ぴよママの直腸がん日誌

2006年、40歳で直腸癌3bと診断、開腹手術。大動脈周囲リンパ節腫大の為、抗癌剤で延命しているぴよママの身辺雑記です。

転院

2009-05-10 16:59:08 | Weblog
2007年3月、自宅にいた時、電話が鳴った。主治医のA先生からだった。驚いた。何事かと思った。4月から別の病院に勤務するという。ついては、「これからも診せてください。」とおっしゃる。「だって、院長がいないんだもの。」とも言う。どうやら院長が病気になり、入院されるようで、それを転機に別の個人病院に転勤されるようなのだ。
そして、後でわかったことだが、院長の病気を発見したのはA先生だったようなのだ。
「はい、私も先生にこれからも診ていただきたいのでよろしくお願いします。」と言い、電話を切った。
4月からは、少し遠くなるが、駅前の個人病院に行くことになる。正直、今までの病院は元気な患者さんばかりで嫌だったので、なんだかホッとした。

その後、今までの病院に菓子折りを持参し、挨拶をしてお別れをし、私は新しい病院に通う事になった。

数値下がる

2009-05-10 15:27:05 | Weblog
4回目のFOLFOX終了後、CEAが25.1→11.5CA19-9が40.9→30.7に下がった。数値が下がった事を告げるA先生はとても嬉しそうであった。とても仕事熱心な先生なんだな、と思った。一応先生にお礼を言った。
ナースには「この先、数値は上がったり下がったりの繰り返しだよ。」と言われた。そう、抗癌剤は一時的に癌を抑えるだけの薬であって、治す作用はないのだ。
その後、2009年5月の今現在までに、CEAは8.4~23.4CA19-9は29.7~330.2と、上昇傾向にあるが、ずっとFOLFOX、FOLFIRI、と点滴を交互に受けている。一度、飲み薬TS-1の治療か、点滴薬か選択する場面もあったが、自分の希望で入院による点滴治療を選択している。いずれ、点滴による治療が尽きて、飲み薬による治療になるかもしれない。肝臓や肺に転移して手術になるかもしれない。再発してストーマになるかもしれない。いつ死ぬか分からない。いろいろな事を考えてしまい、気が狂いそうになる事をある。が、今は中学生と高校生の娘、夫の為に出来るだけの事をし、時々自分も気分転換をして、努めて普通の生活を過ごそうと決めている。

薬の効果

2009-05-10 14:58:46 | Weblog

2回目の入院。A先生が回診。先生の機嫌が悪い。何だろう。不思議に思った。
以前から「○○さん、この薬は、気持ちの持ちようと、とても関連性のあるものなんだよ。だからあまり悲観的にならないで、もっと希望を持ってゆったりした気持ちで。」などと言われていた。が、私があまりにも暗く、不安感ばかりに押しつぶされそうになっているから、A先生に「余計な心配しすぎなんだよッ!」と叱られ、泣いた事もある。
また何か叱られるのかしら、と思っていたら「○○さん、前にあげた抗癌剤のパンフレットについていた注意事項、ちゃんと守っていますか!?」と言われた。
「守っています。」と言っても全然信用していない様子。これにはムカッとした。
どうやら検査数値があまり良くないらしい。自分の診療に対して結果が良くないのは私のせいだと思っているみたいなのだ。癌なんだから、仕方がないだろう、そう思った。
ようやくA医師に対し、信頼感を持ち始めていたところだったのに、何だかがっかりすると同時に、悲しい気持ちになった。


同室の患者さん

2009-05-10 14:13:35 | Weblog
それからずっと、ほぼ二週間ごとに3~4日の抗癌剤治療を入院で受けている。
ある時、50代半ばの女性と同室になった。A先生が大学病院から連れてきた患者さん。大学病院の給食の仕事をしていたという。40代で胃がんになり、余命半年だったが薬が効き、延命。その後乳がんになり、また抗癌剤で延命。今は大腸癌でストーマになり、癌は骨にまで転移して痛みもあるという。「抗癌剤治療は辛くはなかったか。」と私が訊くと「昔は抗癌剤は半年しか使えなかったから、半年の我慢だったのよ。」と言う。「あと半年、と言う時に大学病院でのカンファレンスで、他のお医者さん達がそのままにしよう、と言うのにA先生だけが新薬を使おうと言ってくれて、それでその薬が効いて、助かったの。」と言う。「そのまま治ると思っていた。でも次は乳がん、その次は大腸癌、しかも骨転移なんて。こんな事ならあの時、A先生に助けてもらわなくても良かった。あの時死んでしまえば良かった。」と言う。私はショックを受けると同時に「それは違う。」と思った。その人が言うのは結果論だろうが、余命半年だったのに、十数年生きられたのだ。その間、楽しい事や嬉しい事も沢山あったはずだ。それは死んでしまえば味わえない事だ。だから、A先生に感謝するべきであって、「助けてもらわなくても良かった。」とは言うべきではないと、この時思った。
私も今では時々切羽つまったような気持ちになり、時々「こんなに周りに迷惑掛けるならあの時死んでも良かった。」と思う事はある。が、この時の事を思い出し、「それは違う。」と考えを転換するようにしている。

