Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

怒る人々 ヨナ4:2-11

2008年04月27日 | Celebration
 人は怒る。世の中の矛盾に、理不尽な境遇に、受け入れ難い相手に、そして神様に対してすら。「神様の仰ることはわかる。『赦しなさい』は確かにそう思う。でも、それができないから悩んでいるのダ!!」---このような思いは日常茶飯事だが、そんな自分の思いを放置してはいないだろうか。今日は日曜学校でもお馴染みのヨナ書から、『怒り』の感情と、そこからの脱却方法について御言葉をいただいた。

 ヨナは厚い信仰心を持ちつつも、神様からの命令を理不尽と考え、背いて逃げ出したため、海に投げ込まれて大きな魚に呑まれる窮地に陥り、必死の祈りによって神様に救い出され、仕方なく嫌々ながらも敵地へ赴いて神様の言葉を語ったところ、驚くことに敵国異邦人は皆悔い改めてしまった。イスラエルの民にとって極悪非道の仇敵が神様に祈り求めた結果、救われた。そこで、ヨナはキレた。

 その怒りは、ヨナの正義感。当時、周辺諸国を力で屈服させ、その残虐さで知られアッシリア帝国は、イスラエルの民にとっても天敵だった。神を畏れず、その民であるイスラエル人を殺し、罰せられて当然の敵国を神様が認め、何のお咎めもなしに赦された。自分は、たったひとつの命令をちょっと無視しただけで、魚に喰われて命を失ったも同然だったのに、これでは正しく生きている人の労苦は報われないではないか!!

 このアイロニーは現代の私たちの周囲にもある。神を知り、神に従うはずのクリスチャンが神に背き、神の何たるかを知らない人々が御心に添う生き方を見せる。その時私たちは、何に対して怒るのかを冷静に考えてみよう。神様?否、どれだけ私たちが不公平を感じようと神様は完全に公平な方だ。御心に添う人々?良いことに導かれている人々に怒る正当な理由があるはずない。しかし、私たちは怒る。それは、従いたいのに、従うべきと知っているのに、それでも従えない自分自身に対して、怒りを覚えるのだ。

 聖書では、怒りそのものを罪とはしない。しかし、怒りにきちんと対処しないと罪を犯すことがある。自分への怒りということは、自らの内面に抱える問題に向かい合っているということだ。その問題に取り組む、解決を求める時、神様は実に忍耐強く、そして愛を持って私たちを守ってくださる。ヨナにトウゴマの木を与えたように。だから、私たちは愛と赦しによって怒りを乗り越え、それを成長の糧とすることができる。

 「怒りからの脱却法」として、誰もが内に潜めている問題を解決する手放すものを教えてもらう。

 私たちは、神様から選ばれた!というプライドがある。しかし、その目的を間違えてはならない。間違ったプライドは高慢にしか成らない。選ばれた理由は、全世界の人々が救われるために、だ。ヨナはニネヴェの人々の救いのために遣わされた。私たちも同じだ、いかなる自らの怒りの際にも。

 私たちは「しるし」を求める。あれがあれば、こうであれば、と自分だけの条件で自分を縛っている。しかし、それは神様の価値観、神様のヴィジョンとは、専ら異なっている。神様の恵みは十分なはずだ。必要なのは、自分の思いによる怒りではなく、ただ従うことだけ。何ら特別な能力は必要ない。

 私たちの正義は自分の正義だ。聖書にあるのは、神様の正義。絶対の善に導く神様の御言葉によって、私たちの独善性、排他性から解放を得る。自分の理解にしがみつくことなく、頑なな思いを捨てること。真理は私たちを自由にするのだ。

 愛する者のために祝福を祈ることは誰にでもできる。敵のために祈ること、これがイエス様の掟。神様は、私の敵をも愛していらっしゃる。その人にも神様の恵みが注がれ、救いが望まれている。そんな神様の愛を共有することで、私たちは平和の内に共存できるのだ。

 神様の切々たる思いで終えられるヨナ書は、神様の愛の前の人間の正義を考えさせられる。人智を超えた神様の愛と義の内にある私たちには、我を捨てて従うことがその愛への応えだと。私たちもヨナのように、「死んだ方がましだ」という怒りや失望に陥ることがある。しかし、神様はそれをすべてご覧になっており、この世界の罪深さをご存知の上で、私たちに伝えてくださる。「われこれを惜しまざらんや」と。その思いを共有するために。

飾りを取り去りなさい 出エジプト33:1-6

2008年04月13日 | Celebration
今回の聖書箇所は、出エジプト記最大の試練。これが起きたのは、神様がモーセに十戒を与えられた直後、つまり神様との良い関係が築けたや否やのこと。神様に仕えて40日という長い間、山へ登ったまま音沙汰がなく、力強く導いてきたリーダーの不在に従ってきた民の心は揺らいだ。そして民は、自らが身に着けていたアクセサリーを使って金の子牛の像を造り上げ、神様ではなく、その物言わぬ偶像に心を委ねた。当然、神の怒りが注がれる。モーセの必死の取り成しに対して、神様は悔い改めを望まれ、仰った。『直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、わたしはあなたをどのようにするか考えよう。』と。

