ある旅人の〇〇な日々

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宮沢賢治は営業マンだった

2010年05月13日 | Weblog
昨夜のNHKテレビ番組の歴史秘話ヒストリア「雨にも負けぬサラリーマン~宮沢賢治 最期の2年半~」というのをみた。宮沢賢治については「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ・・・」という詩や「注文の多い料理店」などの童話ぐらいしか知らず、どういう人生だったのかはあまり関心がなかった。
この番組では、宮沢賢治が肥料販売の営業マンをしていたことを教えてくれた。砕石工場の経営者が、宮沢賢治が農林高校の教師をしていたことがあり、土壌や地質について詳しいという情報を得て、彼を営業マンとしてスカウトしたのである。商品は酸性土壌を中和する肥料の石灰である。
彼は営業マンとしていろいろ販促を考える。経営学など勉強してないはずだが大したものだ。1日170通のダイレクトメールを書き、キャッチコピーとして「炭酸石灰」を考え、岩手県庁から肥料の効果があるというお墨付きまでもらう。そうしてから、各地で営業活動を行うのである。彼の努力で一定の業績が得られた。しかし、売上も頭打ちとなり、建材として壁材料を開発する。これを40㎏もトランクに入れて東京に出張するのであるが、肺結核を発症して倒れてしまう。病に負けたのである。農家と工場の労働者のために尽くしたのである。

彼は、割と裕福な質屋を営む家庭に長男として生まれている。農林高校を卒業させてもらったが、質屋が貧しい農家を食い物にしているのを見て育ったので、後継ぎは拒絶して東京へ出た。謄写版工として働き、童話作家にもなったが芽が出なかった。岩手に帰り、農林高校の教師になったが数年で辞めてしまい、農業を自ら始めてリヤカーに収穫物を載せて売り歩いた。農業をする中で、農業指導も行った。そして息抜きでレコードでクラシックを聴いていたそうだ。

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