Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記 171229 年末にオペラ・アリアをきこうときょうの絵画

2017-12-29 18:23:35 | 朝日記

 

朝日記 171229 年末にオペラ・アリアをきこうときょうの絵画

5つのアリアと 創作音楽紙芝居そして4つの今日の絵です。

ご覧ください。

徒然こと 1 アリア1  あんたは私のすべて ~ 笑いのくにから

 Anna Netrebko, Placido Dommingo, and Rolando Villason

 https://www.youtube.com/watch?v=Pa58TdbRGJ4&list=RD3DVkGTbIBR0&index=2

(Urban Rebound 3)

 

徒然こと 1 アリア2  唇は振え  メリーウィドウから

Anna Netrebko & Placido Domingo 27.06.08 Lippen Schweigen

https://www.youtube.com/watch?v=OQ-WrP_duhg&list=RD3DVkGTbIBR0&index=19

(Urban Reboun 1)

 

徒然こと 2  アリア3 あなたの声にこころはは開く

Marilyn Horne - "Mon coeur s'ouvre a ta voix" - Saint Saens

https://www.youtube.com/watch?v=rwynxOAoKjo&list=RD3DVkGTbIBR0&index=30

 

(Morning walk 1)

 

徒然こと 3  アリア4 舟歌 Barcarolle

https://www.youtube.com/watch?v=3DVkGTbIBR0

 Monserrar Caballe abd Marilyne Horne ,1990 Munich.

(Urban reboud 2)

 徒然こと4 音楽紙芝居をご覧くさい。

 https://www.youtube.com/watch?v=HyDkhiT1GgQ&list=PLJ-2JTwLfCf264X73XvC9IrcRwV9-uabd

 (Yassie,state of affairs)

 徒然こと 5 アリア4  舟歌 ホフマン物語

https://www.youtube.com/watch?v=0u0M4CMq7uI

Anna Netrebko, Elina Garanca

 

徒然こと 6 アリア5  パニス・アンジェリクス

 https://www.youtube.com/watch?v=5U9gIr5aIyU

 Elina Garanca ~Panis Angelicus  (Cezar Frank) -Dresden  Adventskonzert'08

徒然こと おわり

 

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朝日記171225 音楽紙芝居と 今日の絵

2017-12-25 21:17:04 | 自分史

 

Merry Christmas and Happy New Year,

My Dear Friend!

 

朝日記171225  音楽紙芝居と 今日の絵

 紙芝居のオマージュです。ふたつ コウノトリになった王様 と サンタの最初のプロジェクトです。

 今日の絵は三つ Morning walk views 1、と 2 そして Urbane reboundです。

 

徒然こと 1 no. 484音楽紙芝居2コウノトリのなった王様

 https://www.youtube.com/watch?v=iHYIgEGO6NE

説明 A king was become a big bired. Ongaku kaiga no.384 is presenting Ongaku Kaimshibai( musico board drama) here.

A king and his minister was turned to change big bird by chanting a magic spell.

They did not kmow their back way spell. How could you imagine that they come successfully back to themselves of original state?
Musice covering by Jaap Romlock's " Would you dace this wals once more?"

 

<form id="watch-headline-title-form" class="hid" action="/watch_inlineedit_ajax?action_save_video=1" method="post">
 
</form>

徒然こと 2  no. 381音楽紙芝居1santa first project

https://www.youtube.com/watch?v=HyDkhiT1GgQ

説明 This is Ongaku kaiga in terms of Kamishibai,(Board Drama).
The drama is 'Santa's first project'. Thanks.

 (Morning walk view 1)

 

(Morning walk view 2)

 

(Urbane Rebound)

徒然こと終わり

 

 

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朝日記171219 「哲学と絵画」カテゴリの最新記事の紹介と今日の絵

2017-12-18 19:54:56 | 絵画と哲学

朝日記171219 「哲学と絵画」カテゴリの最新記事の紹介と今日の絵

 おはようございます。 冬至に近づいていますね。

 今日の絵は(Santa and Foxie project)です。

 徒然こと 「絵画と哲学」カテゴリの最新記事の紹介です。

    1 朝日記171208 音楽紙芝居 サンタのプロジェクトと、二人の哲学者のこと そして今...

