ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

奄美とは

2009年04月20日 | Weblog
中学の社会科の授業で地名に読み仮名を書かせるテストがあった。そのなかに「奄美」があった。小生は「おれび」と書いた。教師に呼び出され、「あまみ」だと教えられた。それは数十年前の昔のことだが記憶に残っている。「奄」の音読みは「エン」である。「にわかに」とか、「気がふさがって通じない」という意味があるようだ。「俺」から人偏をとった文字である。奄美の場合は、単なる当て字であろうか。
島尾敏雄の「琉球弧の視点」や島尾ミホの「海辺の生と死」などに接して奄美には関心はあるが、行ってみようと思ったことがなかった。奄美を通り越して沖縄に何度も足を運んだことがあるのだが。今思えば、一度行っておくべきだったなと後悔している。
この数年、谷川健一や吉成直樹の著作を読んで徳之島のカムィヤキや喜界島の城久遺跡のことを知った。奈良・平安朝時代、琉球では三山時代より前のことである。そのころ、奄美には、焼き物の生産拠点や石鍋・中国陶器などの交易拠点があったということがわかってきた。奄美が琉球に影響を及ぼしていたようである。琉球神話の創世神アマミキヨは、もしかして奄美から交易で南下してきた人々のことではないかと思っている。

先月、今年が薩摩の琉球侵略400年ということでネット検索していて見つけたブログで「奄美自立論 四百年の失語を越えて」(喜山荘一著、南方新社)という新刊がでていることを知った。目次をながめて、ぜひ読んでみたいと思って取り寄せた。
与論島生まれの著者はずっと前に「二重の疎外」という概念に気づき、温めていて、数多くの資料を読破してこの著書を執筆したようだ。薩摩による「奄美は琉球ではない。大和でもない」という二重の疎外。著書にはこのフレーズが何度も発せられている。薩摩は琉球を間接支配したが、奄美を直接支配した。奄美からは琉球との関係を示す古文書類は没収された。奄美直接支配については薩摩は徳川幕府にひた隠していたという。大陸からの冊封使が奄美に来島することもあるので大和でない振りもしなければならなかった。苗字は一文字姓にされた。元、竹、中など・・・・。黒糖貢納のため、稲作さえ奪われた。亜熱帯モンスーン気候で稲作ができないのである。奄美島民の根拠すなわちアイデンティティさえ奪われたといっていい。それが失語となってしまう。自己主張しない民になったという。徹底した植民地支配であった。貢納制度もどんどん厳しくなってゆく。
黒糖貢納制度の推移、近代になっての島民の抵抗、戦後の米国支配から本土復帰までの島民の心の揺れ、鹿児島の歴史学者原口虎雄批判など興味深い。参考文献も多数。
書名や著者のマーケティング歴から奄美の経済自立の具体策に少し期待していたが、方向性程度しか述べられていない。観光資源や特産物の掘り起こしまたは創出、それらの情報発信など。主張する奄美になればいいのだろう。アマシンを有効に利用すれば尚更いい。ヤンバルの辺戸岬の近くにある「ヤンバルクイナ展望台」のような施設は無駄になるので止めてもらいたい。あのヤンバルクイナはヨロンケンポウでも見ていたのかな。
薩摩出身の政治家山中貞則は琉球侵略について彼の書物の中で謝罪しているそうだが奄美への謝罪はないという。そういえば、薩摩出身の作家海音寺潮五郎は沖縄で講演したとき、やはり琉球侵略について謝罪したと聞いている。

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1 コメント

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オレビ (喜山)
2009-05-02 09:37:09
海音寺潮五郎のことは知りませんでした。ありがとうございます。

オレビっていいですね。(^^)
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