姜信子著の「追放の高麗人『天然の美』と百年の記憶」(石風社、2002年)を読む。
高麗人(コリョサラム)とは、19世紀中ごろより朝鮮半島から沿海州(ロシア極東)へ流出した朝鮮民族である。朝鮮北部を襲った飢饉や日本進出による植民地化で生き難くなった人々であった。彼らは1937年にスターリンにより沿海州から中央アジアへ強制移住させられた。国境地帯に日本人と見分けにがつかない人々を置いておくことが危険に感じたという理由で。その数、10数万人だった。
著者は、中央アジアのウズベキスタンやカザフスタンで高麗人たちが「故国山川」という歌を歌い継いできているのを知り、高麗人を訪ねる旅に出る。その歌は、日本の「天然の美」という曲のメロディと同じであった。ジンタとかサーカスの歌とも呼ばれるメロディ。「故国山川」は望郷の想いを歌ったものだ。「故国山川」のルーツとともに高麗人の百年の記憶をよみがえらせる。
「天然の美」は1902年に佐世保でつくられた。軍楽隊長の田中穂積が女学校の教材用につくったという。作詞は武島羽衣。佐世保の女生徒にふさわしいリズムとメロディということでワルツ曲だった。その女学校では校歌ができるまで校歌がわりに歌われていた。その歌が中央アジアまで旅して歌詞は異なるが歌い継がれてきたのだ。
(ウズベキスタンの写真家アン・ビクトル氏の作品)
「天然の美」は植民地時代の韓国で唱歌としてよく歌われた。1916年にソウルで発行された「通俗唱歌集」にも収められている。植民地の民は「天然の美」のメロディに詩をつけて様々に歌った。それほどその美しく悲しいメロディは愛された。流浪の朝鮮の人々が沿海州へも持っていった。
著者は、ウズベキスタンの写真家アン・ビクトルに案内されて多くの高麗人に会って「故国山川」を歌ってもらう。高麗人の存在が内外に知られるようになったのはペレストロイカ以降だという。追放の記憶を語るのはタブーだった。朝鮮の言葉を封じられ、ロシア語を話し、ロシア人化してきた。しかしながら、ソ連崩壊後、中央アジアの国は独立し、ウズベキスタンやカザフスタンの民族語が公用語になると、高麗人たちは居づらくなった。今度は、ウラジオストクのあるロシア極東へ戻っていく民族移動が始まったのである。そこには、戦後、サハリンから追放された韓人、北朝鮮からの出稼ぎ朝鮮人、中国東北部から交易にやってくる朝鮮民族がいる。
著者は、八重山石垣島出身の島唄歌手大工哲弘が「天然の美」を歌っていることを知る。大工哲弘は、大日本帝国で生まれた大衆歌謡である「カチーシャの唄」「ゴンドラの唄」「ラッパ節」「満州娘」「籠の鳥」なども歌っている(OKINAWA JINTA というCDアルバム)。それで石垣島へ旅に出てナミイおばあに偶然出会うことになったようだ。
ひとつの歌のメロディを追うことで追放された高麗人の近現代史を描くという優れたノンフィクション作品である。
高麗人(コリョサラム)とは、19世紀中ごろより朝鮮半島から沿海州(ロシア極東)へ流出した朝鮮民族である。朝鮮北部を襲った飢饉や日本進出による植民地化で生き難くなった人々であった。彼らは1937年にスターリンにより沿海州から中央アジアへ強制移住させられた。国境地帯に日本人と見分けにがつかない人々を置いておくことが危険に感じたという理由で。その数、10数万人だった。
著者は、中央アジアのウズベキスタンやカザフスタンで高麗人たちが「故国山川」という歌を歌い継いできているのを知り、高麗人を訪ねる旅に出る。その歌は、日本の「天然の美」という曲のメロディと同じであった。ジンタとかサーカスの歌とも呼ばれるメロディ。「故国山川」は望郷の想いを歌ったものだ。「故国山川」のルーツとともに高麗人の百年の記憶をよみがえらせる。
「天然の美」は1902年に佐世保でつくられた。軍楽隊長の田中穂積が女学校の教材用につくったという。作詞は武島羽衣。佐世保の女生徒にふさわしいリズムとメロディということでワルツ曲だった。その女学校では校歌ができるまで校歌がわりに歌われていた。その歌が中央アジアまで旅して歌詞は異なるが歌い継がれてきたのだ。
(ウズベキスタンの写真家アン・ビクトル氏の作品)
「天然の美」は植民地時代の韓国で唱歌としてよく歌われた。1916年にソウルで発行された「通俗唱歌集」にも収められている。植民地の民は「天然の美」のメロディに詩をつけて様々に歌った。それほどその美しく悲しいメロディは愛された。流浪の朝鮮の人々が沿海州へも持っていった。
著者は、ウズベキスタンの写真家アン・ビクトルに案内されて多くの高麗人に会って「故国山川」を歌ってもらう。高麗人の存在が内外に知られるようになったのはペレストロイカ以降だという。追放の記憶を語るのはタブーだった。朝鮮の言葉を封じられ、ロシア語を話し、ロシア人化してきた。しかしながら、ソ連崩壊後、中央アジアの国は独立し、ウズベキスタンやカザフスタンの民族語が公用語になると、高麗人たちは居づらくなった。今度は、ウラジオストクのあるロシア極東へ戻っていく民族移動が始まったのである。そこには、戦後、サハリンから追放された韓人、北朝鮮からの出稼ぎ朝鮮人、中国東北部から交易にやってくる朝鮮民族がいる。
著者は、八重山石垣島出身の島唄歌手大工哲弘が「天然の美」を歌っていることを知る。大工哲弘は、大日本帝国で生まれた大衆歌謡である「カチーシャの唄」「ゴンドラの唄」「ラッパ節」「満州娘」「籠の鳥」なども歌っている(OKINAWA JINTA というCDアルバム)。それで石垣島へ旅に出てナミイおばあに偶然出会うことになったようだ。
ひとつの歌のメロディを追うことで追放された高麗人の近現代史を描くという優れたノンフィクション作品である。
天然の美が、故郷を偲ぶ歌として、
在露朝鮮民族に歌われていたことを
知りました。
それで、サイトを検索していて、
こちらに出会いました。
現在、私は在韓日本人として、
忠清南道に住んでおりまして、
韓国文化の研究を目指しております。
貴重なリポートありがとうございました。
コメントありがとうごさいます。
小生、若い頃、古代日朝関係史に関心を持ち、
下関からフェリーでプサンに渡り、1週間ほど韓国を旅したことがあります。主に遺跡めぐりをしました。
一人旅だったのでハングルが発音できる程度に学習してました。表音文字ですから。
韓国、あまり住み安そうなところではなかったです。
植民地政策で住み難くなり、他へ追い出された人々がいたことは知っておくべきでしょう。