退院

2009-05-05 21:11:55 | Weblog
 二度の抗癌剤投与後、私は退院した。計68日に及ぶ入院生活であった。
季節はもう冬。仕事は辞めたので時間はあるものの、副作用で痺れる指先での家事は思ったより大変であった。点滴治療後5日位は冷たい物に触るのはだめだと言われていたので、ゴム手袋をはめて家事をした。
平均生存率22ヶ月位と言われたが、いつまで生きられるのだろう。でも生きるしかない。そう思った。これからは主人と娘達の世話だけして、楽しく余生を過ごすんだ。そう思った。治療費は、高額療養費の貸付金制度を利用出来るし、抗癌剤治療中は入院して生命保険金の入院給付金を請求する事も出来る。限度はあるが、今はそれでやっていくしかない。
 ポートの傷は意外に小さいものであった。二回目の抗癌剤治療の時にA先生が「○○さん、女性だから、ポートをなるべく小さく切ったんだよ。」と言ってくれた。手術中はかなりカリカリしていたように見えていた先生だったが、そんな風に気を遣ってもくれていたとは、正直驚いた。改めて感謝の念で一杯になった。



初抗癌剤

2009-05-04 21:33:14 | Weblog
ポート造設からわずか三日後、初めての抗癌剤治療が行われた。
大腸癌のファーストラインである、FOLFOX6と呼ばれる点滴治療で、最初は吐き気止め、次にエルプラットともう一つの輸液、次に生理食塩水の輸液、最後が5FUらしい。先生に以前、薬の順番を書いた紙を見せられ、そのコピーを頂きたいと言ったが、「見たってわからないよ。」と言われ、貰えなかったのが残念だった。最近治療法が変わって、点滴の医療ミスにあったのだが、そういうときの為に患者自身も気付けるように、複雑な点滴法であっても教えて貰えればなあ、と思った。患者側は自分の薬の事に興味があるし、書籍やインターネット等でいくらでも勉強できるのだから。
 初めての抗癌剤。ポートから針が刺された。とても痛かった。そしてオプサイトというシールでコード等を固定。このシールの臭いが少しキツイ。不安感で一杯だったがナース達が時々点滴を見にきてくれる。最後には点滴薬がタマゴのような形の帰宅型のケースになる。 FOLFOXの副作用は第一関節までの手足の指先の痺れ、脱毛、だるさ、食欲不振、白血球等の骨髄抑制等で、点滴中ではなく、点滴後に起きた。点滴後5日から一週間、私はその症状に悩まされる事になった。

僕はねッ!

2009-05-04 20:39:15 | Weblog

翌日、それほど傷は痛まなかったが、消毒と、用意されていたボルタレン座薬を使用した。ナースに傷をみてもらったが、驚いたように「きれいに縫われてる!」と言われた。確かに手術する前にA先生が見せてくださった他の患者さんのポートの写真(患者さんの承諾を得て)の傷よりもかなり小さい。これならブラジャーも着けられる。あと二年ぐらいの平均生存期間ではあるが、せめてもの慰めである。
 抗癌剤の話をA先生とした。初抗癌剤は三日後、そして二週間ごとに三日間行う。初回は入院中に行うが、その後は外来で出来るという。だが、私は抗癌剤には全く期待していなかった。抗癌剤は一時的に効くが、治るものではないはずだ。新薬と言えども、そこまでの効果は出ていないはず。
私は思わず「抗癌剤をやっても、結局治らないんですよね。」と言ってしまった。するとやる前からそんな事を言っている私にA先生はムッとしたのか、「僕はねッ!あなたの病気を治してあげようと思っているの!だからあなたも治ってやろうと思わないとダメだよッ!!」と言われた。ごもっともなんですが、トホホ・・、という気持ちだった。
「いつか薬が手放せる日が来るんだよ!」とも言われた。「本当ですか!?」と私。
結局、二年八ヶ月経った今でも薬が手放せないが、この時の私には一筋の光が見えたかのような瞬間であった。


