蛭児の葦船

救いようが無さそうな感じのアホが

        ピコピコと鳴いています。

これといって変わらない日常

2009-03-31 18:19:00 | そこに転がっている日常
 ・文章で厳重注意とはなんぞや?

 テレビ局が放送倫理規定に違反したとかで、政府組織だったかがテレビ局に対して文書よる厳重注意を行ったらしい。
 それなりの信用性を持って全国に情報を流しているテレビ局に置いてこの手の話はあってはならないもののはずなのに、近頃はよくある話のように思えてならない。
 ……テレビ局の信頼も落ちたものだね。
 ところでところで、この政府組織による文書による厳重注意というのは一体どのようなものなのだろう?
 「あんたの局、倫理違反したよ。今後は注意してね」といった内容の書かれた紙がテレビ局の人間、それも社長あたりの重役の手に渡されるであろうことは、なんとなく想像がつく。
 でも、僕の思考が現実(にあしろうな)感(じ)を持って想像できるのは、文章の書かれた紙ペラ一枚を持ってたたずむ渋い壮年男性の姿ばかりで、その文書が渡されるシーンもその後の対応も、全然頭に浮かんでこない。
 まさか、その文章が社長室のファックスにブブブブブブ……、といった具合に届けられることは、まずないだろう。
 でも、テレビ局の一室に局関係者と役人たちが向かい合って一列に並んで、代表者が文章を受け渡し受け取る卒業証書授与式のような光景も、なんとなく違う気がする。
 「平成××年、×月×日、当局の番組××に置いて、報道倫理違反があった。内容は以下に詳しく書かれている。ことを厳正に改善するように」
 「はい。当局もご指摘、真摯に受け止め、これからは最新の注意を払って番組作りに務めたいと思います」
 ……なんてやり取りはありそうだけど、これじゃあ、ただ苦情が書かれた文章の受け渡しがあっただけで、なんというか違反を犯したものに対する処罰的なニュアンスに欠けている。
 規則に対する違反があったのだから、それこそ髷を切り落とされた侍が我が身を恥じて腹を切るような、社内にそんな空気の立ち込め放送内容にもそれ相応の変化が見られてしかるべきではなかろうか。
 いや、もしかしたらそのテレビ局は煙でいぶされた蜂の巣のような騒ぎが起きているかも知れず、僕がそれをしらないだけなのかもしれないけど、果たして実際のところは「文書による厳重注意」で何が起こっているのだろうか?
 ニュースの一コマを見て、僕の知らない世界の事に少しだけ好奇心がうずいた。

 
 ・一定周期で(僕に)訪れるオカルトブーム

 オカルト的なものが、たまに凄く気になる。
 ある日突然に、ネットで心霊系の怖い話を読み漁ったり、夜の墓場に散歩に行ってみたり、体外離脱なるものを体験してみたく挑戦してみたりしたくなるのだ。
 何でかは分からない。ただとにかく気になってしまうのだ。
 しかし、(手軽なものに)いろいろと挑戦してみたところで、僕はそのことごとくに撃沈している。
 怖い話を百話読んでも背中には自分のぜい肉の気配しか感じないし、夜の墓場に行っても運動会はおろかのっぺらぼうや鬼火の一つも見れやしない、体外離脱に挑戦しようと睡眠・二度寝に励んでみても怠惰に時間を浪費するばかり。
 まったくもって成果はなく、そのうちに飽きて挑戦していることにも忘れてしまうのだけど、それでも時間がたつとまた懲りずになにかオカルト的なものが気になる、気になる。
 そんなこんなで今、僕の中では前世ブームに火がつきそうな予感だ。
 「貴方の前世は、中世ヨーロッパの王侯貴族……、に蔑みの目で見られた浮浪者……に踏みつけられたミミズです」
 といった感じに占い師に判断してもらう類の前世ではなく、催眠により自の目で見る、そんな前世が気になる。
 最近、古本屋で「前世療法」なる本を買ってしまった。(僅かに百円ブックオフ!)それによると、退行催眠で過去にさかのぼり続けると、不思議なことに現世の記憶をぶっちぎって自分が自分になる前の記憶なるものを垣間見てしまうという。
 その本の趣旨のように、前世の記憶を除いて現在の悩みをすっきり解決! といった願望は僕にはないけど、でも見れるものなら前世の記憶とやらも見てみたいと思う。
 自分が見ることの叶わない、残された写真・文献・遺跡などから想像するしかない、自分が存在しなかった時間。そのときの光景を見れたら、なんかひどく楽しそうだよね。好奇心を、そそるよね。
 僕は最近は前世ブームだ。もう少し、情報を集めてみたらとりあえずこれにも挑戦してみようと思う。
 
