万世六兵太の乾坤一擲!

阪神と競馬を愛し、歴史を実学として学ぶ万世六兵太による単勝・複勝の競馬の展望・予想・勝負ブログ、日々のつぶやきも少々

沖縄旅行1日目

2019年02月07日 01時43分02秒 | その他
1月29~31日まで友人である局長氏と沖縄に旅行に行ってきました。
戦跡巡りの旅行ですが、色々回ってきたのを写真(タブレットにて撮影)を撮ってきました。

1月29日(火)
羽田空港にて局長氏と0750に待ち合わせ

局長「間違って成田に行っていないか気になりましたよ」

※実は自分が出発時に某新小岩で電車待ちの時成田方面に並んで途中で気づいたことは公然の秘密

ちゃっちゃと搭乗手続きを取って羽田から一路沖縄那覇空港に
3時間ほどで那覇空港に到着


出発時は気温が15度~18度と聞いていたので寒いかと思ったらかなり過ごしやすい
その後空港にてレンタカー会社への直通バスに乗りOTS(?)とかいうレンタカー会社へ

今回の旅行、局長が車を運転してくれました(自分は免許は持っているけど以下略なので)。
改めて局長には感謝。

そのあと昼食をとるために色々回っていると
局長「今日のお昼、沖縄のマックみたいなとこでいいです?」
万世「?。いいけど」

で昼食は某ショッピングモールのA&Wレストランのハンバーガー



このA&Wレストランというのは日本では沖縄県にしか存在しないらしい。
昔は近畿や東京、福岡にもあったらしいが撤退。再進出の計画もあったが撤退している。

クリームソーダとかA&Wブランドの飲料は輸入業者を通して発売。(日本国内では製造されていない)

局長「ここではA&Wのことを「エンダー」と言われているらしいですね」
万世「エンダアアアアアアアアア」
局長「(無視して)A&Wは「日本初のファストフードレストラン」で1号店である屋宜原店は1963年にオープンですし、マック(1971年)・ケンチキ(1970年)の日本進出より早いですね」
万世「沖縄県復帰をカウントするとドムドムハンバーガー(1970年)という見方もできるけどね。そうすると鎌倉幕府成立何年説みたいな感じになるのでまあどっちもありということでw」

(参考:A&Wの公式サイト)

昼食をとった後に海沿いをドライブしつつ海岸



海を眺めていると空港に近いせいか飛行機がビュンビュン飛んでくるという


ドライブ終わった後は最初の目的地である沖縄陸軍病院の南風原壕群20号と南風原文化センターに。



万世「南風原を見て一発で読める人っているのかな」
局長「まあいないでしょうね。これでどうやれば「はえばる」と読めるのでしょうね」
万世「原を「ばる」と読むくらいしかとっかかりがない。それにしても沖縄は難読地名が多い気はする」

(沖縄の難読地名の一部)
北谷(ちゃたん)喜屋武(きゃん)豊見城(とみぐすく)
保栄茂(びん)奥武山(おうのやま)西原(いりばる)西武門(にしんじょう)美作(ちゅらさく)今帰仁(なきじん)
東風平(こちんだ)東山(あがりやま)

万世「西原と西武門とか西を「いり」と読ませるのか「にし」と読ませるのかはっきりして欲しいと言いたくはなる」
局長「豊見城にお城あったら「とみぐすくぐすく」とかになるんでしょうかね」
万世「保栄茂とか昔の自民党の幹事長や官房長官にいそうな名前だし」
局長「それは保利茂(ほりしげる)です」

南風原町の由来は「南風が吹く豊かな土地」という意味で、南国ムードを感じさせるロマンチックな町と南風原町観光協会の公式サイトには書かれております。この南風原は沖縄戦に於いての戦争の傷跡をかなり残す場所というもう一つの顔があったりします

