朝日記171208 音楽紙芝居 サンタのプロジェクトと、二人の哲学者のこと そして今日の絵
きょうは英国の19世紀後半の哲学者のJohn Stuart Millと 20世紀にあってドイツ実存哲学のKarl Jaspersについて書きます。 以下は、人生のもっとも成熟し奥深い日々をおくられ、病の療養にあってなお、今日の日本の生命科学の先導的な科学者である先輩YT氏への書簡からの抜粋です。
(Santa 1)
徒然こと1 音楽絵画No.381 音楽紙芝居~サンタのはじめてのクリスマス・プロジェクト
https://www.youtube.com/watch?v=HyDkhiT1GgQ
徒然こと2 ふたりの哲学者 John Stuart MillとKarl Jaspersに視点をおくこと
私は、この10年近く科学哲学に入っていますが、この秋は、二人の哲学者の視点に目を置いていました。
ひとりは、19世紀後半の英国の哲学者であるJohn Stuart Millともうひとりは、第二次大戦の敗戦のあとに責任について考えたドイツ実存哲学者のKarl Jaspersです。
Millについては、人間は自由を共有することによって社会が進歩し、進化する。その人間は、基本的に、1.ひとりの考えは完全ではなく誤謬すること、2.生きることにおいて傷つきやすい。 コミュニケーションによって、社会は、弱者にやさしく、かつ、知恵と活力を獲得する。この「社会的知性」という視点で、世界におおきな影響を与えました。Millは、実は、19世紀の後半の大英帝国の全盛期に、すでに、権力の中枢は政府にあるのではなく、世論が権力の中枢であると喝破しています。その水準の低さ、劣悪さ、暴力的であることを認識しても、なおかつ、世論がもつ知性の向上に期待する。
そのための、社会的道徳の形成を提案しています。
(いま、日本が岐路を迎えて、叡智を絞り出すべきときの国民の冷静にして、バランスのある社会活力の世論形成などに思いをいたします)
もうひとりの方、Karl Jaspersは、「責罪論」Die Schudtfrageでした。(英語のshuoldと語源は同じとおもいます) 現在のドイツは、国としての基本的理念(倫理)の基盤は、彼のこの論に負うところが多いといわれています。 彼は、なにがわるかったのかについて、冷静な目で、見ていく、これは人類への歴史的使命にたつものとして常に認識し、歴史を共有すべく、つよい意識をその言にみます。
ドイツと日本は、ともにおなじ敗戦国として、どん底からの立ち上がりで現在があります。
二つの国でのその取り上げ方は、当然異なるとおもいます。どう違うのかを知るには
Jaspersが戦後の廃墟1946年で、考え論じたこの著は、やはり迫力があります。
(われわれは如何にという問題をなげかけます)
かれは、罪には4つあると区分します;刑事的罪、政治的罪、道徳的罪、と形而上的(倫理的)でした。
罪をだれが、なにを、如何に継ぐべきなのかを諄々に論じます。
ニュルベルグ裁判は戦争裁判ですから、刑事と政治的な裁判でした。(その点は日本でもおなじですね。)
ともに平和への犯罪が先頭にきます。
裁判は、勝者優越視点のだけ裁判でした。(この点については、戦勝国側でも反省はあったようです)
それはそれとして、Jaspersの話を続けますと、かれは、ユダヤ人のgenocide(民族洗浄)をしようとしたドイツ民族が、逆に、報復を恐れること。この民族がこれから生きていく。いまは、限界状況として、ともかくもナチスが他国を圧迫したということをすなおに謝ることを説きました。
いかなる民族として生きていくかについては、彼の視点は、基本は世界の歴史的潮流は、科学技術文明が不可避で。その骨格で、まわりの国と人類の歴史を共有して共存して生かざるを得ないことにあるとします。
つまり、近代市民として、自由意志と理性の人間として生きる、その努力しよう。(カントの思想)
そのために、何でもやる。主人と奴隷の関係でいえば奴隷のごとく。ただ「高貴なる奴隷」という表現を使います。(ヘーゲルの弁証法)
さらに、彼は、加えます;これからの世界の歴史をつくる主役は、いまや戦勝国にあり、そういう意味で人類への新たな責任を自覚されることを願うと言い切ります。(ここまで、堂々と説くあたりが、すごいですね。カントを先生といただく民族でるなあと感心しました)
要約すれば、これらは、なんとか生存の正当性(自然権)を獲得するための必死の論法を編み出した理解します。
(日本の場合について、どうであるかについては、まだ私の思考はまだスタートしていません)
ただ、直観的には、日本とドイツは似て非なるものがあるのでは、ないかと感じています。
Jaspersの偉いのは、冷静に自分たちを分析する態度でした。 Disposition(晒す)ということばが
ありますが、飽きずに、倦まず 現在の課題として生きたテーマにして考え続ける、行動を続けることが
贖罪という意味に捉えているところです。そういう点では、きわだって形而上的(倫理的、超越論的)態度といえます。
そういう態度には、私は、やはり敬意をいだきます。人類史的視点から、両国について類似点と非類似点をみていくことの大切さを感じています。 しかし、「高貴な奴隷」という自覚には、戦争の勝ち負けを優先する故に、人間の自然の精神としてひずみが蓄積し。ひずみとしていつか、破綻するのではないかとも予感するものがあります。
(どこかい卑屈さを見る思いがあるからです)
たとえば、ナチスが戦勝していたらどういう世界であったであろうかに思考の展開は、それこそ、人類にとっても無駄ではないはずです。もっとも、おなじことを日本が太平洋戦争で勝っていたらということが、いまもって、反動危険思想として、だれも語らないということは、日本にも同じような精神のひずみがあるということを意味しているかもしれません。両国とも「バビロン捕囚」にあると見ます。)
その視点が語られる状況としては、」1946年と2017年とは、相当に違ってくるのではないかと感じています。
さて、以上ふたつの哲学者についてのべましたが、
Millの成熟した民主主義社会での世論形成としての「社会的知性」とJapersの専制独裁の抑制をかける世論が矜持する「責罪をする知性」とは、切り離しができないように見えてきます。これらは切り口が違いますが、社会のあるべき方向性を考え、共通の場で議論するのには、ヒントになる筋の論点かなと感じました。
また、書きます。ありがとうございました。
荒井
(Santa 2)