    2 朝日記171119 人に考えさせる文章のことについてと今日の絵

 (Santa and Foxie project)

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朝日記171218 Amazon書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵

2017-12-18 19:21:29 | 絵画と哲学

 

 

 朝日記171218  Amazon書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵

 

きょうは、ガウアンロックというアメリカの社会哲学者の書評です。 

Amazon Bookreviewに投稿掲載されたものです。

今日の絵は、(Foxie,Santa's friend)と(Busy Santa,now)の二つです。

徒然こと  ガウアンロック 社会的知性を考える本

J.ガウアンロック著(小泉 仰監訳) 公開討議と社会的知性 ミルとデューイ(御茶ノ水書房)https://www.amazon.co.jp/gp/product/427501569X/ref=oh_aui_detailpage_o00_s00?ie=UTF8&psc=1

 5つ星のうち4.0ガウアンロック 社会的知性への展開を考える本である

投稿者あらいやすまさ2017123

~~~~~

掲載された書評

きょうは社会的知性ということに触れます。 ガウアンロック著 公開討議と社会的知性 のブックレビューとして

J.
ガウアンロック著(小泉 仰監訳) 公開討議と社会的知性 ミルとデューイ(御茶ノ水書房)
John Gouinlock; Excellence in Public Discourse ~John Stuart Smith,Jaon Dewey,and Scial Intelligence.
 1986
 このひとの名前は、たまたまネットで moralityrationalityについてしらべていたときに知った。(記事名は’Instrumental ratinality and Value rationality’であった)

J.
ガウアンロックは、手段的(もしくは道具的)合理性(Instrumental ratinality )の理論の指導的哲学者であるという。かれの理論は社会道徳性の考えにつよいつながりを持っている。 かれは、人びとは各自の徳の意識に沿って行動する合理性を発現すべきであるという。特に、かれは、人びとが問題案件への最終的にして非争論的な決着のレベル以前に議論をとどめ置く状態で、己の行動を律するの道義的な弁術を開始することを提唱する。 考えてみれば、これまで、科学や技術からの問いかけからの受け入れについては、しばしば「概念の晒しconcept disposition)」が行われてきた。これと同様に、社会的案件についてもある期間、その合理的な結論を醸成させるために晒されるべきであると説く。しかし、これを成立させるためには、最終的にして決裂のレベルまでに至らぬ抑制が条件であるとする。 この考えのながれは、現在アングロ・アメリカン系の主流であるInstrumental Rationality(手段的もしくは道具的合理性哲学 ) と呼ばれている哲学のものである。 J.ロールズ、R. ノジック、J.ガウアンロック、A.セン等によって代表されている。
この本の構成概要は以下である;
第一章 序論
第二章 ミルー社会的所産としての知識と道徳的評価
第三章 古典的自由主義の欠陥
第四章 ミルの教育哲学
第五章 社会的知性
第六章 ミルとデューイの挑戦
(本著の意味するもの);
 社会道徳(morality)が、時代的な中心命題となって久しい。とくに、19世紀の英国で、成熟した民主主義にあって、権力の中心が政府や権威機関にあるのではなく、それが実は与論であり、メディアで代表されるということを彼らは気づいている。
 Joh Sturt Mill(ミル)は、その「自由論」で、社会的な合意形成とその道徳について、その社会のコミュニケーションによって柔軟に形成されることを洞察して、そこから形成される知性のあるべきことと、その基礎的仕組みとを提唱している。
  この流れは、米国のプラグマティズムのデューイの哲学に継がれ発展していくが、それをこの著ではわかりやすく解説している。この著の中心は、なんといっても第五章の社会的知性であろう。
 「社会的知性」は、成熟した民主主義社会と、価値多様化への社会的合意についての知性(功利、権利と義務、徳と悪徳)を意味している。
