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読書録「汚名」

2007年05月02日 | Weblog
野里洋著の「汚名 第二十六代沖縄県知事泉守紀」(講談社、1993年)を読む。先日読んだ同著の「癒しの島、沖縄の真実」のなかで触れていた人物「泉守紀(しゅき)」を描くノンフィクションである。
著者は、沖縄戦を前に沖縄を見捨てて逃げ出した卑怯な知事がいたというのを知り、その事実を追求した。昭和18年7月、泉は北海道内政部長の職から沖縄県知事に転任した。ほぼ米軍が沖縄に上陸が予想されていたので、ある程度、死を覚悟しなければならなかったが、赴任前は意欲満万だった。
昭和19年3月、沖縄に第三十二軍が創設された。沖縄本島をはじめ南西諸島の防衛を目的とする大本営直轄の軍である。初代司令官の渡辺中将は沖縄各地で講演し、「軍は沖縄防衛に全力を挙げる。だから住民も軍に協力してもらいたい。そして最後は軍とともに玉砕してほしい」と発言している。軍は国土防衛が目的で、住民を守るのが泉知事らの県当局の仕事であった。
渡辺中将は精神的疲労から病気になり、8月に本土に転任、新司令官は牛島中将となった。参謀長もかわり長勇少将が決定された。夏頃から沖縄に部隊が続々と配備され、風紀の乱れもひどくなった。軍は県当局に「慰安所」をつくるよう申し入れてきた。泉知事はこれを拒否した。「ここは満州や南方ではない。少なくとも皇土の一部である。皇土の中に、そのような施設をつくることはできない。県はこの件については協力できかねる」と。しかし、軍は各警察署に圧力をかけ、つくらせてしまうのだ。
牛島中将は訓示のなかで「防諜に厳に注意すべし」として各部隊に「軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜として処分す」と命令していた。長勇参謀長は県当局に「我々は作戦に従ひ戦をするも、島民は邪魔なるを以って、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒を見ること能はざるを以って、自活すべし」と広言していた。
軍は、住民に玉砕や退去を求めていたのだ。泉知事は、北部に住居や食糧を確保できるあてはないのでこれにも反対した。泉知事は戦争も軍人も嫌いな合理主義者であった。十月十日の沖縄大空襲で県庁舎も知事官舎も焼け、知事は普天間の中頭地方事務所にしばらく移った。泉はこの年の3月から沖縄からの転任工作を親戚や内務省同僚を通じて行っていた。戦争が怖かったこともあったのだが、軍にも反発していたのもその理由だった。泉は12月23日に出張で沖縄を発って二度と沖縄に帰ることはなかった。中央でいろんな会議や協議に出席していたが、昭和20年1月12日、香川県知事への転任の内示があった。内務省が泉を転任させたのは泉知事が軍に妥協しなかったのが理由であったようだ。香川県知事職も4月21日に任を解かれ、戦後は仕事らしい仕事につかなかった。

本土出身の幹部官僚も数多く無断で本土へ逃亡しているし、那覇市長すらそうしている。泉知事は逃亡ではなく、転任だったと著者はみなしたようだ。
沖縄タイムス社の「鉄の暴風」によると「戦場化する任地に、踏み止まることを恐れるかの如く泉知事は、倉皇として、他に転じ・・・」と書かれた。これが発端になって知事逃亡は定説になった。
後任の沖縄県知事島田叡(あきら)と、泉と一緒に沖縄に赴任した荒井警察部長はマブニで殉職した。彼等は島守として顕彰されている。

著者は、戦後40年近く経ってから埼玉の泉守紀宅を探し当て訪れている。泉夫人から話を聞き、体が不自由になった泉守紀にも面談している。でも、汚名については問い質せなかった。泉守紀の日記帳を後日提供されて、泉守紀の当時の繊細な心理状態をこの著書で伝えてくれている。加えて、従軍慰安婦や集団自決問題を考えるうえで情報を提供してくれているように思う。

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1 コメント

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美談の陰に (泉 某)
2011-04-03 13:23:49
歴史には、美談の陰に、悪役をつくるもの、当時ならではの軍部の世論操作があったのは事実。ああいう時代にあって軍部に対立した泉知事、軍部に従わざるを得なかった後任島田知事、怜悧に時代を読みたい。縁者として前者の余りにもの悪評には遺憾、しかも、その悪評も引用の孫引きのものの流布で、講談的。そうした状況のなか、『汚名』に理あり。
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