この南風原だけでなく、今観光地となってる箇所~例えば首里城など~も中世の琉球王国の歴史という部分もありますが、沖縄戦の激戦区となった場所という部分もあります。

何回か沖縄に訪問しておりますが、この南風原の陸軍病院に訪問するのは初めてです
南風原文化センターでまず歴史を見てから、実際合った沖縄陸軍病院の南風原壕群20号を廻ることに(因みに南風原の病院壕見学は予約が必要です)

DVDの個所以外は撮影可能ということなので撮影しつつ内部へ進むことに



樽を二人で担ぎつつ、炊事場から『飯上げの道』を通った女学生です。
炊事場で作られた握り飯を500m近くある病院壕まで『飯上げの道』を通って運びました。(飯上げの道に関しては後述)



病院壕で使われた日用品の一部です。




病院壕の寝台です。狭い壕の中の2段ベッド。湿度が高く、内部は暗く、臭い等が充満する手掘りの病院壕は当然ながら衛生環境としては最悪の部類でその中に負傷兵が押し込まれた形になります。

食事として先ほどの女学生が炊事場から運んできたおにぎりも配られますが、1食1個ではなく1日1個です。最初はテニスボールくらいの大きさだったのに、最後の方はピンポン玉の大きさになったと。


病院壕も最初は内科・外科・精神科などに分かれていたのですが、余りにも重傷者が多いため第1外科・第2外科・第3外科(全部外科じゃないか!)に編成替えをしたとのこと。



病院壕の中の手術室の様子です。医療品も不足しているので満足な治療はできず、麻酔なしの手術とか、あとは負傷箇所を鋸等で切り落とすというそれを手術と呼んでいいのか?というようなこともしていたとのこと。
軍医の人形のある背後の光は当時は蝋燭の火でした。資料館の為やや明るいですが、当時はかなり暗かった(というか見えない?)と推測されます。





戦況が悪化すると首里方面から南部(糸満市方面…ひめゆりの塔がある方)への撤退ということで自力歩行の患者を連れて撤退することになるのですが、その時連れていけない患者を「生きて虜囚の辱めを受けず」ということあるいは「捕虜になって情報が漏れるのを恐れる(?)」こともあってミルク入りの青酸カリで自決(自殺させること)に追い込んだということも。

病院ってある意味命を救える可能性のある場所なのに、命を奪う場所に…。

これに関しては第32軍がとか日本軍がということではなく、戦争という切羽詰まって窮地になったときに人はかくも残酷になれるのかということ、「大を生かすために小を殺す」(沖縄戦自体がある意味本土(大)から見たら沖縄は(小)ということになるが)の観点からこうするしかなかったのかということ、こういう状況に陥ったときに他国はどのような対応をするかなどの比較をしてみないとどう判断すればいいかわからないなど色々意見があるかもかわかりませんが、戦争に於いてはこういう事実もあるということです。
戦争は悲惨(当たり前だが)と簡単に片づけられない問題です。




奉安殿とその様子です。奉安殿には天皇陛下の御真影が収められています。


戦時中に行われた国民貯蓄運動。戦時における国民貯蓄というのは、戦争目的を遂行するために国家が必要とする国債の消化や生産力の拡充に充てるべき資金を蓄積。つまり貯蓄させてその資金を軍備に回そうということです。(顧客の預金を他に融資する形とみればわかりやすいでしょうか?)
国債なども買うことを奨励(半分強制)させました。なお戦争に負けて紙くずになった模様。



南風原における戦争の遺品です。




戦前・戦時に於ける学校や教育などの写真です。戦時中は小学甲は国民学校と言われてました



学童疎開についても。沖縄に於いては「対馬丸の悲劇」が有名でしょうか。(実は沖縄からの疎開船で沈められたのは『対馬丸』だけというのはあまり知られていないかもしれませんが)
ヤーサン ヒーサン シカラーサンとは「ひもじい 寒い(?) 寂しい」ですね。(記憶違いかもしれませんが)






