現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

会津と長州の友好 その3

2015-08-22 23:08:48 | 会津藩のこと

河合善順は、その後も東京に潜伏して、東京に戻っていた。
奥平謙輔に、山川健次郎の兄の山川浩(大蔵)を面会させたり、
長州藩士の前原一誠や大村益次郎と酒席をともにしたりして
親交を深め、窮乏する会津藩士とその家族のために、1,000円
もの救済金を引き出したり、藩主の助命嘆願と会津藩再興の
周旋を依頼したりしている。

前原一誠は松下村塾の「四天王の1人」として知られ、師の
松陰からもその誠実さを愛されていた。会津戦争においては
会津征討越後口参謀として若松入りをし、戦後処理にあたった。
この際、会津藩側の立会いを勤めた山川大蔵と知りあった。

前原は戊辰戦争の功により、維新政府でも木戸孝允に次ぐ
位置にあった。後に初代総理大臣になる伊藤博文など、この
時点では小僧っこだった。

山川大蔵らは、会津藩の再興を前原一誠に嘆願した。そして
明治2年、会津藩の再興が認められる。「会津は戦争に負けて
不毛の下北半島に追いやられた」というのは、実は“小説家の
感傷”ということが最近言われはじめた。たしかに、事実は、
「猪苗代か下北がどちらかを選べ」とされ、下北を選んだのは
広沢や山川ら会津藩の重臣だったのだ。

さて、会津藩としては、そのお礼に前原一誠に会津鶴ヶ城に
あったとされる『泰西王侯騎馬図』の半分を贈っている。
その前原一誠は、やがて木戸孝允と対立して、明治9年萩に
下野して不平士族とともに「萩の乱」を起こし、捕らえられて
処刑された。『泰西王侯騎馬図』はその後どう転々としたのか、
今神戸市立博物館(南蛮美術館)に飾られている。重要文化財。



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