ポート造設2

2009-05-04 20:15:24 | Weblog

レントゲン室ではナースが二人とレントゲン技師とA医師だけだった。左鎖骨と乳房の間にメスが入った。局部麻酔の為、何をやっているかわからない。
「ハサミ持ってきて!」先生がナースに叫ぶ。「○○さん、強い衝撃が来ますよ。我慢してください。」ドン!と先生の手によって強い力が胸に加わる。しばらく何かやった後、「もう一度きますよ!」と先生。ドン!とまた強い力で押されるようになる。この衝撃は何度来るんだろうか。なんだか辛くて涙が出そうだった。A先生はレントゲン技師に「もっと右、とか左、とか指示を与え、私の胸にレントゲンを当て、うまく中心静脈とカテーテルを繋げていったようだ。目を開けてみた。先生の額からはかなり汗が噴出している。ナースは全然気が利かず、汗を拭きもしない。「!」遂に先生が催促する。ナースは慌てて拭くものを取りに行ったようだ。やはりこの病院は手術慣れしていないのだ。けれどA先生を見て、私はかなり感動した。ご自身もレントゲンの放射線を浴びながら、こんなに汗をかいて患者の為に手術をしてくれるなんて、医師とはなんという崇高な職業なのだろう。A先生の背中から後光が射しているように思えた。手術はかなり時間が掛かり、結構な出血があったようだが、うまくいったようだ。最後までピリピリしていた先生だったが、最後には「キレイに縫ってあげるからね」とおっしゃって下さった。とても有り難かった。


ポート造設1

2009-05-04 19:49:23 | Weblog
ある日の夕方、ナースが呼びに来た。ポートを造設する為だ。手術室ではなく、レントゲン室で行うという。覚悟はしていたものの、実際に呼びに来られると、それが死刑執行のお呼び出しのようにも思われ、とても胸がドキドキした。皮膚をメスで切られ、中に丸い器械を入れられるのだ。人造人間になるような気もした。
私は言われるままに上半身裸になり、ベッドに横たわった。とても緊張し、鼠のようにビクビクしている私に、A先生はイライラしたのか、「○○さん、この手術はねっ、僕が今まで日常茶飯事でやってた事なの。でもそうビクビクして体引かれたりすると、うまくいくものもうまくいかなくなるかもしれないから、そんな風にしないで。」と言われた。「わかりました。」と私。それからA先生は「この手術はね、やる医師とやらない医師がいるの。」ともいう。つまりは、ここまで出来る医師と、出来ない医師がいると言う事なのだ。院長はこの道の権威とは言われているが、やはり開業医、A先生は最近まで大学病院で助手をしていたのでここまで出来る腕があるという事なのだ。「有り難いと思っています。」私は素直に感謝したが、突っけんどんに言ってしまったので先生に伝わったかどうかはわからない。「麻酔を打つのでそちらを向いて。」と言われ、A先生の手によって鎖骨の下にどんどん麻酔が打たれていく。私は目をつむった。

個人病院のメリット

2009-04-25 21:25:30 | Weblog

病院へ戻ってから、ポートを造設する点滴治療を選択する事を先生方に告げた。
院長は「近々A先生が手術してくれるから」と言った。もう私の担当はA先生になったらしい。その後「水曜か金曜に手術になると思うから。夕方頃呼びに来ると思う。」と言われた。その間、とてもドキドキして、その時が来るのが怖かった。
頭の中を整理してみた。大学病院に行けば良かったのか。セカンドオピニオンは必要ではなかったのか。違う。大学病院は確かに設備が一番整っているし、医師、看護師等のスタッフも優秀だし、何よりも安心である。が、私の場合、緊急に検査・手術が必要だった。大学病院であれば検査予定も手術予定も満杯で、私のような患者は沢山いる。だからここのように緊急に大腸内視鏡検査や開腹手術をしてくれることはない。それが出来たのは、ここが個人病院だからだ。この個人病院に、たまたま大学病院から来た先生が常勤していた事は不幸中の幸いだったと言える。そして後から分かった事ではあるが、A先生が信念のある医師であった事も幸いであった。しばらくはA先生が何故このような町医者にいるのか、謎であったが、よく新聞や雑誌やドラマで目にする「大学病院の医局の内部はドロドロしてるっぽい」事と、A先生のどこか熱血なところのある性格を見ていたら、分かる気がした。また、患部が肛門から遠い所にあったので人工肛門にならなかった事も幸いであった。