 装飾品に対する人の嗜好性はいろいろだが、それは物質的なものだけのことではない。それは自分を実際の姿以上に良く見せようとするための飾り。それが意識的にしろ、無意識にしろ、地位や名誉、お金、学歴、経歴などなど。飾りがダメだということではない。お金も学歴も、自分の人生を潤していくことは決して悪いことではない。ただ、立場の逆転を見ることがしばしばある。つまり、人生のための飾り物ではなく、飾り物のための人生になってしまうということだ。それは空しさの極致、虚像に生きることに他ならない。

 家族のために家を買う。その目的は家で家族の団欒を持つため、絆を深めるためのはずなのに、いつの間にか、「家族」と言う中身をないがしろにして、ただの物体にしか過ぎない「家」を中心に人生を過ごしてしまう。周囲には、そんな本末転倒な人生を過ごす人が決して少なくないが、本日の聖書箇所を読む時、そこに「神様は共にいない」という恐ろしいことが語られていることを知る。

 飾りを取り去る。逆転の人生を正す。なかなかできないこれらをできるために、4つの知恵を教えていただいた。

知恵①
自分自身の問題に気付くこと。問題は誰にでもある。問題があることは当たり前のことで、問題があることは問題ではない。問題を問題と認めないことが問題なのだ。自分の抱える問題が何かを知れば、もう八割解決したも同然。教会には様々な人がいる。私たちは専ら自分と同じ価値観の人としか付き合わないが、教会ではそうはいかない。だからこそ、自分の問題に気付くことができる。そして更に、問題を分かち合い、共に解決に向けて祈る仲間が教会にはいるのだ。

知恵②
この世界にある目に見えるものは、いつかは無くなる。ほんとうに大切な、永遠に存続するものは目に見えないものなのだ。友情しかり、愛情しかり。また、自分のために努力して得た財産も名声も地位も、すべては死と共に消え失せる。しかし、神様との関係、そして人との関係は永遠の御国へと続いていく。

知恵③
生きるには、体の栄養と共に心の栄養が必要。自分ひとりの体がOKなら全てOKなのではない。人間科学での心の栄養素のことを「ストローク」と表現するが、その最たる極上の栄養は、神様からの「無条件の愛」。神様は人間のために万全の環境を整え、絶えず私たちに愛を注ぎ続けてくださっている。神様の愛から私たちを引き離すことができるものは、何もない。

知恵④
そんなごく当たり前だと思い込んでいる幸せ、神様からの恵みに気付いているだろうか。私たち一人一人は、全員神様の無条件の愛で包まれて生きている。そんな素晴らしい愛を受ける対象なのだ。何故?神様が仰るから。「私の目に、あなたは高価で尊い」と。そして、私たちはその愛を確かに知った時、神様の大いなる栄光をこの小さな体にも現すことができるのだ。

 星野富弘さんのことを聞いた。彼は24歳の若さで、頸髄損傷して四肢の自由を失った。一般的に考えれば、絶望のどん底。自分ことかと考えると、死ぬこともできず、ただ横たわっているだけの長い人生に、どんな意味を見出すことができるだろうか。だが彼はそこで、母の献身と何物にも代えられない神様の愛を知った。そして彼は言葉を詰まらせながら、心の奥底からの神様への感謝と賛美を捧げる。神様は、人間の力では決して為しえない希望を見せてくださる。その希望を見つめて、キリスト者は生きることができるのだ。神様からいただいた真のいのちを。

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主が共におられる エレミヤ29:10-14

2008年04月06日 | Celebration

あなたの人生の目的は何ですか?」と、尋ねられたら、あなたは何とお答えになりますか?その目的を明確に知るために、私たちは以下の4つの問いかけをしてみましょう。

 1) 自分への問いかけ
 2) 時間への問いかけ
 3) 社会への問いかけ
 4) 神様への問いかけ

自分への問いかけ
 自分を知るということは、とても大切なことです。「自分は何が本当にしたいのだろう?」 「自分の本音はどこにあるのだろう??」 日々の生活の忙しさの中で、私たちは、自分の役割をこなすことで精一杯になり、自分のことがわからなくなるときさえあります。その時、ちょっと立ち止まり、自分に問いかけてみましょう。

 一般的に、私たちが願っている幸せとは、①健康であること ②経済的に安定していること ③家庭円満であること この三つが上げられるでしょう。どこかで聞いたことがありませんか? 神社のお守りや祈願にある、「無病息災」、「商売繁盛」、「家内安全」。私たち日本人は、いつもこの三つのことを願って生きています。

