現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

虚無僧寺「京都明暗寺」の創建秘話

2015-11-08 19:35:33 | 虚無僧って?

江戸時代の貞享3年(1688)年、黒川道祐によって刊行された

京都の観光案内本『蕹州府志』 には「明暗寺」が「妙安寺」と

なっている。はて“妙”なこと。「蕹州」とは「山城国=京都」のこと。

虚無僧が「普化禅師」を祖師と仰ぎ、「普化」の「明頭来明頭打、

暗頭来暗頭打」を唯一の教義とするならば「明暗」を「妙安」と

誤記するはずがない。

そこで私は考えた。「普化」と「明頭来」の教義は、江戸時代の

はじめにはなかった。

現代の虚無僧は「げ箱」に「明暗」と書いているが、そのような

「げ箱」は江戸時代の浮世絵、錦絵には描かれていないのだ。

そこで「明暗寺」の創建秘話を紹介しよう。

寛永14年(1637年)の暮れに勃発し、翌、寛永15年(1638年)の

春に収束した「島原の乱」後、幕府は「浪人狩」を行う。

そこで、京都の白川橋辺に住んでいた虚無僧「淵月了源」も

京都所司代に呼び出される。時の所司代は「板倉重宗」。

島原の乱平定の総指揮官となり討ち死にした「板倉重昌」の

弟。兄の「重昌」は尺八の名手でもあった。そこで、浪人は

捕らえて追放にでも処するところだったが、「重宗」は虚無僧の

「淵月」に同情し、妙法院の一画、三十三間堂の南に40坪

ばかりの土地を借りてやり、草庵を建てて住まわせることとした。

これが、後の「明暗寺」。妙法院の一画だから「妙安寺」と

名づけたのではないだろうか。場所は「本池田町」というから、

現在、東海道線が走っているあたり。なんと、そのすぐ南は

「東福寺」である。幕末に「明暗寺」の最後の看手「明暗昨非」が

寺の本尊「虚竹禅師」の像や什物一切を持ち出し、親しくしていた

「東福寺」の塔中「善慧院」に預けて出奔したのも、お隣り

さんだったからなのだ。

 


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