松岡正剛の「千夜千冊」というブログがあります。あらゆるジャンルの本を取り上げ、その書評を書いてます。
その515話(200/7/8)。
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日本中にいる「正剛君」の大半はおそらく「中野正剛」から採ったのではないかとおもう。
ぼくの場合は、父が「他人に殺されるくらいの気概の持ち主になれ」という乱暴な理由で「中野正剛」の名を選んだ。「中野正剛」は暗殺されたのではなく自害したのだが、そのへんのことはどうでもよかったのだろう。
ぼくはこの「正剛」という名前が好きにはなれなかった。どうも堅すぎる。それに「松岡正剛」の中に、「岡」の字が二つも入っている。
父が正剛にこだわったのは、ぼくが 昭和19年の1月という戦争の渦中で生まれたことが決定的な背景になっていた。
前年、中野正剛は東条英機との対立が激化していて、ぼくが生まれる3カ月前には憲兵隊によって拷問をうけたうえ、自宅に帰ってきて自決した。2日後の青山葬儀場には 2万の会葬者が駆けつけた。そのなかに父も交じっていたらしい。
とくに愛国主義者でもない一介の旦那衆であった父は、どうやら戦争反対者だったようだ。そこへ戦況悪化の昭和19年1月にぼくが生まれることになる。父は何かを託して正剛とつけたのではなかったか。
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と、松岡正剛が語っている。へぇぇぇ。でござる。
数年前、お会いした、ある詩吟の会の会長さん。「中野正剛の秘書をしていた」とのこと。こちらもへえぇぇ。
先日亡くなられた。もっと詳しく話を聞いておけばよかった。
中野正剛の弟中野秀人は、画家。兄とは正反対の芸術家タイプ。その妻が私の母の従妹でした。
中野正剛