この辺りは是非とも沖縄旅行で南風原に来た際に皆さんにじっくり見ていただきたいものです



移民開拓団。沖縄県からも満州や南洋諸島、戦争前は南米やアメリカにも多数の方が移民したとのこと


じっくり見て回っていたら「もう壕の見学のご予約のお時間ですが」という係員の方の声
まだ沖縄戦のところも69.75%くらいしか見ていないのに…。
「すみません。30分ほど遅れてよろしいですか」と

いうことで沖縄戦コーナーだけは全部見て、戦後は次回来た時にじっくり見るということにして
戦後の沖縄コーナーはざっとみて(おい)。壕へ。

30分あれば全部見られるだろうという人もいると思うのですが、壕へ移動するのにこの道を通るから
30分で見ることができないのです。この道というのが「飯上げの道」です




麓にある炊事場から病院壕のある個所に片道500mくらいの山道を1日に何回か(朝昼晩?)この道を通って女学生たちが樽に握り飯を詰めて砲弾(航空機による機銃掃射も含む)のさなかが飛び交う中、病院壕に輸送しました。

今でこそこのように整備されていますが、当時はこんなに舗装されておりませんし(そもそも当時そんな工業力あれば以下略)、移動しにくい道ですし、雨期になるときっとぬかるんで移動するだけでもかなり困難であったでしょう。その道を重さにして17キロ~20キロの飯入りの樽を運んだわけで、さらに砲弾や機銃掃射の中なわけですから。

17キロというのが想像しにくい方はコンビニ等で売っているペットボトル飲料。段ボールで24本入りの500mlペットボトルが12キロです。それより重いのを山道を女性が運んでいたわけです。





南風原の陸軍病院壕の碑です。
この南風原に陸軍病院壕を置いた理由としては、首里の後方ということもあるのでしょうが沖縄県で唯一海に面しない自治体というのもあるのでしょう(海に面しないということは艦砲射撃【戦艦などによる砲撃】が届く確率が減る)
なお、制空権はとられていたため航空機はバンバン飛んでくる模様






下2枚の下り道が当時の道を再現(それでも十分整備されているとは思いますが)していると言えるでしょう。
樽を担いで体験することもできるそうです


南風原の壕付近の碑です。軍医さんの読んだ詩とのことです。

いよいよ南風原の陸軍病院壕なのですが、じっくり見ていて写真を撮るのを忘れてしまいました。
ガイドの人がじっくり説明してくれて話を聞き入っていたというのもありますが、次回行ったときはこの内部写真をとってきます(おい)

詳しくは「南風原 陸軍病院」を検索してください。結構訪問されている方もいらっしゃり、記事や内容もここよりは遥かにいいです。

沖縄に何回か訪問させていただき、沖縄戦に於いては定番のひめゆりの塔、平和祈念公園などがありますが、どちらかというと自分の場合は激戦区であった嘉数高地、シュガーローフ、首里の32軍地下壕といったいわゆる軍事的なもの向けのほうに興味があってそっちに目移りしてしまいます。

一般の人が中高での平和学習等で戦争と平和の「平和」の部分について多くを学んでいくのに対し、自分はその時期にどうも「戦争」「軍事」という部分に重点をおいていたせいか「平和」に関する部分に関して希薄というかやや醒めた感じもあるのは否めません。
軍事的な視点でこうであるとか、戦争において非情で冷酷な部分についても。

ただ30を超えてから「歴史を学び軍事を学ぶのは何のためか」ということを考えるようになりそういう視点とともに改めて「平和」とは何ぞやというのも考えるようになって、軍事的や歴史的な視点とは違った視点や考えも必要であると。

そういうことにおいて自分にとって沖縄であるとか広島、長崎(まだ行ったことはないけど)は今まで自分にとって欠けていたものの再学習の場所になるのであろうかと。自分なりに沖縄などに訪問して戦跡や慰霊碑を廻るというのは

最後に南風原を廻った後に名護方面に行き桜を見てきました。
例年と比べると遅咲きとのことです




2日目に続く(のか?)


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