 ……どーでもいいけど、この手の趣味って現実において表立って語れるものじゃないよなぁ。
 胡散臭すぎて。
 そのうさんくささが、ときどきどうしようもなく魅力的なんだけど。

巣立ち

2009-03-29 20:29:01 | そこに転がっている日常
 来月から現地に飛ぶというのに、引越しの支度を始めたのが先週中ごろだった。
 両親に言わせると一ヶ月ぐらいかけで着々と準備を進めるそれを、数日間で終わらせればならないので今この家は、落ち着きのない空気に包まれている。
 リビングに置いてある兄の私物が詰まったダンボール。流し台に詰まれていく、自室の放置されていた空き瓶・空き缶の山。
 家の一部が部屋にあふれてくる一方、これまで家中に散らかっていたものも段ボール箱に詰められ、廊下や洗濯物置き場の和室は対照的に閑散としていく。人間一人がいなくなるこの家が、それに順応するように表情か何かを変化させているような感じだ。
 荷物の整理に追われる兄と、それを手伝う父。二人は引越しについての言葉を交わし、時折、父が説教じみた口調でモノを言い、兄は辟易した様子で反論している。
 そんな様子を眺めながら、僕はその光景にも兄が家を出るという事にも、いまいち現実感を覚えることができない。すべては劇中の出来事かあるいは夢の中の出来事のようで、そこに感じるのはちょっとしたことで消え去ってしまう薄っぺらさばかりだった。
 なぜだろう?
 これまで、同じ家にいながら兄と接触する機会があまりなかったからだろうか。
 それとも、僕がこの現実を、変化を、受け入れることが出来ていないからだろうか。
 考えてみても、出てくる答えはどこまでも魂の宿らない理性の推論で、“僕の心の答え”はいつまでも口を開かない。

 兄が去ったあとの生活。
 深夜、リビングに降りてもそこに電灯がともっていることはないのだろう。
 朝や昼、洗濯物を干したり取り込んだりする際、寝ている兄に気まずい思いをすることもなくなるのだろう。(我が家は、兄の部屋から出れるベランダに洗濯物を干している)
 流し台に食器が放置されることもなければ、家中に彼の私物が放置されているなんてこともも、もうなくなるのだろう。
 彼のかけていた迷惑の、ことごとくがなくなる。
 想像してみると、ずいぶんと気楽になりそうな感じもする。
 ただ、かけられていた迷惑が消えるということは、その分の心への影響や(不満という形であったにせよ)話題が消えるという感じもある。
 でも、だからなんなのだろう。
 兄が不在いう状況は、過去にもある。大学のキャンパスが自宅から通うには不便だった二年間、彼は下宿をしていた。
 当時との違いなど、家に帰属していたか、自立するのか、その程度のものではないのか。
 兄が下宿をしていたころも、妹が下宿をし始めたときも、いまも、僕は自分の問題で手一杯で、この手の変化を想像することも実感を得ることも全然できやしない。