著者は述べる;社会的合意について、 事態の解決に先が見えないときは、無理せずにdisposition(寝かすとか晒す)という概念を提唱する。 ある状況に遭遇したとき、人びとはコミュニケーションによって意見の相違について学習し、理解し、変化し、成長するということを説く。
 公開討論などはその一つの例であるが、ここでの野蛮さ、低劣さについても承知の上で、ここでのレベルを如何に引きあげうるか、リーゾナブルな方向へ収束しうることは可能であるのかを論じる。著者は、ミルやデューイのこれまでの思想的な流れを評価し、成熟した民主主義の社会で、そのような知性(社会的知性)が育ちうるかを述べる。
(レヴューアとしての所感として)
  個人的な経験だるが、英国人の知人たちが、彼らがひとが集まったときに議論の方向について、しばしば優れたリーダーシップの発揮していた状況にふと思い起こす。 これは英語の世界だからだと単純に着せられない高い素養を感じたものであった。
そういう社会的素養の教育(学校教育も)についてもこの著を通じて、あらためて思いを致す。直接的に表現として使ったかどうかは別に、’If I were you ...' つまり、もしも私があなたの状況にあったら、という道徳観moralityであろう。
 人間は、基本的に誤るものであり、弱い存在であるというミルの哲学であり、自分が考えたからということを以ってそれに固執するのではなく、意見が異なる状況でも、それを相手の立場に自分を置いて考え、ますは肯定的に議論する。その過程で、相手を蔑んだり、罵倒するような感情暴発に至らないそういう社会的文化のありかたとして理解した。 筆者の畏友のひとりが以前に、個人の社会生活が孤立した「無縁社会」と表現した現今の都市生活社会で、これをどう考えていくか、ネットでの交流がこのような「社会的知性」を育て得るか、等々そういう思いをこの著により、考えることに強く啓発を受けたといえる。
この本は、原著は1986年の出版であるが、和訳への監訳者の小泉 仰氏は、1988年ケンブリッジ大学にて、原著をみつけ、強い共感を覚え、同門の有志たちと翻訳に取り組んだたことを記している。翻訳出版が1994年である。 ネット社会が急速に展開を開始したころの出版ではあった。
社会的情報交流(コミュニケーション)は、それまでの新聞紙面、やTVなどを中心にしたメディアから、SNN等のネットへの急激な展開の時機に入った年代の出版ではあるが問題の本質の方向をただしくとらえているといえよう。  「公開討論」という語のもつ時間的な意味論的な変化もあり、あゝあれかと見がちであるが、かれが提唱する「社会的知性」は、公開討論の卓越性のための基礎になるという意味で、時代的な本質的視点をもち、なお新鮮である。
以上

 (Foxie,Santa's friend)

(Busy Santa,now)

 

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朝日記171213  Monthly walking drawing,December2017と今日の絵

2017-12-13 18:36:31 | 自分史

 

 朝日記171213  Monthly walking drawing,December2017 and Today's drawings

Shinkoh Ji area hill-water divide walk, sketching drawings are here.
A winter warm day was it,yesterday. I have joined to have the monthly ...walking party. I have posted here the sketches of land scape. Hope to have an enjoy of them. Thanks.

今日の絵は、丘陵歩きの6点です。ご覧ください。
 
 
徒然こと  師走に丘陵をあるくこと
 
きのは、月一のメディカル・ウォークの自主グループ活動で、町田の北部の真光寺周辺の丘陵を歩きました。
小田急線鶴川駅からバスで15分に大きな団地があり、そこの様子の良い公園がスタートです。
ここが、たぶん真光寺の後らしく、寺そのものはいまはありません。まだ残る丘陵の尾根づたいに小山田・別所という地に繋がります。
コースは8の字型にまわってもとに戻る二時間ほどのコースです
桐の葉をはじめ落葉が層をなしてカサカサと足でわけるように歩きます。
戸を越え、視界はいくつも重なる丘陵が入り、遠くが光にかすみます。
そう高層ではない雲が連なります。冬独特の灰色の裏地で、上方にのぼる白い綿の雲が穏やかでした。
5人ほどの隊ですが、途中で、此処で待つという仲間が出ました。彼をおいて1時間ほどでその地に戻りましたが、本人はおらず、見失いました。
