現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

福島県の平と信州真田の縁

2011-05-17 03:24:11 | 虚無僧日記
福島県「平」(現いわき市)と信州松代藩の真田家との関係について、
私のコメントに「スポッツ」さんから 詳しい情報が寄せられた。
要約すると、

【松代藩真田家の世継ぎ争い】
松代2代藩主・真田信政は、6男の右衛門佐(うえもんのすけ、
後の幸道)に家督を継がせると遺言して亡くなった。

「幸道」はまだ2才。そこで、信政の兄の子である沼田城主の
「信直」が、家督相続に名乗り出て、幕府や縁戚大名を
巻き込んだ騒動となった。

最終的には「幸道」が第3代藩主となるが、「幸道」を支持
したのが、岩城平藩の内藤忠興。

忠興の次男で、湯長谷藩藩主の内藤頼直の正室は真田信政の
長女。つまり真田幸道の姉。

忠興の長男で磐木平3代目藩主となった内藤義概(風虎)が
「八橋検校」を藩のお抱え楽師として召抱えていた。
八橋が平藩のお抱え筝曲師となっていたのは、1648--1652年と
される。


さてさて、これだけの関係で、平藩の八橋の箏が真田家にも
伝承されたというのは、私は どうも腑に落ちない。

そもそも、松代に伝わる伝承は、「2代目お通(1587~1679年) が、
京都で、八橋検校から八橋流筝曲を学び、それを 勘解由家に
伝えた」とされる。そしてこの説は、前にも書いたが、年号が
合わないのだ。

「八橋検校」が、京に上り「八橋検校」を名乗るのは1639年
〈寛永16年)以降。(それまでは「山住勾当」[上永検校」と
称していた)。この1639年当時、2代目お通は、すでに52歳。
八橋が平藩に召抱えられた時は、お通は60歳を超えている。
60の手習いか。

そして、『真田勘解由家文書』の後半部分では、松代の8代藩主
「真田幸貫」(松平定信の実子)が、藩士の禰津権太夫夫妻を
京都に派遣して、八橋流16代目の「有一座頭」から「八橋流」を
習わせ、藩内に八橋流を広めさせた と記している。

こちらの方が、真実性がある。一般に「八橋検校」創始の曲が
連綿と伝えられたかのように言われているが、「真田しん」が
伝承した「八橋流」、大阪の八橋流、沖縄の八橋流、それぞれ
全く違うのはどういうことか。

さらに不可解なのは、八橋の箏曲を伝承したとされる住山検校、
北島検校らは八橋の弟子ではなく、また、大阪八橋流の祖と
される城追座頭や、沖縄箏曲への伝承の祖とされる吉部座頭なども
八橋との関係のは不明という。(平野健次『日本音楽大辞典』平凡社)

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1 コメント

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Unknown (スポッツ)
2011-05-17 15:46:13
虚無僧様、返信ありがとうございます。二代目お通との関係は私も分かりません。ただ遠山政助が独立してない時代であり正室とも磐城平藩に所属し、なおかつ父忠興が真田幸道の後見人、屋敷は近所同士。加えて兄、義概が八橋検校の名を付けた可能性がある程入れ込んでいるくらい検校と深い。義概,政亮の叔父に当たるのが保科正之ですが、正之義母は真田信之の姉妹。正之の恩人は武田の姫達でその一人松姫は遠山政亮の母.香具姫を助けてもいます。その他にも武田や真田、保科との因縁じみた話しを知るともっと親密ではなかったかと素人なりに感じてます。
大阪八橋流はもともと八橋直系ではなかったかと。琉球箏曲は沖縄流に音階がアレンジされたと思いますが、絹の弦でないと弾きづらい所に古流の流れがあるのかもしれません。

とりあえず今、別件で長野に来てまして博物館学芸員の方に聞いたらお家総動そのものがなかったと言われorzでした。まあ懲りずに調べてみます。色々ありがとうございました。
スポッツ
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