現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

戦後の名古屋の復興、そして今

2011-04-06 04:35:28 | 社会問題
名古屋市内には、100m道路が2本、東西と南北に走り、さらに
50m巾の幹線道路が9本も走っている。これは、戦後の復興に
尽力した「田淵寿郎」氏が 強力に推し進めたものだった。

車など まだ少なかった時代に、「田淵寿郎」氏は、50年後の
人口を200万人と想定し、モータリゼーション時代を予測して
いたのだ。当時は、「そんなもの必要無い」と猛反対があった。

田淵氏の構想は、市内279カ所の全墓地を平和公園に移転し、
市の 20% を道路と公園にするというもの。墓の移転など
根強い反対にあったが、田淵氏は地主を説得して廻った。
道路だけでなく、地下鉄や港湾整備など都市計画事業を推進
完成させた。

「トヨタ王国」とも云われる名古屋市の繁栄は、田淵氏の
強い信念に基づくものであると云われている。

名古屋人の底力はすごい。空襲で破壊された市役所、公会堂
などの公共建物を市民の力で、いち早く改修復元している。

御園座は、「一刻も早く市民に娯楽を」と、終戦からわずか
2年で再建され、歌舞伎の公演が行われているのだ。この他
にも、名古屋では、昭和22年には、琴や三味線、日舞、能、
バレーなどの公演が復活している。さすが「芸どころ」名古屋だ。

テレビの放映が始まった昭和28年には、100m道路の真ん中に
テレビ搭を建設することとし、翌昭和29年6月19日に完成
させている。これは東京タワー(昭和33年)より早い。日本で
最初で最古のタワーである。

名古屋城の天守閣も、市民の寄付により 1959年(昭和34年)に
再建され、金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。そして
今、本丸御殿の復元が推進されている。

敗戦後の焼け野原からの復興には、軍国主義の抑圧から開放
された喜びと 明るい未来があった。今回の震災は、「こんな
時に」と、娯楽は顰蹙(ひんしゅく)をかい、「緊縮、自粛、
節電、節約」と、社会全体が“ 萎縮ムード ”である。
物資は戦後の荒廃期よりはるかに豊富にあるのにだ。

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