いまどきですが、携帯をお持ちでなかったので、思案しました。たまたま私の携帯に公衆電話からの着信痕跡があったので、その公衆のおぼしかれと願って、出発の私鉄の駅にてあうことを賭けて、戻りました。
顛末としては、それが正解で合流できました。ご本人もだいぶお困りであったのでしょう。
要は、仲間を一人残してしまったことに一番の反省点がありました。 これまでおひとりでも諸所を巡っておられたようですが、傘寿をこえると、一年ごとに体調の変化に見舞われ、油断はできないようです。本人もこれを吐露しておられました。
蛇足ですが 来月は、私の傘寿です。メ
ディカル・ウォークは、その隣の黒川地区を予定します。
(Land scape 1)
 
(Land scape 2)
 
 
(Land scape 3)
(A fallen leaf)
 
(Land scape4 Shikoh ji Park)
 
 
(Rand scape 5 Electricity tower)
以上
 
 
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朝日記171208 音楽紙芝居 サンタのプロジェクトと、二人の哲学者のこと そして今日の絵

2017-12-08 20:59:30 | 絵画と哲学

 

 朝日記171208 音楽紙芝居 サンタのプロジェクトと、二人の哲学者のこと そして今日の絵

きょうは英国の19世紀後半の哲学者のJohn Stuart Millと 20世紀にあってドイツ実存哲学のKarl Jaspersについて書きます。 以下は、人生のもっとも成熟し奥深い日々をおくられ、病の療養にあってなお、今日の日本の生命科学の先導的な科学者である先輩YT氏への書簡からの抜粋です。

  (Santa 1)

徒然こと1 音楽絵画No.381 音楽紙芝居~サンタのはじめてのクリスマス・プロジェクト

 https://www.youtube.com/watch?v=HyDkhiT1GgQ

 

 徒然こと2 ふたりの哲学者 John Stuart MillとKarl Jaspersに視点をおくこと

私は、この10年近く科学哲学に入っていますが、この秋は、二人の哲学者の視点に目を置いていました。

ひとりは、19世紀後半の英国の哲学者であるJohn Stuart Millともうひとりは、第二次大戦の敗戦のあとに責任について考えたドイツ実存哲学者のKarl Jaspersです。

Millについては、人間は自由を共有することによって社会が進歩し、進化する。その人間は、基本的に、1.ひとりの考えは完全ではなく誤謬すること、2.生きることにおいて傷つきやすい。 コミュニケーションによって、社会は、弱者にやさしく、かつ、知恵と活力を獲得する。この「社会的知性」という視点で、世界におおきな影響を与えました。Millは、実は、19世紀の後半の大英帝国の全盛期に、すでに、権力の中枢は政府にあるのではなく、世論が権力の中枢であると喝破しています。その水準の低さ、劣悪さ、暴力的であることを認識しても、なおかつ、世論がもつ知性の向上に期待する。

そのための、社会的道徳の形成を提案しています。

(いま、日本が岐路を迎えて、叡智を絞り出すべきときの国民の冷静にして、バランスのある社会活力の世論形成などに思いをいたします)

もうひとりの方、Karl Jaspersは、「責罪論」Die Schudtfrageでした。(英語のshuoldと語源は同じとおもいます) 現在のドイツは、国としての基本的理念(倫理)の基盤は、彼のこの論に負うところが多いといわれています。 彼は、なにがわるかったのかについて、冷静な目で、見ていく、これは人類への歴史的使命にたつものとして常に認識し、歴史を共有すべく、つよい意識をその言にみます。

ドイツと日本は、ともにおなじ敗戦国として、どん底からの立ち上がりで現在があります。

二つの国でのその取り上げ方は、当然異なるとおもいます。どう違うのかを知るには

Jaspersが戦後の廃墟1946年で、考え論じたこの著は、やはり迫力があります。

(われわれは如何にという問題をなげかけます)

かれは、罪には4つあると区分します;刑事的罪、政治的罪、道徳的罪、と形而上的(倫理的)でした。

罪をだれが、なにを、如何に継ぐべきなのかを諄々に論じます。

ニュルベルグ裁判は戦争裁判ですから、刑事と政治的な裁判でした。(その点は日本でもおなじですね。)

ともに平和への犯罪が先頭にきます。

裁判は、勝者優越視点のだけ裁判でした。(この点については、戦勝国側でも反省はあったようです)