 僕の魂は硬化して、変化に適応できなくなってしまっているのではなかろうか、とふと思う。
 そして、そんな変化に鈍い僕など一顧だにせず、時間は進み世界は変わる。

そんなとこにいるはずもないのに

2009-03-27 23:03:16 | そこに転がっている日常
 我が家の洗濯用洗剤が、再び恐怖のボ×ルドになった。
 おかげで家中鼻がもげそうなにおいが充満している。
 花粉症に続き、この仕打ち。
 あの洗剤を買ってきた人間は(十中八九父だけど)、鼻がおかしいんじゃないだろうか? あのにおいが染み付いた部屋で過ごして、あのにおいが染み付いた服をきて一日過ごして、正気でいられるなんてどうかしている。
 これが初めてのことなら、それは知らなかったんだから仕方がない。でも、今回は二回目。きっと、意図的に買ってきているのだろう。
 これは、やばい。息もまともにできやしない。 
 あー、なんだかなー。俺今日あたり呼吸困難で衝天するかも……。
 後、一時間ぐらいしかないけど。
 

 ・秒速五センチメートル

 ネタばれ含む。


 一話だけ見て、それからしばらく放置したのを、今日ようやく全部見た。
 一話で切ないながらもいい雰囲気になっていたのに、二話三話と加速度的に切なさ倍増しちゃったね、あれ。しかも、五センチメートルのベクトルに。
 タイトルどおりといえばタイトルどおりなのかもしれないけどさ、あっち行っちゃうんだ。
 一話を見たときから少しばかり時間が経ってるから、衝撃はそれほど大きくなかったけど、同じ理由でなんだかなー、という気持ちもわいてくる。
 いや、面白かったけどね。

 以下、小粒感想。

 「千回もメールをしたのに、私達は一センチも近づけなかったね」
 だっけ? 失恋メール。
 あれを読んで、
 結局、時間を切り取って文字で綴るメール・手紙には五センチ進むだけの時間も動かすことなく、時を動かすのは現実・実際においての交際なんだね。
 などと思った。

 「過去の約束に囚われる男、過去の約束など思い出に過ぎない女」的な構図を見て。
 なんか、男は未練がましく女はさばさばしている、という話をよく聞くような気がする。今回の話とか。(あれは実際に付き合ったんだっけ?)
 三話を見ていて、何でだろう? と少しだけ考えてみた。

 ……うろ覚えの記憶が正しければ、対人の記憶や感情にまつわる記憶に関して、脳幹だかなんだかの構造上、女性のほうが男性よりも記憶能力・出力能力が高い。
 男は、連れ合いとの記念日を忘れ、相手の誕生日を忘れ、相手を傷つけたことなど最優先消去項目のごとく記憶から滅ぼし、細かいことから大きなことまで何でもかんでも次々とモノを忘れていくのに対し、女はそのすべてを覚えていて、大切な日々を忘れてしまった相手に恨み辛みを溜め込んでいくと聞く。
 しかも、女はことあるごとにそれら積み立て式に溜め込んだ不満を思い出し、進行形の心の痛みのように記憶の感触を感じ、いずれ溜まったものを爆発させる日をひっそりと待ちわびているらしい。
 対する男の記憶など、ザルと同義だとかなんとか。
 だから、昔の約束やらなにやらに煩わされるのは、男より女になるのではなかろうか? と僕は思わなくもない。
 
 しかし、実際に聞こえてくる話においては、未練がましく過去に煩わされるのは男だと相場が決まっていて、女は現実的にさばさばしたたかに生きている。
 これはなぜか。
 もう少しだけ考えてみると、上に書いたのと同じ理由で過去に対して淡白になる必要があると、そんな気がしてきた。
 過去のことを痛みも、感情も含め鮮明に思い出すこと。それは、過去の感情に対して何らかの整理をつけないと、常に過去のことに煩わされ続けるということでもある。
 男ならある程度無視することの出来る心の傷でも、女にとっては今を生きることに支障をきたすほどの傷であり、自分が存続するため可及的速やかにその傷を癒さなければならない。
 そして傷と共に生きていく男を横目に、女は痛みを過去に、思い出にとしてしまうのだ。……たぶん。
 だから、女はこの手の話題にも現実的に、冷徹とも思える対応がとれるのだろう。
 三話の展開を見て、ふとそんなことを思った。(いや、もしかしたらこれは、どこかで見たことのある知識で、僕は原本を忘れたままその知識を思い出しただけなのかもしれないけど)