 では、この三つが全て満たされたら、私たちは幸せになれるのでしょうか? コヘレトの言葉(伝道の書)を書いたと言われるソロモン王は、イスラエルの王国が最も繁栄した時の王様でした。彼は、当時の最高権力者であり、大金持ちで、頭もよく、奥さんと側女が何と1000人もいました。彼にとってこの世で手に入らなかった物は、何一つありませんでした。しかし、そのソロモン王は、「あぁ、私は何て幸せなのだろう!」とは言いませんでした。彼は、「空(くう)の空、この世の一切は空なのだ。」と、言ったのです。人生の目的は、一般に言われている名声やお金などの「幸せの条件」を満たすことでは決してないのです。

時間への問いかけ
 「今までの人生の中で、自分が最も時間を費やしたこと」それが、私たちの人生で一番大切にしているもの、最優先にしているものであると言えます。一日一時間、毎日、何かを必ずしている人は、一年の半月をそのことに費やしている計算になります。例えば、毎日一時間テレビを見ている人は、半月間ずっとテレビを見ていることになります。そう考えると、塵も積もれば山となると言う言葉に実感がわきます。

 私たちは、一日、24時間が与えられていますが、自分が自由に使える時間は、ごく限られています。人間は、通常8時間、睡眠に費やし、8時間を仕事に費やしています。そして残りの8時間の約半分は、買い物をしたり、食事をしたり、トイレに行ったり、お風呂に入ったり、通勤等に費やされています。つまり、私たちが本当に自分のために使える時間は、一日たったの4時間、一年の約2ヶ月分なのです。私たちの人生は、この4時間をどう使うかによって決まると言っても決して過言ではありません。私たちは常に正しい人生の優先順位を心掛けなければなりません!!

① 緊急かつ重要なこと(例えば、税金の申告など)
② 緊急だけれど重要でないこと(例えば、鳴っている電話に出ること、でも、
  間違い電話かもしれません)
③ 緊急ではないけれど重要なこと(例えば、聖書を読むこと、エクササイズを
  することなど)
④ 緊急でもなければ重要でもないこと(例えば、コンピューターゲーム、取り留めのない長電話など)

 私たちが、日々生活の中で行動していることは全て、以上の4つに分けることが出来ます。私たちは通常、この順序で優先順位を決めていると思っていますが、現実は、「緊急でもなければ重要でもないこと」に最も時間を費やしてしまっていることが多々あります。実は、私たちが最優先にしなければならないことは、「緊急かつ重要なこと」ではないのです。

① 緊急ではないけど重要なこと
② 緊急かつ重要なこと
③ 緊急だけど重要でないこと
X 緊急でも重要でもないこと(カットする!)

 これが正しい日常生活の優先順位です。なぜ、「緊急ではないけれど重要なこと」を最優先にする必要があるのでしょうか?それは、「緊急ではないけど重要なこと」を優先することにより、「緊急かつ重要なこと」が少しずつ減っていくので、全体的に余裕を持って物事を進めていくことができるようになるからです。

社会への問いかけ
 私たちが生活していく上で、いくつかの社会組織があります。家庭や会社、地域のコミュニティー、趣味などのサークルなどです。クリスチャンには、教会もその中の一つとなります。その中で、自分は、「どのような立場にいるのか?」、また、「どのように評価されているのか?」周りの人に問いかけてみましょう。「自分の立場は『これ』でいいのか?」「自分がしていることに対する評価は、自分でも満足できるものなのか?」客観的な意見を自分の中に取り入れることは必要かつ、重要なことです。

神様への問いかけ
 先に話した3つは、一般的に世の中でよく話題にされることです。しかし、私たちが神様を知っているなら、また、一般的な話題で解決されることでなければ、この4つ目がいちばん大切です。箒(ほうき)は、はくために、バケツは、水を溜めるために、と、それぞれのものは、その目的に応じて、また、デザイナーの意図によって作られています。この世の中に存在する全てのものには、目的がなく存在するものは、一つもありません。私たちも私たち、一人、一人の人生の目的に沿って創られています。もし、私たちが、自分の創られた目的を見出せないのならば、私たちを創られたデザイナーに聞けばいいのです。私たちを創られたのは、この全地を創られ、今も、それらを掌(つかさど)っている神様です。私たち、一人、一人を創られた神様は、私たちを創られた完璧な目的を持っておられるのです。それでは、その目的とは何でしょうか?

「わたしは、あなたたちのために、立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

 今日の聖書箇所である、エレミヤ29章11節にはこう書かれています。神様が私たちを創られた目的は、平和のため、将来と希望を与えるためです。あまりにも壮大で、漠然としているような気がしますね。もっと、個人的に、具体的な神様からの語りかけが必要ならば、次の12-14節に書かれていることを実行してみましょう。

そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来て、わたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしをもとめるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。

 また、箴言3章5-6節には、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主は、あなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」 とあります。自分の力で自分の人生の目的を見いだそうとしても、見いだすことは、私たちには、できません。しかし、神様を信頼し、その導きの中で歩む人生は、祝福に溢れたものとなります。私たちを創造してくださった神様、イエス・キリストの父なる神様を信じ、その関係を深めることによって、私たちは、私たちの人生の真の目的を見いだすことができるのです 〔写真:レンブラントのエレミア〕

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