それはそれとして、Jaspersの話を続けますと、かれは、ユダヤ人のgenocide(民族洗浄)をしようとしたドイツ民族が、逆に、報復を恐れること。この民族がこれから生きていく。いまは、限界状況として、ともかくもナチスが他国を圧迫したということをすなおに謝ることを説きました。 

いかなる民族として生きていくかについては、彼の視点は、基本は世界の歴史的潮流は、科学技術文明が不可避で。その骨格で、まわりの国と人類の歴史を共有して共存して生かざるを得ないことにあるとします。

つまり、近代市民として、自由意志と理性の人間として生きる、その努力しよう。(カントの思想)

そのために、何でもやる。主人と奴隷の関係でいえば奴隷のごとく。ただ「高貴なる奴隷」という表現を使います。(ヘーゲルの弁証法)

 さらに、彼は、加えます;これからの世界の歴史をつくる主役は、いまや戦勝国にあり、そういう意味で人類への新たな責任を自覚されることを願うと言い切ります。(ここまで、堂々と説くあたりが、すごいですね。カントを先生といただく民族でるなあと感心しました)

 要約すれば、これらは、なんとか生存の正当性(自然権)を獲得するための必死の論法を編み出した理解します。

(日本の場合について、どうであるかについては、まだ私の思考はまだスタートしていません)

 ただ、直観的には、日本とドイツは似て非なるものがあるのでは、ないかと感じています。

Jaspersの偉いのは、冷静に自分たちを分析する態度でした。 Disposition(晒す)ということばが

ありますが、飽きずに、倦まず 現在の課題として生きたテーマにして考え続ける、行動を続けることが

贖罪という意味に捉えているところです。そういう点では、きわだって形而上的(倫理的、超越論的)態度といえます。

 そういう態度には、私は、やはり敬意をいだきます。人類史的視点から、両国について類似点と非類似点をみていくことの大切さを感じています。 しかし、「高貴な奴隷」という自覚には、戦争の勝ち負けを優先する故に、人間の自然の精神としてひずみが蓄積し。ひずみとしていつか、破綻するのではないかとも予感するものがあります。

(どこかい卑屈さを見る思いがあるからです)

たとえば、ナチスが戦勝していたらどういう世界であったであろうかに思考の展開は、それこそ、人類にとっても無駄ではないはずです。もっとも、おなじことを日本が太平洋戦争で勝っていたらということが、いまもって、反動危険思想として、だれも語らないということは、日本にも同じような精神のひずみがあるということを意味しているかもしれません。両国とも「バビロン捕囚」にあると見ます。)

 

その視点が語られる状況としては、」1946年と2017年とは、相当に違ってくるのではないかと感じています。

 

 さて、以上ふたつの哲学者についてのべましたが、

Millの成熟した民主主義社会での世論形成としての「社会的知性」とJapersの専制独裁の抑制をかける世論が矜持する「責罪をする知性」とは、切り離しができないように見えてきます。これらは切り口が違いますが、社会のあるべき方向性を考え、共通の場で議論するのには、ヒントになる筋の論点かなと感じました。

 

また、書きます。ありがとうございました。

荒井

 (Santa 2)

 

 

 

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朝日記171206 紙芝居をスケッチすることと今日の絵

2017-12-06 20:32:04 | 自分史

朝日記171206 紙芝居をスケッチすることと今日の絵

 おはようございます。今朝は紙芝居のことです。新しい音楽絵画381もあります。ご覧ください。

 絵は (フルートを奏する少女) と (靴々)です。

 

徒然こと  紙芝居オマージュ
今日は冷涼な晴天の日でした。あさの十時までで終ってしまう駅の売店でJapan Timesを買いに歩きました。

この駅から隣の長津田の駅まで、森の小道があります。紅葉が美しかったです。小道の終わりに横浜市の市民センターがあります。ここで膨大な量の紙芝居があるのをみます。

そのひとつ、サンタのはじめてのクリスマスというのを席にはこび、早描きスケッチをしました。大変魅了されました。なぜかなあとおもいますと、このようなドラマ絵画が、子供のこころにそのやさしさが広がっていく、いつまでも、さらに生きてこころに働きかける作品の存在に感じ入ったからであろうとおもいます。オマージュ・紙芝居ということで作品化のトライです。

ちょっとはまりそうですね。ご覧くだあさい。

https://www.youtube.com/watch?v=HyDkhiT1GgQ&feature=share

