NHK「八重の桜」で放映後「三田の会津藩下屋敷跡」として
慶応大学の三田校舎と中等部の間の坂道が紹介されていました。
当(牧原)家の系図に「初代牧原只右衛門は御田の下屋敷で生る」と
ありました。「御田」が「みた(三田)」のことと気づいたのは
最近のことでした。しかも、私が通っていた「慶応中等部」が
会津藩下屋敷の跡地と知った時は、もう天地がひっくり返るほどの
驚きでした。私が慶応中等部に入れたのも、先祖の導きかと。
「会津藩下屋敷」は、万治元年(1658)幕府より拝領し、
三代藩主となった「正容(まさかた)」(実は「保科正之」の
六男)は、この下屋敷で育てられ、わが先祖も小姓として仕えた
のでした。
その下屋敷は、「慶応中等部、慶応義塾女子高や、慶応の
綱町グラウンド、そして三井倶楽部から古川の河岸 までの
32,972坪という広大な敷地だったのです。
「八重の桜」でも出てきましたが、ここで軍事訓練ができた
のでした。
神保修理が腹を切ったのも、ここ会津藩下屋敷でした。
そして、なんとお隣は「薩摩屋敷」でした。
山手線田町駅に近い「NEC本社」は「薩摩藩邸跡地」で、
NEC本社前には、今日放映された「勝海舟と西郷の会見の地」の
石碑があります。
慶応大学の三田校舎と中等部の間の坂道が紹介されていました。
当(牧原)家の系図に「初代牧原只右衛門は御田の下屋敷で生る」と
ありました。「御田」が「みた(三田)」のことと気づいたのは
最近のことでした。しかも、私が通っていた「慶応中等部」が
会津藩下屋敷の跡地と知った時は、もう天地がひっくり返るほどの
驚きでした。私が慶応中等部に入れたのも、先祖の導きかと。
「会津藩下屋敷」は、万治元年(1658)幕府より拝領し、
三代藩主となった「正容(まさかた)」(実は「保科正之」の
六男)は、この下屋敷で育てられ、わが先祖も小姓として仕えた
のでした。
その下屋敷は、「慶応中等部、慶応義塾女子高や、慶応の
綱町グラウンド、そして三井倶楽部から古川の河岸 までの
32,972坪という広大な敷地だったのです。
「八重の桜」でも出てきましたが、ここで軍事訓練ができた
のでした。
神保修理が腹を切ったのも、ここ会津藩下屋敷でした。
そして、なんとお隣は「薩摩屋敷」でした。
山手線田町駅に近い「NEC本社」は「薩摩藩邸跡地」で、
NEC本社前には、今日放映された「勝海舟と西郷の会見の地」の
石碑があります。