朝日記170719 「神様は孤独ですか」と今日の絵
facebookでは、最近、過去x年前の今日の貴方の投稿というのが表示されます。
私の場合は、主としてこの朝日記と連携しているので、その年のきょうの天候が、暑いだ、寒いだのというと一緒に、そのときに意識を支配していたことことと、そのころに描いた絵があらわれ、書く本人とっては、ありがたいです。 そのなかで、気に入っているものがありますので、きょうは、そのひとつをご紹介します。
テーマは畏れ多いですが 「神さまは全知全能ですか」というもので2013年朝日記からの転載です。
なお、きょうの絵は(Divine mode in Genesis to homage to Michaelangelo)と(casa blanca)です。
後者は、ラジオ体操の友人の庭に咲くものを拝受して、これを題材に描いたものです。
また、徒然こと本文のなかの小さな絵の上をクリックされると大きくなりますので、ご覧ください。
(Divine mode in Genesis to homage to Michaelangelo)
徒然ごと
―偶感―
私の宗教社会学
『神さまは全知全能ですか』
会員 荒井康全
1)はじめに
筆者は東京工業大学世界文明センターが開催する公開市民講座「旧約聖書を読む」(橋爪大三郎教授)に平成21年から通っています。橋爪教授は 講義のなかで質疑の時間を多く割いてくださっています。
筆者は、それをもとに、また家で調べたり、考えたり、そして質問に繋げるとことで、大変たのしく、充実した日々を過させていただいていることを告白いたします。 そのうちからひとつをご紹介申し上げます。本稿は、通って1年目が過ぎたときに 自由期末レポートとして提出したものを土台にしています。
講義の終わりに、自分のノートに「今日のキーワード」をきめ、自習課題としてこれを意識しました。そのなかで、今回は、神の全知全能性と人間の自由について取り上げたものをご紹介いたします。導入は、先知恵と後知恵の視点からはじめ、「神様は孤独でおられるか」という 不敬な思いまでをお話いたします。
****本文で使われるkeywords ***
自由の意識 * 直感的 * 抽象的 *「後知恵」* 「知識」* 客体化* 蓄積 *「質」* 論理整合性* なし崩し的* 「進歩」* 神の「先知恵」の‘影’* 科学的方法 *全知全能性 *完備 *「神様はドラマがおすきである」
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2)~先知恵と後知恵 ギリシャ神話から
○「パンドラの箱」というはギリシャ神話に出てきます。
‘先知恵’という名の意味をもつプロメテウスが天帝ゼウスの統べる天国から火と金属加工の技術を盗んできて 赤裸のままで無防備な状態の人類に与えた。
怒ったゼウスは かれを懲らしめるために ちょっと頭の働きの遅い’後知恵’という意味をもつ弟エピメテウスにパンドラという女神を嫁として送ってきます。人類の男の最初の嫁だそうです。
○ところで彼女は結婚初夜の閨で ゼウスから結婚祝いに持たされた箱(壺)をうっかり開けてしまう。そこからは ありとあらゆる邪悪なものが現れ、閨に充満し、そして戸外に飛散しはじめます。
○彼女はおどろき、急いで、蓋を閉めようとして中を覗くと、箱の底の方になにか残っているものがあった。見ると、それは'希望’というものであったそうです。
彼女は逃がすまいとして 急いで蓋を閉じてしまったといいます。
そのあと、エピデミウスとパンドラ夫妻の子つまり‘後知恵’の子孫がどうであったかはご承知のお通りです。
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3)旧約聖書の神の全知全能性と人間の自由に関する質問項目の連鎖
~自由~後知恵をうるための自由について
1.物や物体そのものがそれ自身で自由の意識をもつかどうか、科学的方法で知ることはできない。
一方、自然界の現象はニュートンの第2法則などの普遍法則によって支配され、現在の状態から将来がきまる決定論としての理解はできる。
2.仮説として、超越者がおられ、これら自然法則を「先知恵」として存在せしめたとする。
3.ところで、超越者の創造になる人間も自然界の一部であるからすべて決定論に支配されることになる。
4.もしそうであるとしたら、ものごとは決定論によってのみ支配されるかという命題が出てこよう。
5.この命題を引き起こす、わかりやすい対象は「自由」の意識(あるいは「意識」そのもの)についてである。
6.ここが一番ややこしいところであるが、すくなくも われわれ人間は「意識」があることをみずから知っている。
(それからおこる行為はすくなくとも まず 「する」「しない」の選択もあるし、「する」のなかでもやりかたも一様とはいえない。)
7.そういう意味で人間の側にも、ものごとを決める「自由」もしくは「意識」があるとみることができる。
8.そしてその「意識」にそった「行動」の結果得たものは「後知恵」となるわけであろう。
9.「意識行動」は数学のような直観的にして抽象的な行動もある。
10.同時に、「意識行動」は基本的には 物や物体に行為を作用させ、その結果を知る。
11.行為の目的の成否にかかわらず、結果を知ることができる。
これが「後知恵」ということになる。
12.さきの10.の「意識行動」の特殊な場合は人間相互への「意識行動」であろう。これも10.に含まれるとしよう。
13.「後知恵」は「知識」として客体化して蓄積されることができよう。