説明 This is Ongaku kaiga in terms of Kamishibai,(Board Drama). The drama is 'Santa's first project'. Thanks.
youtube.com
 
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朝日記171203 ガウアンロック 公開討議と社会的知性 ミルとデューイと今日の絵

2017-12-03 09:57:21 | 自分史

朝日記171203  ガウアンロック 公開討議と社会的知性 ミルとデューイと今日の絵

 

おはようございます。東の空に大きく翼をひろげたような容姿の雲にみとれました。ラジオ体操は家でやりました。

きょうは社会的知性ということに触れます。

 

徒然こと  ガウアンロック著 公開討議と社会的知性 のブックレビューとして

J.ガウアンロック著(小泉 仰監訳) 公開討議と社会的知性 ミルとデューイ(御茶ノ水書房)

John Gouinlock; Excellence in Public Discourse ~John Stuart Smith,Jahn Dewey,and Scioal Intelligence. 1986

 このひとの名前は、たまたまネットで moralityとrationalityについてしらべていたときに知った。(記事名は’Instrumental ratinality and Value rationality’であった)

J.ガウアンロックは、手段的(もしくは道具的)合理性(Instrumental ratinality )の理論の指導的哲学者であるという。かれの理論は社会道徳性の考えにつよいつながりを持っている。 かれは、人びとは各自の徳の意識に沿って行動する合理性を発現すべきであるという。特に、かれは、人びとが問題案件への最終的にして非争論的な決着のレベル以前に議論をとどめ置く状態で、己の行動への意識を律する意味での道義的な弁術を開始することを提唱する。 考えてみれば、これまで、科学や技術からの問いかけからの受け入れについては、しばしば「概念の’晒し’(concept disposition)」が行われてきた。これと同様に、社会的案件についてもある期間、その合理的な結論を醸成させるために’晒される’べきであると説く。しかし、これを成立させるためには、最終的にして決裂のレベルまでに至らぬ抑制が条件であるとする。 この考えのながれは、現在アングロ・アメリカン系の主流であるInstrumental Rationality(手段的もしくは道具的合理性哲学 ) と呼ばれている哲学のものである。 J.ロールズ、R. ノジック、J.ガウアンロック、A.セン等によって代表されている。

この本の構成概要は以下である;

第一章 序論

第二章 ミルー社会的所産としての知識と道徳的評価

第三章 古典的自由主義の欠陥

第四章 ミルの教育哲学

第五章 社会的知性

第六章 ミルとデューイの挑戦

本著の意味するもの;

 社会道徳(morality)が、時代的な中心命題となって久しい。とくに、19世紀の英国で、成熟した民主主義にあって、権力の中心が政府や権威機関にあるのではなく、それが実は与論であり、メディアで代表されるということを彼らは気づいている。

 Joh Sturt Mill(ミル)は、その「自由論」で、社会的な合意形成とその道徳について、その社会のコミュニケーションによって柔軟に形成されることを洞察して、そこから形成される知性のあるべきことと、その基礎的仕組みとを提唱している。

  この流れは、米国のプラグマティズムのデューイの哲学に継がれ発展していくが、それをこの著ではわかりやすく解説している。この著の中心は、なんといっても第五章の社会的知性であろう。

 「社会的知性」は、成熟した民主主義社会と、価値多様化への社会的合意についての知性(功利、権利と義務、徳と悪徳)を意味している。

著者は述べる;社会的合意について、 事態の解決に先が見えないときは、無理せずにdisposition(寝かすとか晒す)という概念を提唱する。 ある状況に遭遇したとき、人びとはコミュニケーションによって意見の相違について学習し、理解し、変化し、成長するということを説く。

 公開討論などはその一つの例であるが、ここでの野蛮さ、低劣さについても承知の上で、ここでのレベルを如何に引きあげうるか、リーゾナブルな方向へ収束しうることは可能であるのかを論じる。著者は、ミルやデューイのこれまでの思想的な流れを評価し、成熟した民主主義の社会で、そのような知性(社会的知性)が育ちうるかを述べる。

レヴューアとしての所感として

