現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

明治の遍路・虚無僧 取締り

2021-11-29 15:54:55 | 虚無僧って?

愛媛県の生涯学習センターのH.P「データベースえひめの記憶」に、

遍路の取り締まりについて」詳細が述べられている。

発端は、明治19年(1886)5月、高知県の『土陽新聞』に「遍路拒斥すべし乞丐(きっかい)逐攘すべし」と題する論説が載った。かなりの長文だが、

その趣旨は、

「遍路には 旅金を携へ 身成も一通り整へて來るもあるが、真に祈願の為めに来るは少く、其の大半は 旅金も携へず 穢き身成にて 他人の家に 食を乞ふて廻り、実態は 物乞いにすぎない。その弊害は、

第一に伝染病の媒介。

第二に、食に困って、泥棒、強盗などを働く。

第三に、行き倒れになれば、その処置にはなはだ迷惑する。

それでは、どういう対策をとればよいのか。

第一には、縣下各町村 申合せを為し、遍路乞丐に対しては一切何物を   も恵与せざることとする。又、国道、県道の通行のみを許可し、町村内には一切立入り禁止とする。

第二には、県境付近の巡査に命じて 他県から侵入しようとする遍路物乞いを捕えて、先の事情を告げ、説得する。

第三に、他県の警察にも申し合わせ、さらに四国内にとどまらず、

第四には、日本政府に働きかけ、法律で、遍路に限らず、食物其他の物品を乞ふことを制止せられんことを欲する。

この論説を受けて、一ヶ月もしないうちに高知警察が動き出した。

各警察署及び交番所の巡査に命じ、乞丐の徒は 見當り次第 所轄警察署に連れ來り、一日一銭八厘づつの食を与へ置き、五日或は土日留置き、其の集るを待て本籍へ追ひ返すこととなった。高知警察署で 同日護送せられし遍路は二百餘名と。

 

おりしも京都・東京では、明治18年(1885)から この明治19年にかけて虚無僧の取り締まりが行われていた。

10年余り後の明治34年の『土陽新聞』でも、「警察署に於て追ひ払ひたる遍路乞食の数三百八十一人」と報じている。

 

これに対して、抵抗を企てた人も

愛知県丹羽郡岩倉町の酒井鍬吉といふは 四国遍路となりて 合力を乞ひながら歩き廻る中、県下長岡郡 駐在巡査の 遍路狩りの獲物となりし処、此奴遍路の僻(くせ)に 仲々理屈をこねる奴にて、「あなたは何故に私の旅行を妨げますか。旅行は私の自由で御坐ります」と云張り、後警察署に連れ来られし後も頑として不服を唱ふる所により、種々申聞たるも 聴かず、高知を出た後 検事局及び警察本部へ警官の取扱を不法なりとして訴へ出でたり。

 

明治40年(1907)に遍路を行った 小林雨峯の遍路記には、「遍路入るべからず なぞの札のありし土佐の地方を見しこともある。遍路狩なぞの行はるゝ方面では、遍路は乞食と同様の観を以て目されたる」と

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戦後の 現行「軽犯罪法」では 「乞食は禁止」となっている。1年の懲役または100万円の罰金。 解釈として「宗教行為を除く」と、暗黙に理解されているので、遍路や虚無僧は、取締りの対象にならない。

 

明治の半ばは、みんなが貧しい時代だったから、乞食の増加と、食を施す側の負担も大変だったからだろう。皆が豊かになった今日 ‘接待’ は「富める者の感謝と徳積み」という観念でうけいれられている。 

ところがである。一作年だったか、高知県で「住所不定で生涯を接待に頼って回っている歩き遍路に対して、接待(施し)をしてはならない」という条例ができたとやら、ニュースにあった。まともに働かず、人の施しを頼って生きるのは人に非ず、迷惑千万、けしからん」というのである。
それでか、虚無僧で高知を回った時は、全くお布施ゼロ。全く無視された。虚無僧受難。

 


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