なにを書こうかな

2009-03-26 22:13:28 | そこに転がっている日常
 ・メール

 今日、ずいぶんと連絡を取っていない人から、アドレスが変わったとメールが来た。
 それは登録している人間に一括送信しているんだろうけど、僕にはその律儀さにちょっとだけ感動してしまった。
 僕なら、もし僕がアドレスを変えようものなら、変わってしまったアドレスを伝える相手は必要最小限にとどめてしまう。
 だって、互いに連絡などしないのに、窓口を設けておくなんて無駄じゃないか。むしろ、その名前を起点にネガティブ・フレッシュバックが起こってしまうかもしれず、それは無駄どころか有害要因になる。
 だったら、すべてすっきりすっかり捨て去ってしまったほうが、僕はいいと思ってしまう。(そんなこと言ってるから僕の人間関係が希薄になっていくんだろうけど)
 確かに、人間関係の選別はいろんな人に悪感情を抱かせる恐れがある。連絡が通じる限りそうした知らせは送ったほうがいいのかもしれない。
 でも、僕は去年、彼からのアドレス変更の連絡に返信していない。アドレス帳から名前を破棄してしまう大義名分が、彼には十分にあるのだ。
 それでも、彼はメールを送ってきた。とても僕にはできないマネだ。
 うん。今度はちゃんと、了解の旨の返信でも送ろう。
 ……明日ぐらいに、覚えていたら。

 
 ・日本史
 
 部屋に日本史の教科書が転がっていた。
 それを媒介に高校時代の記憶を思い起こそうとしたけれど、先の飲み会で高三担任教師と再会したときと同じく、なにも思い出せなかった。
 元担任が日本史を教えていて、僕はその授業を受けていたはずなのに、一切、なにも。

 それはともかく、学生業を廃業した今改めて教科書を眺めてみると、やっぱり日本史はどこまでも日本史なんだな、なる感想が浮かんできた。
 鎖国やら地理的条件やらで、江戸末期までほとんど外国の存在がでてきやしない。
 日本文化の親父格に当たる中国は、日本が技術吸収をする際、デウス・エクス・マキナのような都合のよさでちょろっと出てくるだけだし、一応の隣国・朝鮮も百済のころと通信使の名前が少しだけ。
 シャムに南蛮、種子島にザビエルなどと外国の影がちらつかないわけではないのだけど、その扱いや出番があまりに乏しい。
 重要なのは、常に自国のことばかり。
 これがアジア・欧州の歴史となれば、自国の国の歴史をやるにしても他国に占領されたり侵略してみたりと否応なく他国の話が頻出しそうなものだ。
 元とかローマとかオスマントルコとか。
 そう、実際に占領までされてしまって、一時とはいえ他国であった時間もあるのだ。何度も何度も、国境線は書き換えられた。
 自国史だけをやろうとして、自他の侵略が否応なく地域史・世界史の領域まで学ぶ範囲を広げてしまうような、そんな気がする。
 他国の自国史の教科書って、いったいどうなっていることだか?
 ……日本史の教科書は自国のことばかりだ。

カウンセリング

2009-03-25 23:53:04 | そこに転がっている日常
 精神科も予防接種とか始めればいいのにね。
 注射一本で鬱病予防。これさえ受ければ人生一生欝知らず。充実感あふれる毎日を遅れます、といった具合で。
 でも、精神科にできるのは麻薬でも処方するか、ロボトミー手術のごとく脳みそのほうをちょいと弄くるかぐらいだろうな。
 それも、人間多くは麻薬でジャンキーになるのも脳みそシェイクで廃人になるのもいやだろうから、流行らないだろうしね。