  個人的な経験であるが、英国人の知人たちが、彼らがひとが集まったときに課題や議論の方向について、しばしば優れたリーダーシップの発揮していた状況をふと思い起こす。 これは英語の世界だからだと単純に帰せられない高い素養を感じたものであった。

そういう社会的素養の教育(学校教育も)についてもこの著を通じて、あらためて思いを致す。直接的に表現として使ったかどうかは別に、’If I were you ...' つまり、もしも私があなたの状況にあったら、という道徳観moralityであろう。

 人間は、基本的に誤るものであり、弱い存在であるというミルの哲学であり、自分が考えたからということを以ってそれに固執するのではなく、意見が異なる状況でも、それを相手の立場に自分を置いて考え、ますは肯定的に議論する。その過程で、相手を蔑んだり、罵倒するような感情暴発に至らないそういう社会的文化のありかたとして理解した。 筆者の畏友のひとりが以前に、個人の社会生活が孤立した「無縁社会」と表現した現今の都市生活社会で、これをどう考えていくか、ネットでの交流がこのような「社会的知性」を育て得るか、等々そういう思いをこの著により、考えることに強く啓発を受けたといえる。

この本は、原著は1986年の出版であるが、和訳への監訳者の小泉 仰氏は、1988年ケンブリッジ大学にて、原著をみつけ、強い共感を覚え、同門の有志たちと翻訳に取り組んだたことを記している。翻訳出版が1994年である。 ネット社会が急速に展開を開始したころの出版ではあった。

社会的情報交流(コミュニケーション)は、それまでの新聞紙面、やTVなどを中心にしたメディアから、SNN等のネットへの急激な展開の時機に入った年代の出版ではあるが問題の本質の方向をただしくとらえているといえよう。  「公開討論」という語のもつ時間的な意味論的な変化もあり、あゝあれかと見がちであるが、かれが提唱する「社会的知性」は、公開討論の卓越性のための基礎になるという意味で、時代的な本質的視点をもち、なお新鮮である。

(Inquiry)

~~~~(Briefing in English)

James Gouinlock, a leading philosopher whose theory of instrumental rationality has intensive connection with social morality. He tells us that people should propose any rational way for acting along with own mind of virtue.  Especially he proposed the concept 'disposition' which is suitable to beginning moral discourse to one's act, not bringing indisputable finality to them.

Let us imagine while there is the way that any practice of scientific and technological inquiry has often keep on 'disposition', so far, rationality on a matter may be disposed in inquiry to society during a certain while, even the circumstance that would not reaches  to bringing indisputable end. These idea belongs to a category of philosophy with respect to so called instrumental rationality, where is referred to the big name such as John Rawls, Robert Nozick, James Gouinkock,  Amarty Sen,etc. I have this time, pay a focus on Gouinlock, because of the idea of  'disposition', like a fermentation of items in ends to the moral ends. As far as I recognize, his name is yet popular here in Japan.

 

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