人は怒る。世の中の矛盾に、理不尽な境遇に、受け入れ難い相手に、そして神様に対してすら。「神様の仰ることはわかる。『赦しなさい』は確かにそう思う。でも、それができないから悩んでいるのダ!!」---このような思いは日常茶飯事だが、そんな自分の思いを放置してはいないだろうか。今日は日曜学校でもお馴染みのヨナ書から、『怒り』の感情と、そこからの脱却方法について御言葉をいただいた。
ヨナは厚い信仰心を持ちつつも、神様からの命令を理不尽と考え、背いて逃げ出したため、海に投げ込まれて大きな魚に呑まれる窮地に陥り、必死の祈りによって神様に救い出され、仕方なく嫌々ながらも敵地へ赴いて神様の言葉を語ったところ、驚くことに敵国異邦人は皆悔い改めてしまった。イスラエルの民にとって極悪非道の仇敵が神様に祈り求めた結果、救われた。そこで、ヨナはキレた。
その怒りは、ヨナの正義感。当時、周辺諸国を力で屈服させ、その残虐さで知られアッシリア帝国は、イスラエルの民にとっても天敵だった。神を畏れず、その民であるイスラエル人を殺し、罰せられて当然の敵国を神様が認め、何のお咎めもなしに赦された。自分は、たったひとつの命令をちょっと無視しただけで、魚に喰われて命を失ったも同然だったのに、これでは正しく生きている人の労苦は報われないではないか!!
このアイロニーは現代の私たちの周囲にもある。神を知り、神に従うはずのクリスチャンが神に背き、神の何たるかを知らない人々が御心に添う生き方を見せる。その時私たちは、何に対して怒るのかを冷静に考えてみよう。神様?否、どれだけ私たちが不公平を感じようと神様は完全に公平な方だ。御心に添う人々?良いことに導かれている人々に怒る正当な理由があるはずない。しかし、私たちは怒る。それは、従いたいのに、従うべきと知っているのに、それでも従えない自分自身に対して、怒りを覚えるのだ。
聖書では、怒りそのものを罪とはしない。しかし、怒りにきちんと対処しないと罪を犯すことがある。自分への怒りということは、自らの内面に抱える問題に向かい合っているということだ。その問題に取り組む、解決を求める時、神様は実に忍耐強く、そして愛を持って私たちを守ってくださる。ヨナにトウゴマの木を与えたように。だから、私たちは愛と赦しによって怒りを乗り越え、それを成長の糧とすることができる。
「怒りからの脱却法」として、誰もが内に潜めている問題を解決する手放すものを教えてもらう。
私たちは、神様から選ばれた!というプライドがある。しかし、その目的を間違えてはならない。間違ったプライドは高慢にしか成らない。選ばれた理由は、全世界の人々が救われるために、だ。ヨナはニネヴェの人々の救いのために遣わされた。私たちも同じだ、いかなる自らの怒りの際にも。
私たちは「しるし」を求める。あれがあれば、こうであれば、と自分だけの条件で自分を縛っている。しかし、それは神様の価値観、神様のヴィジョンとは、専ら異なっている。神様の恵みは十分なはずだ。必要なのは、自分の思いによる怒りではなく、ただ従うことだけ。何ら特別な能力は必要ない。
私たちの正義は自分の正義だ。聖書にあるのは、神様の正義。絶対の善に導く神様の御言葉によって、私たちの独善性、排他性から解放を得る。自分の理解にしがみつくことなく、頑なな思いを捨てること。真理は私たちを自由にするのだ。
愛する者のために祝福を祈ることは誰にでもできる。敵のために祈ること、これがイエス様の掟。神様は、私の敵をも愛していらっしゃる。その人にも神様の恵みが注がれ、救いが望まれている。そんな神様の愛を共有することで、私たちは平和の内に共存できるのだ。
神様の切々たる思いで終えられるヨナ書は、神様の愛の前の人間の正義を考えさせられる。人智を超えた神様の愛と義の内にある私たちには、我を捨てて従うことがその愛への応えだと。私たちもヨナのように、「死んだ方がましだ」という怒りや失望に陥ることがある。しかし、神様はそれをすべてご覧になっており、この世界の罪深さをご存知の上で、私たちに伝えてくださる。「われこれを惜しまざらんや」と。その思いを共有するために。
ヨナは厚い信仰心を持ちつつも、神様からの命令を理不尽と考え、背いて逃げ出したため、海に投げ込まれて大きな魚に呑まれる窮地に陥り、必死の祈りによって神様に救い出され、仕方なく嫌々ながらも敵地へ赴いて神様の言葉を語ったところ、驚くことに敵国異邦人は皆悔い改めてしまった。イスラエルの民にとって極悪非道の仇敵が神様に祈り求めた結果、救われた。そこで、ヨナはキレた。
その怒りは、ヨナの正義感。当時、周辺諸国を力で屈服させ、その残虐さで知られアッシリア帝国は、イスラエルの民にとっても天敵だった。神を畏れず、その民であるイスラエル人を殺し、罰せられて当然の敵国を神様が認め、何のお咎めもなしに赦された。自分は、たったひとつの命令をちょっと無視しただけで、魚に喰われて命を失ったも同然だったのに、これでは正しく生きている人の労苦は報われないではないか!!