 ところでところで、最近ふと気になったのだけど精神科医……というかカウンセラーかな、とにかく心の病を治療する人達ってのは、夢の領域まで治療してくれたりするのかな。
 「至高聖所」とか連日悪夢にうなされる人の日記を読むと、心の治療は夢のほうにまで手を伸ばせたほうがいいんじゃないだろうか、と思う。
 悪夢は、日常生活で受けたストレスの記憶を睡眠中に整理・再認識するために見るようなものであるから、問題の根本治療には日常のストレス緩和から始めたほうがよさそうなのは、なんとなく知ってる。いや、勝手にそう思ってる。
 でも、睡眠は心身ともに休息をえる重要な時間で、その時間にさえ傷を負いなにかを失っているようでは、何気ない日常ですら覚束なくなるのではなかろうか?
 僕は浅学で、カウンセリングと夢にまつわる話は抑圧された心情を知るための夢診断ぐらいしか聞いたことがないのだけど、現場のほうはどうなっているのだろう?
 なんとなく、思った次第。

書くことがないのです。

2009-03-24 23:43:41 | そこに転がっている日常
 ・松村栄子

 松村栄子さんの「至高聖所」を買いました。ついでに、「001にやさしいゆりかご」を図書館で借りました。
 松村さんの作品は専門学校時代クラスメイトに「紫の砂漠」を紹介していただいて、それ以来ちょくちょくと読んでいます。
 どうやら、この作者の作品の雰囲気は結構僕の好みに合致するようです。
 しかし前に借りた読んだ、「僕はかぐや姫」は本当に良かったですよ。
 実のところ、古本屋で松村さんを探したのは「かぐや姫」の方が欲しかったから。出来れば好きなときに読めるよう、手元に置いておきたいものです。

 
 ・WBC

 夕方にテレビをつけると日本が優勝したことを告げていた。どの局も一様にこの話題で持ちきりで、「わざわざすべての局でやらなくても、二つ三つの局が知らせればそれでいいじゃん」なんて思ってしまうのが、僕がこの話題にあまり興味がないからか。
 別に、日本が勝とうと、韓国が勝とうと、それがどうしたことだというのだろう。
 日本人にしろ韓国人にしろ、一箇所に集まって試合の展開に一喜一憂する人々。彼らを姿を流すテレビ。僕が感じるのは、落胆に対するほのかな罪悪感と、盛り上がりに対する冷めた感情ばかり。 
 こういったものは、対戦形式の世界大会のたびになんとなく思うことで、そのたびにどうにも、僕はこの手の祭典というものが好きになれない人間なのだと自覚させられる。
 

 ・おしまい
 
 今日はこんな感じで。
 今日みたいに書くネタがないという日は、自分はモノを書くだけの能力も意味も価値もない人間なんじゃないかな、と感じて少し落ち込んでしまう。
 心があって存在が有意義であるなら書くことなんて自然に無限にわいてくるはず。
 それなのに書けない僕って、空っぽなのかなぁ、とたまに思う。
 

バトンを持ったら全力疾走

2009-03-23 23:29:53 | そこに転がっている日常
 心が、弱ってるのかな。
 それとも、元から現実に対して耐性とかないし、なにもなくても勝手にへこむタイプだからな、これで正常の状態なのかな。
 指が弾むがまま、特別考えずに頭のようなことを書いてしまうと、自分の心ってずいぶんと貧弱なんだなぁ、と改めて思い知らされる。
 こんなんで自分は、どうやって生きていくんだろう? 社会が不安定になればなるほど、生きていけない気がしてしまう。
 もう少し、プラス思考になりたいものだ。
 今年、僕に年賀状を送ってきた友人は手紙に、「今年の目標は、人生を楽しむこと」などと書いていたけど、その心意気を見習いたいよ。
 でも、どうやって……?