14.獲得した「知識」や「知恵」のそのなかでも すぐれているかどうかなど「質」の問題がある。
15.結果的に気が付くのであるが、この「質」は論理整合性が支配している。
(論理以外の整合性で「質」をきめることがありうるか、たとえば芸術)
(整合性以外で「質」をきめることがありうるか、 たとえば、くじ引き)
16.その論理整合性の「質」問題からは結局は、人間は逃れられず、それに従うことになる。
17.(16.は) なし崩し的に「質」問題を解決していくのであり、「進歩」が肯定される所以はそこにあろう。
18.「後知恵」の蓄積のなかには、論理整合性を通じて、神の「先知恵」の‘影’が投影されているといっても矛盾しない。
19. したがって、人間の(「意識」の)「自由」は「後知恵」への行為として神が人間に残した(許した)と考えても矛盾をおこさない。
20.ここでは、思考錯誤的な「思考」と「行動」を経て 知識が加わっていくであろう。
21.科学的方法は 優れた「後知恵」行為として位置づけることができる。
(人間の「後知恵」獲得の方法として 他に有効な方法があるとすれば、なにか)
19. 結局 神の全知全能性は 人間を通じても完備になる。
(人間を通じなくても 完備になるか)
20.命題として、全知全能性のなかで 神は「後知恵」を本来必要としたのであろうか。
21.この命題は 神が人間を必要としているかということを意味している。
22.筆者が、「神様はドラマがおすきである」と質問したのは、この「後知恵」の
ことを意味したのではないかと だんだん感じ始めている。
23.さて、つぎの命題は「神様はなぜドラマがお好きなのか」 となる。
24.神は 論理整合性だけを求めるのであろうか。
25.カント哲学の真、善、美は旧約聖書のなかでどのような概念としてでてくるのであろうか。
26.神は世界創成を7日で終わっているが、創成の目的は何であったのであろうか。
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4)橋爪教授との会話 「ここにきて思うこと 神様は孤独であるかについて
~語りかけの意味 もしくは祈り」
教授への問いかけは多岐にわたりましたが、私にとっての中心は 神の全知全能性と人間の自由でありました。教授からの逆質問として あなたはどう考えるかということがありました。それで止むに已まれずつぎのように答えます;
「神様は 全知全能です。であるとともに全知全能ではありません。」 全知全能の部分は上に述べた物理法則が宇宙の果てまで適用されると考えれば肯定とします。
そして、否定の部分は、なぜ中途半端な存在である人間を作られたのかということになります。そして、とっさに気付くのは「神様はドラマがおすきなのですか。」という問いかけにいたりました。この世の中について矛盾と思えることもすべて神のおぼしめしと考えるのが一神教であり、神はこの問いに答える契約上の義務はないとします。したがって、通常はこれでお終まいになります。
本文は、上のような問いについて、「後知恵」に焦点をあて 徒然なるままに人間の自由を考えてみたことの顛末を書いたことになります。 動機はギリシャ神話からで、旧約聖書と直接関係があるかわかりませんが、思考へのヒントとして エピデミウスの神話を借りました。旧約聖書の創世記によれば、神がご自身に似せて人間を創られたのですから、われわれには、どこかに神の思考や行動の痕跡があろうかと考えます。 「先知恵」が支配するなかでの「後知恵」としてとらえてみました。 その過程で「意識」の「自由」が保証されるかもしれないという筋です。
それでは、なぜ 人間に「自由」が、というところで天地創造のあとの神の目論みは何であろうかということになりますが、ここは まだまったく筆者の矢が届かない感があります。多分 ドラマがお好きだからと 答えます。なぜ お好きなのかかにつよい興味をもちますか。ひとまず、「神様は孤独でいらっしゃる」という‘落ち’としておきます。(あゝ不謙虚なことです)
5)橋爪大三郎教授「旧約聖書を読む」は
目下 継続中です。橋爪先生が 丁寧にテキストを用意され、これを緩急よく、解説と洞察がなされます。その明解さに圧倒されました。また、質疑応答を大事にされ、丁度 アメリカの大学の教室に思いを致しました。「神様はなぜ人間などにやきもちを焼くのですか」といったことで質問に、社会科学者として丁寧に答えられ、質問者へのエンカレッジをくださるということに感銘を覚えています。当然、自分にオネストな質問であることは、そのあと自身に対して、さらにオネストであることが、要求されますから、調べごとをしたり、考えたりする機会が与えられました。本講座ご関心のあるかたは、以下にお問い合わせしてください。執筆2013/06/07
(「HEARTの会」会報No.74 2013夏季号より)
徒然ことおわり
(casa blanca)
(上記 エッセイの初版: HEARTの会」会報No.74 2013夏季号
および 朝日記130715 「偶感 私の宗教社会学 」 と今日の絵
http://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/6481899ccf2ca6b3a54e99d3061e0e1b )
荒井様
暑中お見舞い申し上げます。
ようやく梅雨明けですね。
数年前の荒井さんと橋爪先生とのやりとり、なつかしく
拝見しました。
面白いシステムですね。膨大なメールからどう選ばれてくるのでしょうか?
