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読書録「琉球王国と倭寇」

2006年07月27日 | Weblog
ほぼ一週間かけて「琉球王国と倭寇~おもろの語る歴史」(吉成直樹・福寛美著 森話社 2006年)を読む。
琉球王国は倭寇との関係が深かったのではないかという説がある。その根拠は、進貢船が倭寇に襲われた記録がないこと、琉球王尚家の家紋が倭寇の信仰する八幡神の神紋である「左三つ巴」と同じであること、琉球列島各地に倭寇の史跡があることなどであろう。

この著作は、琉球王国を造ったのは倭寇勢力であることを王国の官選古歌謡集「おもろさうし」の分析から裏付けようとしているものである。
「おもろさうし」の第一巻は1531年に編纂され、第二巻以降の編纂は1623年に終了し、全22巻である。12~17世紀に謡われた古歌謡が1554点おさめられ、地方祭祀のおもろと王府祭祀のおもろからなる。第二巻以降の編纂の時期は、1609年の薩摩侵攻の後、王国のアイデンティティ危機のころで王権の充実した始源の姿と王権の正統性を急いで確立しなければならなかった。過去の「伝承された歴史」を一旦解体して「あらまほしき歴史」を再構成した政治的な産物であった。しかしながら、政治的意図があろうとも彼らが自ら信じていることを謡ったのではあるまいか。
その「おもろさうし」に対して歴史復元へのアプローチを試みようとするもの。関連するおもろの「おもろ群」と関連語彙への注目というふたつからアプローチしている。「おもろさうし」のなかには倭寇らしきもののことを謡った「倭寇おもろ」もあるようだ。

倭寇というのは商行為も行う海賊だった。倭人(日本人)ばかりだったのではなく、朝鮮半島系の人々も多く含まれていた。だから、半島文化の色彩をもっていた。半島、壱岐対馬、西九州、奄美、琉球の海上の道にモノや文化が流れたであろう。
1458年に首里城正殿に掛けられた「万国津梁鐘」の銘文に「三韓の秀を鐘め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす・・・」と書かれているが、朝鮮、シナ、日本の順番からして朝鮮との関係の深さを現しているという指摘もある。オボツ・カグラ(天上の世界)信仰は尚真王時代以降になるが、これも半島系の信仰である。
徳之島で11世紀から300年に渡ってつくられたカムィ焼きという高麗系焼き物があるが、これが鹿児島から波照間まで分布しているという。また、長崎の西彼杵半島産の石鍋も倭寇たちが琉球列島各地に運んだのではないのかという。
琉球の神女名の「あれ」というのは、新羅の始祖王をとりまくシャーマンに「アレ」が付く名が多かったので、それと同じ系統ではないかとも。久高島の神歌に「そうるからくだりたる・・」にあるので朝鮮のソウルのことではないか・・・。琉球王国統一前に、中山、北山、南山という三山鼎立時代があったが、それをユーラシア大陸の三機能体系による見方であり、半島から導入されたものではないかと推測する。12世紀に半島で成立した「三国史記」に三機能体系は生きていた。
第一尚氏の初代王・思紹は伊平屋出身、第二尚氏の初代王・金丸は伊是名出身ということからみても、半島からの海上の道の人たちが王国建設に大いに関わったことがいえるかもしれない。
おもろ分析でも今帰仁グスク、首里城、玉城グスクの一体性が色濃いことを多くのページで取り上げている。
この著作、琉球王国と倭寇との関係を詳細に論じた最初の書籍である。もっと精読して整理してみたい。

稲村賢敷著の「琉球諸島における倭寇史跡の研究」(吉川弘文館、1957年)を読んでみたい。

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