 
 さてさて、いつもの方のブログにバトンが転がっているのを見つけたので、もったいない精神を炸裂させて早速に答えるといたしましょう。
 なんか暗くなっている自分に浸っているような上の文章はもうどこかにうっちゃって、気分切り替えていきましょう!

 ・そんなわけでバトン

  ----

 その昔、「I LOVE YOU」を夏目漱石が『月がキレイですね』と訳し、
 二葉亭四迷は『わたし、死んでもいいわ』と訳したと言います。

 さて、あなたなら「I LOVE YOU」をなんと訳しますか?
 もちろん、「好き」や「愛してる」など直接的な表現を使わずにお願いします。

  -----

  「ごめんなさい。さようなら」

  -----

 ・回す人
 見たら拾って、出来ればその答えを僕に報告して欲しいものです。


 一問一答の短いバトンだけど、これはなかなか面白い内容だけよね。
 自分にとって愛情とは何か? あるいはそのあり方や気持ちはどのようなものなのか? 僕にとってはそんなことで自分と向き合うことになる質問だったよ。
 
 実のところこのバトンを見たのは昨日のことで、結構悩んだな~。質問を見た瞬間なんて特に、それ以外のことが考えられなくなってしまったよ。

 最初に思ったことは、「あい・らぶ・ゆー」ってもークリティカルヒットな感じに言ってるんだから直接好きやら愛してるやら言えばいいじゃん、だった。
 絶対的に言うことないと思ってるこの言葉だけど、でももし言うのならそれ相応の覚悟というか意思のようなものを固め固まっている状態であるはずだ。ならば、「月がきれいですね」やらなにやらと相手に伝わらない言葉を選んでどうするんだと、僕はそー思うんだよ。
 重ねて言うけど、その外国語は一切の混じりけなく、婉曲表現もなく、最小限の言葉をもって自分の明確な意思を相手に伝えているのだ。
 それなのに、「月はきれいですね」だって? 「私、死んでもいいわ」だって?
 気持ちは分からんでもないし言葉として悪いとは言わないけど、月あたりで死んでろ、とでも言いたいね。うん。まさしく、くたばってしまえ、だよ。
 ……これはちょっと言い過ぎかもしれないけど、でもさー、相手に自分の気持ちをぶつけてるんだからさー、その言い回しは卑怯だし臆病だろー。
 真にその言葉を言うんだったら、純粋なその心のまま魂をむき出しにして、想いの意味を持つイデアの言葉にすべてを込めて、ただ一言口にしちゃえよ。
 それは、宣言であり誓いであり言霊なんだよ。妙な混ぜ物なんてしたら、伝わるものも伝わらんだろう。三千院くんみたいにさ。
 
 始めは本当にそんな風に思った。僕にはさしたる恋愛経験はなく、交際経験は皆無で、愛とか恋とかそんなものを実際的に知らない上に、自分で言う気がさらさらないから素直にそう思った。
 でも、問いは直接の言葉はタブーになっているし、確かに純粋形の言葉は“僕の言葉”ではないので、最初の感想は脇にのけて問いの意図に沿って答えを考えてみることにした。
 そーしてみると、この問いはやたらと難しい。
 経験不足の僕なのでその価値観が定まっておらず、こんな状態で言葉をひねり出しても他人の言葉の引用になってしまうだけ。
 「あんたがいなきゃだめなの」
 「お望みとあらば、地獄まで」
 「僕は僕なりに君のことを大切に思っているよ」
 「~さんは世界で一番 大切な女の子です」
 などなどなど、どれもこれも漫画の台詞ばっかり。自分の言葉が出てきやしない。
 頭の中で空回りして答えが見出せない、自分の“好きである”こと意味、意思、目的、心情。
 好きであること。
 それは、相手に対してどうしたいということなのか? そして自分の気持ちの何を伝えたいのか?
 そばにいたい……?
 相手の存在を感じていたい……?
 自分を感じて欲しい……?
 相手の感じてるものを感じたい……?
 相手のすべて欲しい……?
 その人が純粋にその人らしくあって欲しい……?
 あいての存在を全力で認める……?
 こちらの存在を認めて欲しい……?
 浮かんでは消える言葉と想いの断片は、果たして僕自身のものか、それともいつか見た他人の言葉なのか。
 考えれば考えるほど、すべてがあやふやになっていく。
 問いが面白かったから、つい真剣に考えて、考えすぎてしまった。
 そして、昨日の時点では、相手の存在/意思を感じたい/知りたい、といった旨の言葉が一番心にはまる言葉かなぁと、なんとなく思っていた。
 