八尾 徹
八尾 徹様
こんばんは。梅雨があがりました。
梅雨明けの一週間は、風もさわやかで、白南風とか黒南風とか
地方によって特別の名前がついているようです。
最近はfacebookのなかで、話題によってですが特定の投稿者の方と出会い、
意見の交流が自然な形ではじまるケースがあります。
このような接触がひとつでも、形成されることは、これはうれしいことです。
意見が異なっても、お互いに、honestな態度で、丁寧に出発することができれば、或る意味で内容的にまとまったものに 至ることを感じています。(八尾さんがおっしゃる 認め合うということになりますね。)
その時々での案件論議の段落を、そのままでは惜しいと思い、何回か、会話型の朝日記本文としてまとめ
公開することを試してみした。今回の場合、先方様も快諾していただいて、お名前を公開させて
いただいています。
(因みに、これまで八尾さんからのご意見も、朝日記のコメント欄でご紹介させていただいています。)
「朝日記」の方は、いつのまにか、週に2000件程度のアクセスをいただき、述べで48万件を超え、なにか勢いを感じています。オピニオンの広がりとして手ごたえをも感じます。
そういう発信の場の実験ということでしょうか。。
橋爪先生との例の宗教社会学問答は、私にとって科学哲学の出発点になったものです。 八尾さんが覚えていてくださったことにうれしく思っています。
これから本格的な酷暑がはじまりますので、どうかお体に配慮されますよう願っています。
失礼しました。
荒井 2017/07/19
安部 忠彦
安部 忠彦 みなさんおはようございます。
神様は全知全能であるかどうか、荒井さんの記述に目を通しつついつものように雑考しました。
全知全能を完璧と読み替えると、完璧には進歩向上という概念が入らないので全知全能+向上心のあるものの方が優れているように思えます。
全知全能と向上という概念を併せ持つものを神と呼ぶと定義したいように思えます。そうすると神は全知全能か?という問いかけには、当然である、神であるなら全知全能は必要条件である、となります。
ちょっと乱暴すぎる意見かもしれませんが思いついたので書かせていただきました。
朝日記、時々拝見しています。最近個人的には仏教の勉強を始めているのですが、一神教的世界観との対比ができて面白かったです。特に「神様はドラマがお好き」という問題の立て方に興味を引かれました。仏教は基本的には「みんなでなろう仏さま」の宗教で、全てわかってしまった静寂が悟りでしょうから、そういう点ではドラマ性0(というより脱ドラマ)の宗教だなと思います。キリスト教は逆なんだ、という点、発見でした。
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2089
中山 秀明 みなさんおはようございます。
神様は完璧かという安部さんの書き込みで思い出しましたが、以前、上智大学のデーケン教授の講演を聞いたことがあります。デーケン教授は、人間は有限の存在であるけれど、神様は無限の存在であるということをおっしゃられていたように記憶しています。
無限の存在がどういう意味なのかよくわかりませんが、0以下の整数の集合があるとして、その集合に1を要素として付加しても要素の数は無限のままであり、付加の前後の集合の間には要素の一対一の対応付けが定義でき、要素の個数というか無限の程度というか本当は集合濃度というのですが、付加の前後での集合の濃度は同じになるということを考えました。
荒井 康全 おはようございます。付加のような加算のできる集合と密度のような加算できない集合がありますね。熱力学の例では、量としいてextensive quantity(示量量)とintesive quantity(示強量)でこれをうまく使いこなしていますね。中山さんがいぜんいにEulerの式の説明をされていましたね。そうそうEulerの公式でしたね。1+2+3+....=-1/12というあの不思議な世界。数学ではみごとに有限と無限をつないでいるのですが、他の世界では人間は悪戦苦闘です。カントはかれの理性における4っつの二律背反のひとつとして 現象界で有限性の人間が現象界での無限について語り辻褄をあわせることはできないとして区切りをつけました。とはいえ、その彼も数学のもつ卓越性は、悟性による概念支配の現象界のに属させず、理性支配の思弁界の方におきました。数学は形而上学の中心としたのでした。さてその先の境界、超越的理性は神からの(キリスト再来までの、判断の羅針盤として人間への贈り物)としたようです。超越との境界からさきは宗教にのこして残しておいたようです。したがって神話がなりたつ世界が残っているとみることもできます。