このアイロニーは現代の私たちの周囲にもある。神を知り、神に従うはずのクリスチャンが神に背き、神の何たるかを知らない人々が御心に添う生き方を見せる。その時私たちは、何に対して怒るのかを冷静に考えてみよう。神様?否、どれだけ私たちが不公平を感じようと神様は完全に公平な方だ。御心に添う人々?良いことに導かれている人々に怒る正当な理由があるはずない。しかし、私たちは怒る。それは、従いたいのに、従うべきと知っているのに、それでも従えない自分自身に対して、怒りを覚えるのだ。
聖書では、怒りそのものを罪とはしない。しかし、怒りにきちんと対処しないと罪を犯すことがある。自分への怒りということは、自らの内面に抱える問題に向かい合っているということだ。その問題に取り組む、解決を求める時、神様は実に忍耐強く、そして愛を持って私たちを守ってくださる。ヨナにトウゴマの木を与えたように。だから、私たちは愛と赦しによって怒りを乗り越え、それを成長の糧とすることができる。
「怒りからの脱却法」として、誰もが内に潜めている問題を解決する手放すものを教えてもらう。
私たちは、神様から選ばれた!というプライドがある。しかし、その目的を間違えてはならない。間違ったプライドは高慢にしか成らない。選ばれた理由は、全世界の人々が救われるために、だ。ヨナはニネヴェの人々の救いのために遣わされた。私たちも同じだ、いかなる自らの怒りの際にも。
私たちは「しるし」を求める。あれがあれば、こうであれば、と自分だけの条件で自分を縛っている。しかし、それは神様の価値観、神様のヴィジョンとは、専ら異なっている。神様の恵みは十分なはずだ。必要なのは、自分の思いによる怒りではなく、ただ従うことだけ。何ら特別な能力は必要ない。
私たちの正義は自分の正義だ。聖書にあるのは、神様の正義。絶対の善に導く神様の御言葉によって、私たちの独善性、排他性から解放を得る。自分の理解にしがみつくことなく、頑なな思いを捨てること。真理は私たちを自由にするのだ。
愛する者のために祝福を祈ることは誰にでもできる。敵のために祈ること、これがイエス様の掟。神様は、私の敵をも愛していらっしゃる。その人にも神様の恵みが注がれ、救いが望まれている。そんな神様の愛を共有することで、私たちは平和の内に共存できるのだ。
神様の切々たる思いで終えられるヨナ書は、神様の愛の前の人間の正義を考えさせられる。人智を超えた神様の愛と義の内にある私たちには、我を捨てて従うことがその愛への応えだと。私たちもヨナのように、「死んだ方がましだ」という怒りや失望に陥ることがある。しかし、神様はそれをすべてご覧になっており、この世界の罪深さをご存知の上で、私たちに伝えてくださる。「われこれを惜しまざらんや」と。その思いを共有するために。