 そして、一夜明けて今夜のこと。
 手が空いた時間に改めて問いの答え、心にかなう言葉を考えていて、ようやく出た結論が上の言葉だった。
 最初は「さようなら」だけだったのだけど、それに「ごめんなさい」が加わって、完成した心の言葉。
 唐突に頭に浮かんできて、今の僕の心に見事に当てはまった言葉。
 世間一般にかなう内容だとは到底思わないけど、でもこれが今の“僕の言葉”だなぁ。
 
 追記:
 昨日、一夜だけ妹が帰ってきたので彼女にもこの質問をぶつけてみた。
 すると彼女はわずかな間迷いはしたが、思いのほか早く結論を出した。僕は、悩むだけで結論はでないと思っていたので驚いてしまったよ。
 そんな彼女の答えは、
「ずっと一緒にいます」
 だって。それは、なんだか自身あり気というか、確信的な物言いだった。
 今現在交際している相手がいると、その手の感情もはっきりするものなんだね。

近所の子供の珍妙な噂

2009-03-22 23:02:40 | そこに転がっている日常
 とある4歳の少年の噂を聞いた。
 彼の好みが非常に変わっていると、そういう話を耳にした。
 その少年のことを僕は何度か見かけたことがあり、つぶらで無邪気な瞳と親しみの持てる笑顔、それに幼いわりにすっきりしている体と、なんかずいぶんと可愛い少年だという印象をもっている。
 幼い生き物は無情権に可愛いとは良く聞く話だけど、それを差し置いても彼はかわいらしい外見をした少年だろう。かつて親戚の家で遭遇したいとこの子供とは比較にならないし、彼を見ていると子供を天使のような、と言いたくなる気持ちが察せられるほどに可愛いと思う。
 そんな、幼く愛くるしい少年の好みが同年代の子供と比べて、いや、一般人と比べてもだいぶ変わっているというのだ。
 
 ある人の体験談だが、その少年が本を大事そうに抱えているので猫なで声で「見せてくれるかな~」などといったそうな。
 すると、少年は呼ばれるままにその人の下にかけていき、本を広げてお気に入りの絵を見せたという。
 大抵の子供ならそこで広げる本は絵本かせいぜいが戦隊モノかお母さんと一緒のキャラが乗っている雑誌になるだろう。
 しかし、彼が広げたのは芸術関係の雑誌であり、見せたものは阿修羅像だったか仁王像だったか、とにかくゴツイ仏像だった。
 少年は自分の好きなものに他人が興味を示したことが御気に召したのだろう、嬉々としてその仏像の写真を指差したという。
 
 齢四歳にして仏像好き。大人でも、稀有な嗜好だろうに……。
 少年の家族の語るところによると、少年は駅などに貼ってある仏像のポスターを目にすると、そのまま見入って動かなくなってしまうという。
 どこぞのラノベに仏像鑑賞が趣味のキャラがいたのを呼んだことがあるのけど、現実世界で、しかも四歳の少年が趣味にしていると聞くと僕はもう面食らってしまった。
 
 世の中は広く、数多いる人間は例外なくそれぞれに自分の世界を持っている。男も、女も。老人も、そして年若い子供も。
 今回の噂話で、当たり前の現実を改めて認識することになった。

