘。また、訪れたい所である。
総社は岡山市の隣にある。目的地まで距離20㎞ぐらい、時間にして車で30分程度だろうか。ここには国分寺跡、国分尼寺跡、こうもり塚古墳、吉備路郷土館などがある。かなり整備されて、遊歩道あるいは散歩道として散策するにはすばらしい。
(備中国分寺の五重塔、前景はレンゲの花)
まず、国分寺跡の五重塔へ行く。吉備路の代表的な文化財である。画家の平山郁夫がここを訪れ五重塔を描いたそうだ。描いたその場所に記念碑のようなものが造られている。今、建っているのは江戸時代末期に再建されたものだ。小生が高校生の時、社会研究部にくっついて訪れたことがある。小生は部員ではなかったが、友人に誘われたのだ。引率の先生が歴史を教えていた佐藤米夫先生だった。そのとき、五重塔を上まで昇った。心柱が真ん中に上まで伸びていて、階段を上がった記憶がある。今は、五重塔の中へ入ることはできない。ちょうど近辺の小学生たちが来ていて、少し騒がしかった。初夏が近いので、生徒たちも気だるい感じだ。休憩しているのか、写生しているのか分からない。小生も五重塔の下の岩に座ってコンビニおにぎりを食べて休んだ。
おもむろに散策を始める。緑も多く、小さな田圃にレンゲの花が咲いている。こうもり塚古墳は、長さ100㍍もある前方後円墳だ。黒姫塚とも呼ばれていて、石室が明日香村の石舞台程度の規模があるという。石室に入って進めば、ひんやりして気持ちよい。そこを出て国分尼寺跡へ行く。途中、シトラスの香りがしていた。もう大きな松の木の上で蝉が鳴いている。後で人に聞いたら「はぶせみ」(聞き間違いのようである。「ハルセミ」)と言っていた。国分尼寺跡には大きな礎石しか残っていない。
最後に吉備路郷土館で展示物を見学する。ここでは、いかに吉備地方が古代において文化が発展していたかがわかる。稲作も縄文時代から始まっていたようだ。羽柴秀吉による備中高松城の水攻めの様子を説明したコーナーもある。今ちょうど大河ドラマで「功名が辻」をやっている時なので関心がある。水攻めの戦術は、黒田勘兵の策だそうだ。文献では「高さ7.2m、幅14.4m、長さ3㎞の堤防を一週間で築いた」となっているが誇張されているようだ。客は誰もいなかった。
吉備路風土記の丘。また、訪れたい所である。