徳川家康が関東に入封した時、保科正光は、家康に付き従っており、
家康の命で、下総の山室氏を攻め滅ぼし、以後10年、下総の
多胡に留まり、関が原の後、信濃高遠藩の初代藩主となっています。
武田方の高遠氏の家臣だった保科が、いつ徳川に就いたのか。
ネットで検索していて「愛知県安城市」に「保科正直」の邸宅跡が
今に残り、史跡になっていると知りびっくり。
「保科正直」は「正光」の父です。
天正十年(1582)3月、武田家は滅亡します。その直後、
織田信長も本能寺の変で亡くなり、信濃、甲斐の各城は、
織田・徳川の家臣や北条、真田が入り乱れ、奪い合いで
大混乱に陥ります。そのどさくさの中、保科正直が高遠を
奪還します。保科正直は、当初北条に就き、妻を北条氏に
人質として差し出していたのですが、これを裏切り、
徳川家康に臣従し、妻を殺されます。
家康は、臣従してきた「保科正直」を哀れみ、義妹「多劫姫」を
正直の正室にしました。「多劫姫」は家康の母「伝通院於大の方」が
久松俊勝に再嫁して生んだ娘。久松俊勝の娘ですが、家康とは
異父同母の妹となります。ですから、保科正直は家康と
「義兄弟」の関係になったのでした。
それで、家康の招きで、三河安城に居を構え、家康の関東移封にも
付き従ったのです。
保科正直には、多劫姫を正室に迎える前、跡部越中守の娘を妻に
していました。その子が「保科正光」です。その正光の母は、
前述の如く、北条氏に人質として預けられていて、殺されます。
家康の子、二代将軍となった「秀忠」が腰元に産ませた子(後の
会津藩祖保科正之)を、旧武田の家臣の「保科正光」に託したのは、
「多劫姫」のつながりがあったからでした。
はじめて納得しました。
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