愛媛県の生涯学習センターのH.P「データベースえひめの記憶」に、
「遍路の取り締まりについて」詳細が述べられている。
発端は、明治19年(1886)5月、高知県の『土陽新聞』に「遍路拒斥すべし乞丐(きっかい)逐攘すべし」と題する論説が載った。かなりの長文だが、
その趣旨は、
「遍路には 旅金を携へ 身成も一通り整へて來るもあるが、真に祈願の為めに来るは少く、其の大半は 旅金も携へず 穢き身成にて 他人の家に 食を乞ふて廻り、実態は 物乞いにすぎない。その弊害は、
第一に伝染病の媒介。
第二に、食に困って、泥棒、強盗などを働く。
第三に、行き倒れになれば、その処置にはなはだ迷惑する。
それでは、どういう対策をとればよいのか。
第一には、縣下各町村 申合せを為し、遍路乞丐に対しては一切何物を も恵与せざることとする。又、国道、県道の通行のみを許可し、町村内には一切立入り禁止とする。
第二には、県境付近の巡査に命じて 他県から侵入しようとする遍路物乞いを捕えて、先の事情を告げ、説得する。
第三に、他県の警察にも申し合わせ、さらに四国内にとどまらず、
第四には、日本政府に働きかけ、法律で、遍路に限らず、食物其他の物品を乞ふことを制止せられんことを欲する。
この論説を受けて、一ヶ月もしないうちに高知警察が動き出した。
各警察署及び交番所の巡査に命じ、乞丐の徒は 見當り次第 所轄警察署に連れ來り、一日一銭八厘づつの食を与へ置き、五日或は土日留置き、其の集るを待て本籍へ追ひ返すこととなった。高知警察署で 同日護送せられし遍路は二百餘名と。
おりしも京都・東京では、明治18年(1885)から この明治19年にかけて虚無僧の取り締まりが行われていた。
10年余り後の明治34年の『土陽新聞』でも、「警察署に於て追ひ払ひたる遍路乞食の数三百八十一人」と報じている。
これに対して、抵抗を企てた人も
愛知県丹羽郡岩倉町の酒井鍬吉といふは 四国遍路となりて 合力を乞ひながら歩き廻る中、県下長岡郡 駐在巡査の 遍路狩りの獲物となりし処、此奴遍路の僻(くせ)に 仲々理屈をこねる奴にて、「あなたは何故に私の旅行を妨げますか。旅行は私の自由で御坐ります」と云張り、後警察署に連れ来られし後も頑として不服を唱ふる所により、種々申聞たるも 聴かず、高知を出た後 検事局及び警察本部へ警官の取扱を不法なりとして訴へ出でたり。
明治40年(1907)に遍路を行った 小林雨峯の遍路記には、「遍路入るべからず なぞの札のありし土佐の地方を見しこともある。遍路狩なぞの行はるゝ方面では、遍路は乞食と同様の観を以て目されたる」と
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
戦後の 現行「軽犯罪法」では 「乞食は禁止」となっている。1年の懲役または100万円の罰金。 解釈として「宗教行為を除く」と、暗黙に理解されているので、遍路や虚無僧は、取締りの対象にならない。
明治の半ばは、みんなが貧しい時代だったから、乞食の増加と、食を施す側の負担も大変だったからだろう。皆が豊かになった今日 ‘接待’ は「富める者の感謝と徳積み」という観念でうけいれられている。