江戸時代の貞享3年(1688)年、黒川道祐によって刊行された
京都の観光案内本『蕹州府志』 には「明暗寺」が「妙安寺」と
なっている。はて“妙”なこと。「蕹州」とは「山城国=京都」のこと。
虚無僧が「普化禅師」を祖師と仰ぎ、「普化」の「明頭来明頭打、
暗頭来暗頭打」を唯一の教義とするならば「明暗」を「妙安」と
誤記するはずがない。
そこで私は考えた。「普化」と「明頭来」の教義は、江戸時代の
はじめにはなかった。
現代の虚無僧は「げ箱」に「明暗」と書いているが、そのような
「げ箱」は江戸時代の浮世絵、錦絵には描かれていないのだ。
そこで「明暗寺」の創建秘話を紹介しよう。
寛永14年(1637年)の暮れに勃発し、翌、寛永15年(1638年)の
春に収束した「島原の乱」後、幕府は「浪人狩」を行う。
そこで、京都の白川橋辺に住んでいた虚無僧「淵月了源」も
京都所司代に呼び出される。時の所司代は「板倉重宗」。
島原の乱平定の総指揮官となり討ち死にした「板倉重昌」の
弟。兄の「重昌」は尺八の名手でもあった。そこで、浪人は
捕らえて追放にでも処するところだったが、「重宗」は虚無僧の
「淵月」に同情し、妙法院の一画、三十三間堂の南に40坪
ばかりの土地を借りてやり、草庵を建てて住まわせることとした。
これが、後の「明暗寺」。妙法院の一画だから「妙安寺」と
名づけたのではないだろうか。場所は「本池田町」というから、
現在、東海道線が走っているあたり。なんと、そのすぐ南は
「東福寺」である。幕末に「明暗寺」の最後の看手「明暗昨非」が
寺の本尊「虚竹禅師」の像や什物一切を持ち出し、親しくしていた
「東福寺」の塔中「善慧院」に預けて出奔したのも、お隣り
さんだったからなのだ。