ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

豚肉が好きである

2009年10月05日 | Weblog
豚肉が好きで、しかも安いので、たいてい冷蔵庫に入れてある。子供のころは豚肉は嫌いだったはずなのに、今では肉の中ではいちばん好きになっている。煮て良し、焼いて良し、炒めて良し。
生姜焼き、焼肉、肉野菜炒め、お好み焼き、天ぷら、餃子、酢豚、シャブシャブ、中華サラダ、シチュー、カレー、肉じゃが、角煮など作ってきた。ラーメンには豚肉モヤシ炒めをのせて食べている。
沖縄では、豚足のテビチ、ソーキ煮、ソーキそば、ミミガー、中身汁なども食ったことがある。こんなに優れた食材はないだろう。

下記は6年以上前に読んだ「豚と沖縄独立」という本の読書録である。

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■2003/03/17 (月) 豚で沖縄を救う
「豚と沖縄独立」:下嶋哲朗、未来社

以前から注目していたノンフィクションであり、やっと読むことができた。琉球新報に戦後50周年特集として連載されたものが元になっている。この作品、豚から見た沖縄であり、戦後の独立か米国従属か本土復帰かについての動きや葛藤についても述べられており、教科書に載っていない沖縄の歴史についても教えてくれる。

沖縄の人々は、戦後直ぐ、学芸と海と豚で独立することを夢見ていた。学芸は教育、海は交易、豚は養豚と農業であろう。それが、冷戦状況、日米講和条約などがあって米国の思惑で翻弄され、本土復帰へと向かって行く。

主役は、布哇(ハワイ)連合沖縄救済会のメンバーたちである。
冒頭は、真珠湾攻撃直前のハワイから始まる。1900年に沖縄からのハワイ移民が始まった。米国がハワイに海軍基地を設置したので、豚肉への需要が高まり、沖縄県人は養豚業で成功している者も多かった。

戦争が始まると日系人はヨーロッパ戦線に送り出された。日系二世の比嘉太郎もそのひとりだった。負傷して九死に一生を得て帰国し、しばらくして沖縄戦に志願した。彼の沖縄レポートの「フールに豚がいない」が、沖縄へ豚を送って救済しようとする発端になった。戦争が始まる前は沖縄に10万頭余りいた豚が、戦争が終わると、1千頭台に減っていたのだ。

豚を買う資金は、ハワイの沖縄県人の寄付によるものだった。550頭の豚を米国西海岸のポートランドの業者から購入し、運搬は米国陸軍の輸送船が無償で行ってくれた。その付き添いにハワイの沖縄県人7人が選ばれたのであった。ポートランドから沖縄まで台風に何度も襲われ、やっと到着するのであった。

その豚が、繁殖し、頭数は数年で戦前の水準までに達した。戦前は、アグーという黒豚であったが、米国から渡ってきた豚は繁殖力の強い白い豚であった。その結果、沖縄の豚は白豚になってしまった。
沖縄住民は、長い間、輸送されてきた豚は米国の支援によるものだと思っていたそうだ。ハワイの沖縄県人の救済運動であることを知らなかった。

最近、沖縄電力が社内ベンチャー事業で豚肉販売を始めることになった。「がんじゅう」という子会社をつくり、「アグー」の血統を半分持つ豚も普及させるそうである。期待できそうだ。
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株式会社がんじゅうのホームページがあった。http://www.benibuta.co.jp/hpgen/HPB/categories/45702.html

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1 コメント

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沖縄に豚を送ろう (島内地人)
2009-10-07 21:00:20
数十年前の沖縄タイムスの連載記事を思い出します。探せば切り抜きしたファイルが押し入れに眠っているはずです。
出版されたのですかね。
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