Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

クリスチャン復活! Ⅰ コリント 15:3-8

2009年04月12日 | Celebration
HAPPY RESURRECTION

 クリスチャンのシンボルと言えば『十字架』ですが、十字架と復活は、福音の表と裏、2つで1つです。ところが、多くの教会が十字架の「死」について8割、復活の「命」については2割も語りません。何故でしょうか?死者の復活は、教理や理屈を遥かに超え、私たちの類推を完全に超越した出来事だからです。一般の人にとってキリスト教は、仏教やイスラム教など数ある宗教の内の1つに過ぎないでしょう。しかし、パウロが「復活がなければ、あなた方の信仰も宣教も無駄です」(Ⅰコリント15:14)と、実に明確に語っているように、この「復活」こそが、福音が他の宗教とは全く異なる点であり、2千年前の弟子たちは、イエス様の復活の出来事を人々に伝えていたのです。

 ルカの福音書に『エマオの途上』という話しが登場します。これはちょうど復活の日に、二人の弟子がイエス様に関する一連の出来事を話し合いながら歩いている時に、イエス様が彼らに近付いて話しかけられたにも関わらず、最初この弟子達は、その人がイエス様だと分らなかったという話しです。(24:13-35)また、復活されたイエス様が、一番最初に会った人はマグダラのマリヤでした。何故、イエス様はマリヤに最初にお会いになられたのでしょうか? それは、マリヤが一番イエス様と会いたがっていた人だったからです。いや、マリヤはイエス様以外に自分の居場所がなかった人でした。だから、誰よりも早くイエス様のお墓に来て一人で泣いていたのです。イエス様は復活されて、大勢の人たちと会われましたが、その時にイエス様と会わなかった人もいました。言い方を変えると、それがイエス様だと分かった人と、分からなかった人がいたのです。しかし、イエス様に会いたいと願っている人には、必ずイエス様の方から会いに来てくださいます。

 ヨハネの20章を見ますと、「見る」と言う言葉が、マリヤ、ペテロ、ヨハネの行動それぞれに出てきます。日本語では「見る」と言う同じ言葉が使われていますが、原語では、この3つの「見る」の意味はそれぞれ異なります。
マリヤが墓石が取りのけてあるのを見た。単に見たという意味。(20:1)
ペテロが亜麻布が置いてあるのを見た。注意して見たという意味。(20:6)
ヨハネが入って来て、見て、信じた。見て理解したという意味。(20:8)

 確かに死人がよみがえるなどと言うことは、今でも2千年前でもあり得ないことです。しかし、聖書にはこのあり得ない復活の出来事が、実に淡々と書かれています。聖書と自分の考えとどちらに信頼を置くべきなのか。どちらに信憑性があるのか。よく考えてみてください。私たちは、この復活の出来事を「よく見て、よく考え、そして信じる」ことが大切です。

 弟子たちはイエス様がローマ軍に囚われると震え上がって逃げだし、部屋に鍵をかけて隠れていました。ところが、この弟子達が殉教をも恐れない勇者に変えられてしまいました。いったい何が彼らを変えたのでしょうか? 彼らは自分が180度変えられる事件に遭遇してしまったのです。その事件こそイエス様の復活です。イエス様は十字架に架かられ、死んで3日後によみがえられ、天に昇り、神の右の座に着かれ、神の栄光が現われたその時、聖霊様が私たち一人一人の上に降ってくださいました。イエス様を信じることとイエス様と出会うということは違います。今の私たちにとって、イエス様と出会うということは、聖霊のバプテスマを受けることを意味しています。

 昨年のイースターは『イエス復活!』と言うタイトルでした。実は今日のメッセージはその続きなのです。まだこの後に実に大切なことが残されています。イエス様はクリスチャン復活の初穂となられました。(Ⅰコリント15:20)イエス様の復活によって、私たちが復活することが証明されたのです。このクリスチャンの復活を、日本語では携挙(Rapture)と言います。その時期については、私たちは知ることが出来ませんが、クリスチャンはその時期を悟り、準備しておくように通達されています。(マタイ24:32-33)

 実際にAD70年、エルサレムがローマ軍によって包囲された時、イエス様の言葉を知っていたクリスチャンたちは、オリーブ山に逃げて壊滅から免れることが出来ました。(マタイ24:15-16) このマタイ24章は、イエス様が終末の預言をされておられる箇所ですが、それは、偽預言者の登場→戦争や民族紛争→世界的飢饉と地震→不法の蔓延と愛の欠如→世界的福音宣教→天地異変→再臨。この順序で起こることが分ります。そして、再臨の印として最も注目すべき点の一つは、31節に記されている『ラッパ』です。

大きなラッパ (マタイ24:31)
最後のラッパ (Ⅰコリント15:22)
神のラッパ (Ⅰテサロニケ4:16)
第七のラッパ (黙示録11:15)

 このラッパの音を合図にイエス様は再臨なさいます。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方(黙示録1:4,4:8)」から、「今おられ、かつておられた方(黙示録11:17)」へ、つまり、この段階で、やがて来られる方が遂に来られるのです。黙示録には7つの封印、7つのラッパ、7つの鉢が登場しますが、再臨(携挙)は、第7の封印が開けられ、6つ目のラッパの後に起こります。このことは、実に多くの教会が理解出来ずにいることですが、私たちはしっかりと聖書を読んで、人の意見でもなく、自分の感情でもなく、聖書が何と言っているのかを、聖霊によってしっかりと把握しなければなりません。終わりの時が近付いています。イエス様が再臨される時、私たちクリスチャンもイエス様と共に天に挙げられます。信じられないことかも知れませんが、このことは必ず起こります。どうぞ信じてください。マナラタ、主よ来たりませ!! (Ako)


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