鼻から牛乳

2009-03-21 23:58:09 | そこに転がっている日常
 ここ数日牛乳なんて飲んでいないから、鼻から噴出す失態は犯していないけどね。
 ……それにしても、小学生のとき男子連中にすごく流行ったよねぇ、鼻から牛乳。
 連日給食に牛乳が出るものだから、昼休みに鼻から牛乳を垂らそうと挑む猛者たちが塵芥のごとくわいて出る。しかも、チャレンジャーのうち数人は成功させて鼻から白線流しを決めてしまうんだから、汚いったらありゃしない。
 失敗したってあれだよ、中途半端に鼻まで逆流させるあたりまではやってのけるから鼻が痛いと悶絶する羽目になって、これまた見苦しい。
 成功しても、失敗しても汚い結果しか生まないあんなことに、当時彼らはなんで我を忘れて熱中したんだろう?
 馬鹿だな~、男子小学生。猿だよね~、知性ないよね~、本当に人間なのかね~あいつら。
 まあ、僕も昔はそんな馬鹿な男子小学生だったんだけどさ。

 ……ところで、ふと気になったのだけど、小学生低学年女子って一体どんな生き物なのだろう?
 男子は上に書いたような、明るく愉快なバカで一くくりにできるけど、女子の方はまるで謎だ。ってか、彼女達が小学校にいた記憶があまりない。
 仲間内の人間を、女子便に押し込んでからかったり、覗き行為をしたとバカにした覚えはあるのだけど、女子生徒自体の記憶が不思議と存在しないのだ。
 小学生の中学年から高学年になると、記憶のなかに女子生徒という存在がどこからともなく現れてくるのだけど、それ以前は……一体どこに? 影から男子生徒のバカっぷりをあざ笑っていたのだろうか? いや、それ以前に存在していたのだろうか?
 自分が男だからなのだろうけど、やつらはまったくもって不思議な生き物である。
 

 ……今日は書くことが全然思いつかなくて、それでも無理してこれだけ書いてみた。
 こんなもんでいいのか、自分? とも思うけど、ブログにそれほど心血そそいでもしょうがないのでこれでよしとしよう。

昨日の話の追記、のようなもの

2009-03-20 20:56:35 | そこに転がっている日常
 連日いくつものニュースを見聞きしても、僕はそこで得た情報のことごとくを利用せず、忘却してしまっているような気がする。
 千三つとは人は言うけど、ニュース視聴に関しては万に一つも活きてない。
 こんなの、その情報を得てる意味なんてないよなぁ。
 今日に限らず、我が身を省みると頭が痛いことばかりだ。

 ・昨日の散歩、土地の印象

 昨日は土地の印象について、あまり書かなかったので、書いておこうと思う。 
 
 電車の窓の項目でも書いたけれど、三浦半島は神奈川県の地域である。
 三崎口からふらふらと歩いた見た景色の印象も、これまでに見た静岡や山梨、石川の雰囲気と違って、都心に近い田舎といった感じがした。
 どこがだろう。
 駅からすぐの住宅街も、そこから少し離れただだっ広い畑も、一見した限りは他の地方と同じようなものだった。
 ただ、民家一軒一軒の所有する土地が狭く、広い庭付きの家もなければ家の境界を示すフェンスは貧相なアルミ製で、そう、どこか都会特有のせせこましさが漂っていた。
 だだっ広い畑に関しては、地方ならば地主の家でも見えそうなものなのにそれが見当たらなかったし、畑の間を走る道路も中途半端に薄汚れて、しかしちゃっかしお金がかかっている、妙に統一性のないものだった。
 そんなところに、だろうか、僕が神奈川県っぽいを印象を持ったのは。
 田舎になりきらない田舎。都会ではない地域。あの土地を一言で行ってしまえば、こんなものになるのだろう。 

 ただ、これは僕が昨日の現地滞在時間三時間未満の散歩の後に抱いた漠然とした印象に過ぎず、実際の風景や雰囲気とだいぶ異なる可能性がある。
 あくまで、僕の印象である。